ミヌーテ村の惨劇
「ユリアン。ここから先はお前一人で逃げろ。足の悪い儂と一緒では追いつかれる」
「嫌だよおじいちゃん。一緒に逃げよう!」
「静かに。奴はまだ儂らの逃走に気づいていない。機会は今しかないのだ」
大陸北東部のミヌーテ村では、一人の男によって虐殺が繰り広げられていた。渦中を逃れた一組の祖父と孫が林道の入り口までやってきたが、足が悪く杖をついている祖父のレンネンカンプは、逃げ切るのはもう限界だと悟っていた。まだ子供とはいえ孫のユリアンは健脚で道にも詳しい。ユリアン一人ならば生存の芽があるとレンネンカンプは考えていた。
「このままでは二人とも殺される。だがな、幼いお前が殺されることだけは絶対にあってはならない。お前だけは爺ちゃんが絶対に逃がしてやるからな」
「そんな……おじいちゃん……」
「林道を抜けたら南のシュミットの町へ行け。そこには友人のローレンツという男が住んでいる。厳しいが情には厚い。きっとお前の力になってくれるはずだ」
別れ際に自分が怯えていてはユリアンが駈け出せない。レンネンカンプは必死に自らを律し、ぎこちなく笑顔を作ってみせた。
「さあ、行け! 生きろ!」
レンネンカンプは強くユリアンの背中を押して林道へと送り出し、自分は足を引きずりながら、惨劇の渦中である村の中心部へと向かった。
「……おじいちゃん」
もう助けに戻ることも叶わない。九才の少年には重い決断だったが、祖父の思いを無駄にしないために、今は惨劇の地と化した故郷から、必死に逃げ出すことしか出来なかった。
「どうか落ち着いてくれ。どうして君がこんなことを?」
レンネンカンプは大勢の村人の死体が転がる村の中心で、返り血塗れの男に問い掛けた。男はすでに正気を失っている。大勢の村人を殺害し、すでに説得が意味を成すとは思えなかったが、長年の友人として訊かずにはいられなかった。仮に説得が失敗したとしても、ユリアンが逃げ切るだけの時間を稼ぐことは出来るばそれで本望だ。
「レンネンカンプ。私はこの村の住民を全員殺さないといけないんだ。友人である君も例外ではない」
「いったいどうしたというのだ。君はそんな人間では」
「君が私の何を語る?」
全ては一瞬の出来事だった。長年の友人であったレンネンカンプを、男を容赦なく切りつけた。膝の悪い老齢のレンネンカンプに回避のしようなど無かった。
「ユリアン……」
「安心しろ。可愛い孫も直ぐに送ってやる」
「ライゼン――」
虫の息だったレンネンカンプの背中に、男は容赦なく剣を突き立てた。
※※※
「誰か、誰かー!」
ユリアンは血相を変えて林道を走り抜けていた。何度も転倒し、体のあちこみや打ち身や擦り傷が生じている。靴も片方無くなってしまっているが、それでも決して足は止めずに前へ進み続ける。殺人鬼は村の住民全員の顔を知っている。殺した人数が足りないと知れば、ユリアンを殺しに追って来る。あるいはもう追ってきているかもしれない。とにかく今は助けを求めて走り続けるしかない。
不安が募り、ユリアンは走りながら後方を見やった。幸いにもまだ殺人鬼は追ってきていないようだ。
「えっ? うわ!」
安堵して再び正面を向いた瞬間、前から歩いて来た人物とぶつかりそうになってしまった。全速力から急停止したため、慣性でバランスを崩し、前のめりに転倒しそうになる。
「大丈夫か?」
転倒しそうになったユリアンの華奢な体を、三つ揃えのツイードスーツにハンチング帽、腰には刀を差した洋装の剣客ダミアンが、抱きかかえる形で支えた。すでに体は傷だらけだが、幸いにも新たな傷が増えることはなかった。
「早く、早く逃げなきゃ、殺される」
感謝や謝罪を述べる余裕すらなく、ユリアンはダミアンの腕の中で恐怖に震えている。九歳の少年がここまで追いつめられている。どう考えても異常事態だ。
「殺されるとは穏やかではないな。何があったか私に話してみてくれないか?」
ユリアンを落ち着かせるように、ダミアンは膝をついて目線を合わせた。恐怖で混乱状態にあったユリアンは、正面から向き合ったことで初めて、助けを求めることが出来る大人が目の前にいることに気付いたようだ。上がった息で何度もダミアンと、逃げて来た後方とを見やる。
ダミアンは急かすような真似はせず、ユリアンが自然と口を開くのを待った。ユリアンが何から逃げているのは明白だが、例えその何かが追って来たとしても、ダミアンが側にいる限りは、ひたすら逃げ続けるよりも安全だ。
「……僕、ミヌーテ村から逃げて来たんです」
ユリアンは声を震わせながら重い口を開き、来た方角を指差した。今でも恐ろしくて、村の方向を見ることは出来なかった。
「村長のライゼンハイマーさんが突然、おかしな剣で村の人達を殺し始めて。優しくて、あんなことをする人じゃなかったのに。大人も子供も、おじいちゃんもおばあちゃんも容赦なく。僕のおじいちゃんも……僕が逃げる時間を稼ごうとして……」
己を律して、必死に状況を説明するのもこれが限界だった。自分を逃がすために犠牲となった祖父の顔を思い出し、ユリアンはダミアンに縋るように泣き崩れた。
「おかしな剣で、村人を殺し始めたんだな?」
嗚咽で言葉にならず、ユリアンは頷きだけで肯定した。
「よくここまで頑張った。後は私に任せておけ」
俯くユリアンの肩に、ダミアンが優しく触れた。
「殺人鬼が奇妙な剣を使っていたというのなら、私も立派な関係者だ。失った命は戻せないが、仇くらいは討ってやる」
力強い言葉にユリアンが顔を上げると、それまでは意識していなかった、ダミアンが腰に差していた刀が目に留まる。
「お兄さんは、誰なの?」
「魔剣士狩りだ」
その異名の意味を知るはずもなく、ユリアンは泣き腫らした表情で小首を傾げた。
「直ぐに片をつけてくるから、君はここで身を潜めていろ。後で取りに戻る」
命からがら逃げて来たユリアンにとって、再び一人になることは恐ろしいだろう。戻って来る約束の証として、ダミアンは自分のハンチング帽をユリアンの頭へと深々と被せた。




