十六話 其の十
「ご馳走様でした」
ゼンは両手を合わせ、食事を終えた。右腕は使えないため、左腕だけで食事を摂る。最初は慣れない手つきだったが、食べ終える頃には慣れつつあった。
食事の内容に不満はない。ゼンがいつも口にする料理よりも、遥かに手が込められている。味も手間と比例して文句の付け所は見当たらない。唯一、不満があるとすれば、それは食事の量だ。
女性と老人の量を基準としているため、ゼンにとっては物足りないのだ。同じ料理がもう一人前あっても、腹に入る程度には余裕がある。
客人の立場であるため、ゼンはいつものように腹一杯食うことができずにいた。彼にできることは、目の前にある料理をゆっくりと堪能することだけである。
「さてと、俺は寝るよ。
流石に疲れた」
「じゃあ、寝床のある部屋を案内するわ」
「さっきの部屋でいいよ」
「けど、あそこには……」
「雨風を凌げるだけで十分だ」
「毛布も……」
「外套がある。今の時期なら野宿でも死にはしない。それに、屋内だからな。暖かすぎる位だ」
ゼンの発言は強がりでもなく、彼の本音だ。野宿生活に慣れている彼からすれば、雨風を凌げる屋内で寝ることができるのは極上の環境といっても過言ではない。
自室に割り当てられた部屋に戻り、ゼンは椅子に座った。椅子は中身がぎっしりと綿で詰められ、張りのある弾力がある。長さもあり、横に座れば三人は詰めることが可能だ。彼の体は椅子に沈み込むように落ちていく。
既にゼンの目は塞がりかけていた。振り返るまでもなく、この一日は肉体的にも精神的にも非常に負荷がかかっている。疲労が溜まっていない方がおかしい位に。
疲労でくたびれた体に、少量とはいえ食事も与えられた。ゼンの体は睡眠状態に突入しかかっていた。その状態に抗うだけの体力も精神力も、今の彼には残っていない。
屋内にいるという安心感も、彼の体を眠りに近づけていた。急な気温の変化や外敵に気を配る必要もない。硬い地面を背にして、朝に痛みで起きる事もない。
気付けば、ゼンは深い眠りの中に入り込んでいた。
ゼンが眠り込んでからしばらくして、部屋の扉を叩く音が響く。いつもの彼であれば、即座に眠りから覚めるはずだ。が、この日に限っては、彼は眠りから覚めることはなかった。何もなかったかのように、心地よい眠りに付いたままである。
「入るわよ」
リホノは扉を何度叩いてもゼンの反応がないことから、意を決し扉を開けた。部屋の中は暗く、耳をすませばわずかに彼の寝息が聞こえる程度だ。
「ゼン?」
リホノは寝息の聞こえる方へと進む。進んだ先にゼンはいた。彼は椅子を寝床代わりにして、既に眠っていた。寝息を立て、声を掛けても起きる気配は一向にない。
外套を毛布代わりにすると言っていたが、外套は彼の体に掛かっていない。別の椅子に掛かったままだ。リホノは彼の外套を取ると、彼に掛ける。
「おやすみ」
静かにそう言い残すと、リホノは部屋から出て行った。
「んが」
窓から入る朝日によって、ゼンは目を覚ました。自然と起きるまで寝ていたのは久方ぶりだ。彼が上体を起こすと、外套が地面に落ちる。
ゼンはふと、自身が外套を掛けていたかと疑問に思った。昨晩の記憶は、食事を終え、この部屋に戻ってきた所で終わっている。そこから先の記憶は、今この瞬間だ。
ゼンは立ち上がり、窓際に進む。朝日を浴び、背を伸ばす。右腕の痛みはまだあるが、日常生活に支障があるほどではない。左腕しか使えないのは非常に不便だが、こういった経験は彼にとって慣れたものである。
ゼンは扉を開け、部屋を出る。
「あら、起きたの?」
扉を開けた、すぐ右方向にリホノがいた。もう少し、扉を開けるのが遅ければ、衝突していたかもしれない。
「ああ。
お陰でゆっくり休めた」
「ちょうど、起こしに行くところだったの。お医者様が来てくれたの。経過観察だって。
案内するわ」
リホノは踵を返し、別の部屋へとゼンを案内する。彼女の数歩後を彼は歩く。目を覚まして頭が働き始めるのに比例して、右腕の痛みも浮上してきた。
まだ無視できる程であるが、痛みの少ない内に包帯の取り換えも行っておきたかった。
「先生、よろしくお願いします」
昨日とは別の部屋に通された。医者も既に準備万端といった具合である。既に机の上には、新品の包帯が置かれていた。それに消毒薬もだ。薬の独特な匂いを微かに感じ取ることができる。
「おはようございます。
傷は痛みますか?」
「少し痛む」
ゼンは裾をまくり、右腕を差し出す。
「今日は一応、他にも怪我がないかを確認します。
上着を脱いでもらってもいいですか?」
おっと、リホノ。
悪いが、少し席を外してくれるか。むさ苦しい上半身裸の男なんて目にしたくないだろ」
「そんなこと気にしなくてもいいのに」
リホノはぶつぶつと文句を言いながらも、部屋から出ていく。扉が完全にしまったことをゼンは確認する。
「それじゃあ、よろしく頼みます」
ゼンは上着を脱いだ。
「これは……」
医者は絶句した。ゼンの体に刻まれた幾多もの傷跡を見て、言葉を失ってしまった。
「小さい傷はあるが、どれも近い内に治るさ。
それよりも、こっちだ」
「しかしだね、そうはいっても。
全身、傷跡だらけじゃないか。よく死ななかったものだ。
特に、この腹の傷。これはまだ比較的新しいものだ。他の傷と比べると一目瞭然だ。
一体、何をしたんだ」
「腹に穴が開いたから、火薬で無理やり塞いだだけだ」
「そんなことを!本当によく生きてこれたものだ。
それよりも、今は、右腕の傷を見よう」
医者は包帯を解き、ゼンの右腕をじっくりと観察する。解かれた包帯には、小さな赤い染みができていた。
「ふむ、化膿はしていない。
言われた通り、右腕は使ってなさそうだね」
「一日でも早く、この不便な生活から解放されたいからな」
「うむ。もう服を着てもらっていいよ。
そのままでは体が冷える。
後は薬を塗って、包帯を取り換えるだけだ」
「傷はどれくらいで塞がりそうだ?」
医者はゆっくりと話し始める。
「そう遠くない内に……としか言えんな。
医者としては、腕の傷が治ってもしばらくは休んでおいて欲しいのだが」
「善処はするよ」
ゼンは上着を羽織る。右腕の部分だけを捲り、包帯を手に取った。医者は傷口の部分に薬を塗り、手を拭う。その間に、ゼンは医者の手を借りることもなく、一人で包帯を巻いていく。
「よし、こんなもんか」
扉を叩く音がした。
「もう入っていいかしら」
「構わんよ。もう診察は終わったからな」
その言葉を待っていたと言わんばかりに、リホノはすぐに扉を開けた。手には盆を持っている。盆の上には水瓶と飲むための容器が乗っていた。
「先生、お疲れ様でした。
傷の具合はどうです?」
「この具合なら、そう時間はかからないでしょう。それに、私がいなくとも彼なら一人で何でもやれるでしょう。
まあ、腕の傷が癒えるまではしっかりと面倒を見ますよ」
既にゼンは外套を羽織っていた。右肩を回し、腕の調子を確かめている。
「そんなに動かしたらまた傷が開くわよ」
「動かしているのは肩回りだから大丈夫だ」
子供のような言い訳をするが、ゼン本人は至って真面目である。実際に肩を動かすことで、周辺の筋肉や骨に異常がないかを確認するためでもあった。
「よし」
ゼンは腰を上げ、体を伸ばす。体中のあちこちから骨の鳴る音が響く。その音はゼンだけでなく、リホノや医者の耳にも聞こえる程であった。
「それで、俺はこれから何をすればいい?
頭脳労働よりかは肉体労働の方が得意なんだが」
「あなたの今日の仕事は、体を休めることよ」
「そうだね。
少なくとも今日一日は、ゆっくりと休んでくれたまえ」
二人からの圧力に対抗する気概を、今のゼンは持ち合わせていなかった。
ゼン自身もまだ全快と言えるほど回復はしていなかった。熱や寒気はないものの、どこか体に不調を感じる。その原因にも心当たりが多すぎて突き止めることもできない。
こんな時は寝るに限る。このまま起きていても回復には向かわず、不調が続くだけだ。
ゼンは部屋に入るなり、直ぐに寝床へ向かう。彼の寝床はベッドではない、椅子だ。椅子に転がるなり、彼は瞼を閉じる。
「今日はもう寝るの?」
机の上にあるポーチから声がする。
「ああ。
体の調子がいまいち整わん。リホノからも休むように言われたからな。今日は大人しくしておく」
「うん、それがいいよ。
普段から無茶しすぎなんだよ、ゼンは」
「ああ。だから休む。
今日は自由に外に出ていいぞ。俺は寝る」
既にゼンは眠気を感じている。エアの声がなければ眠りに落ちていたに違いない。
「私も今日は寝るよ。
色々あったし、私も疲れた。それでいいよね?」
ゼンからの返答はない。エアに聞こえるのは彼の静かな寝息だけである。
「おやすみ」
ゼンは夢を見ていた。夢の内容は憶えていない。ただ嫌な夢であったことは確かだ。彼の額に背中に纏わり付くような、気持ちの悪い汗がその証拠である。
「ふー」
ゼンは椅子に腰かけ、深く深呼吸をする。ようやく目と頭が冴えてきた。まずはこのべたつく汗を流すのが先決だ。今が昼なのか、夜なのかも把握できないが、外に出ればわかる話だ。
机の上ではエアが寝ている。気持ちよさそうに寝ており、起きる気配は一向にない。このままあの場所で寝ていても、誰かが出入りする可能性は低いだろう。
それに加えて、部屋の中は寝るために暗くしている。誰かが部屋の中に入っても、エアの姿を視認するのは難しい。
エアを部屋の中に放置し、ゼンは外に出る。不思議なことに屋敷の中には彼以外の人間はいなかった。太陽はまだ沈んではいない。沈みかけているが、まだ完全に沈むまでには時間がある。
陽が沈めば水浴びはできなくなる。それまでに水のある場所を探さなければならない。
幸いにも井戸はすぐ近くにあった。井戸から水を汲む、まずは口に放り込む。乾いた体に冷たい水が浸透していく。続いてもう一杯を流し込む。
「あぁぁ」
ようやく喉の渇きが収まった。次にゼンは上着を脱ぎ、頭から水を被る。
水が滴り、汗と一緒に不快な感情までもが流れていくように感じる。陽が沈む前で本当に良かったと、ゼンは改めて痛感した。体が冷え始めている。彼は体を大きく震わせ、水を飛ばす。側に置いて置いた上着を羽織る。
「ふー」
眠気は完全に取れた。体に残っていた疲労感も、大半がどこかへ消え去っている。これで右腕が使えれば、あとは何も言う事がないのだが。
「おや、目を覚まされましたか」
背後からの声に、ゼンは振り向く。視線の先には老執事がいた。
「ぐっすり眠れたよ」
「もう少し起きるのが遅ければ、お嬢様が起こしにいっておりました」
「それは……起きていて良かったよ」
「私は今から夕飯の準備をするのですが、ゼン様はいかがなさいます?」
「左手だけで手伝えることがあるなら、言ってくれ。
できる限りは力になろう」
「それでは水汲みをお願いできますか。
老体に往復は堪えるものがありますから」
「任せてくれ」
「その前に、体を拭く必要がありそうですね。
少々お待ちを」
老執事はゼンの前から姿を消した。しばらくすると、彼の前に再び姿を現した。手には手拭いを持っている。
「これをどうぞ」
「すまんな」
ゼンは手拭いを受け取ると、濡れた体を拭いていく。
「水は何処まで運べばいい?」
「申し訳ありませんが、台所までお願いいたします。
二回、いえ。四回ですね。
お手数をおかけしますが」
「飯と寝る場所を提供してもらっているんだ。これ位のことはやるさ」
ゼンは左手だけで器用に水を汲みだした。