十六話 其の四
ゼンがリホノの屋敷から去ると、眩い太陽が彼をお迎えしていた。余りの眩しさに彼は手で太陽光を遮る。既にそれなりの時間が経っているようだ。
往来にはそれなりの人もいる。各々は談笑を楽しみながら道を歩く。その中ゼンは一人、宿屋へ向かう。
「戻ったぞ」
部屋に戻るや否や、エアがゼンの胸元に飛び込んできた。
「あの女の人と会ってきたんでしょう」
どうしてこういう時の勘は凄まじく冴えているのか、それも異常なまでに。ゼンは表情には出せないものの、頭の中ではどうやってリホノのことを説明するか悩んでいた。
何を言っても激しく追及されることは避けようがない。
「どうしてわかった?」
「服からあの人の香りがするもん。いい香りだよね、ちょっと甘いというか心が安らぐというか。
それでどうだったの?」
エアがは早口で問い詰めてくる。
「どうって……。
会って、少し昔話をしてきただけだ」
「うんうん。
それで、それで」
「それでって、それだけだが。
ああ、それと明日はこの村を発つぞ」
「うん、明日ね。じゃあ、私はここで待っておくね。
って、明日?」
エアが驚きの表情を浮かべながら尋ねる。
「明日だ。
物資を調達する手筈も整っている。彼女の屋敷で物資と金を交換だ。それが済んだら、出る」
「ゼンはそれでいいの?」
「どういう意味だ?」
「折角、昔のゼンを知っている人がいるのに、もうオサラバするなんて。
私のことなんて気にしなくていいから、気が済むまでこの村で過ごしてくれていいんだよ」
「何もお前のことを気にしてここを発つ訳じゃない。
ただ、目的を達成したからここに残る理由がないだけだ」
「目的って、水や食べ物を補充すること?」
「それ以外に何がある」
ゼンとエアの感情は対極状態にあった。エアは熱くなる一方だが、彼はどこまでも冷静なままだ。普段と変わらぬ様子でエアを諭すように話す。
「ゼンは……本当にそれでいいだね」
「――ああ」
ゼンは素っ気なく答える。
「……そう。
わかった。ゼンがいいなら、私もそれでいいよ。
私、ちょっと外に出てくる。人には見つからないようにするから大丈夫だよ」
「明日の朝までには帰って来いよ」
エアは返事をすることもなく、窓辺から飛び立って行く。
こうなると、時間だけがゼンの元に残った。まだ眠気が残っていたためゼンはベッドに入り、もう一度寝ることにする。目を閉じるまでは眠れるか不安だったが、いざ視界を閉じてみるとその不安は瞬く間に消えてしまった。
次にゼンが目を覚ますと、既に辺りは暗くなっている。それなりの時間を寝たはずなのに、まだ眠気が体の中に残っている感覚がした。
ゼンは立ち上がり、周囲を見渡す。まだエアは帰っていない。恐らく、出て行ったきり戻ってはないのだろう。
頭が働いてきたことにより、ゼンはとあることに気付いた。眠っていたことにより、まともな食事を摂っていないことに。一度空腹に気づけば、そればかりが気になってしまう。この空腹状態のままでは寝ることすらできない。
ゼンは遅めの夕食を取りに扉を開ける。宿屋の主人は椅子に座っていた。彼を見るなり立ち上がる。
「夕食を頼みたいんだが、まだ大丈夫か?」
「ええ。
量はいかほどに?」
昨日、ゼンが二人前を綺麗に平らげたことを店主は憶えていたのだ。
「昨日と同じくらいで頼む」
エアがいつ帰ってくるかは不明だが、また余った分を置いておけば文句は言われまい。
そんなことを考えている内に、ゼンの眼前に夕食が置かれた。夕食が出される前から食欲をそそる香りが漂ってきている。その香りだけで、ますます食欲が刺激される。
ゼンは手を合わせると、口一杯に頬張る。今は口うるさいドラゴンもいないため、黙って食事に集中できる。昨日の時点からわかってはいたが、美味い。噛むたびに素材の旨味が出てくる。飲み込むと同時に次の分を口に放り込む。
気づけば、昨晩と同じように二人前の夕食をゼンは綺麗に平らげていた。流石に二人分の食事は腹に来るものがある。美味いが故に残すこともできず、全てを胃の中に収めてしまったが結果がこれである。
ゼンは水を喉に流し込む、手を合わせる。
「ご馳走様でした。
悪いが、夜食用にもう少しだけ作ってもらうことはできるか?」
「はい、わかりました」
「そうだ、それと。
明日でこの村から発つことになった。世話になったな」
「そうですか。
では夜食分は私からの選別ということにしておきましょう」
「いいのか?」
「これだけ使って下さったので、せめてものお礼です」
「――そういうことなら、ありがたく受け取っておくよ」
ゼンは夜食を受け取り、自分の部屋へと帰って行った。部屋に戻っても、まだエアの姿は見えない。
「はぁ」
ゼンは貰った夜食を机の上に置く。こうしておけば、エアの好きな時間で食べることができる。朝になってから、文句も言われることはないだろう。
ふと、ゼンは足を止めた。何かが欠けている。彼の中で何かが釈然としない。違和感の原因はまだ判明していない。彼の頭の中で答えを求める堂々巡りが始まった。
ゼンの長考は、外部からの邪魔によって破られた。扉を叩く音が聞こえた。誰だがは不明だが、訪問客だ。この宿屋に滞在していることを知っている人物はいないはずだ。それとも他の客目当てで、部屋を間違っているだけか。
「誰だ?」
応答はない。人違いなら、声を出せば気付くはずである。再度、扉が叩かれた。どうやら、部屋違いではないようだ。
ゼンは恐る恐る扉へと近づいて行く。殺気は感じられないが、安心することはできない。彼の右手は自然と腰元のナイフへと伸びていく。
ない。あるはずの物がそこにはなかった。常に腰元に刺している愛用のナイフがない。ゼンが感じ取っていた違和感の正体はこれだったのだ。
扉の前にいるのは敵か味方か、一人か複数人か。ゼンが把握している事実は一つもない。武器がないのは心細いが、このまま放っておくわけにもいかない。彼は意を決し、扉を開ける。
扉の前に立っていたのは、意外な人物であった。
「リホノ……さん?」
「お久しぶりまでもいかないわね」
「どうしてこんな所に」
「これを忘れていたから」
リホノはそう言って、一本のナイフを差し出した。白く綺麗な線の細い腕からは似つかわしくない無骨なナイフだ。間違いない、ゼンの愛用のものだ。
「これを何処で」
「私の家に。
あなたが座っていた椅子に埋もれていたから」
「そうか。
わざわざご足労かけて申し訳ない。何かお礼をといいたいところだが、生憎と貴方が喜びそうなものを持っていないんでな」
「お礼なら、部屋に入れてくれるかしら?
外を歩いたせいで体が冷えてしまって」
ゼンは一瞬、静止した。
「――どうぞ」
ゼンはリホノを招き入れる。
「あっ、そうだ。
忘れないうちに返しておきます」
「どうも」
ゼンはリホノから愛用のナイフを返してもらった。彼はすぐさま、いつもの定位置である腰の辺りに刺す。腰にいつもの重量が戻った。
どうして今まで気付かなかったのか、と思う程に体に重さが馴染んでいる。武器の重さがゼンの心の安寧にも繋がっていた。いつでもどこでも、すぐに使える武器というものは重宝する。それが、自分の手に馴染んでいるものであれば猶更だ。
「それじゃあ、お邪魔します」
部屋に見られても不味い物は隠していないはずだ。部屋に置いているものといえば、有り余るほどの武器だけだ。それ以外には、必要最低限の物しか置いていない。
「どうぞ座ってください。
貴方の家の椅子と違い、座り心地が悪いかもしれませんが」
「あら、ご丁寧にどうも」
リホノに座るように勧めたが、ゼン自身は立ったままだ。
「あなたも座ったら?」
「この部屋にある椅子は、それ一脚なんです」
ゼンは壁にもたれかかった状態で話す。
二人の会話はそれっきりで、終わってしまった。無言の重圧に耐え切れなくなったのは、ゼンであった。
「体が冷えてるんだったよな。
待っていてくれ、何か貰ってくる」
今、この場にエアがいなくて助かった。エアがいれば事態はもっと深刻になっていたに違いない。エアがいつ帰ってくるかも不明だ。その状態で、リホノを一人この部屋に残しておくのは非常に普段だが、可能な限り早く部屋に戻る以外に道はない。
「この部屋、何もないね」
「ん。
まあ、宿ならこんなもん……ですよ。それとも、お嬢様だから、こんな宿は初めてでしたか?」
「そうじゃない。
私が言っているのは、貴方の私物がないってこと」
「一人旅ですから、減らせる荷物は減らさないと」
「そのくせ、武器だけは大量にあるのね」
リホノは微かに視線を動かす。動かした視線の先には、ゼンの武具があった。確かに、彼女の言う通りである。武器の量は一介の旅人が持つには多すぎる。傭兵といえども、これほどの量を持っている者はそういないだろう。
「何かと物騒なもんで。
食べ物や水と違って、腐ることもないですし」
気づけば、ゼンが問い詰められている形になっていた。壁を背にしたのは間違いだったと、彼は反省した。この部屋に逃げ場所はない。自分が部屋から出ていくか、リホノが出て行かない限りは。
「暖かい飲み物を貰ってきますから、ここで待っていて下さい」
今度は呼び止められることはなかった。
「ふー」
ゼンはため息をつく。自分の部屋のはずなのに、一向に心が休まらない。
それに加えて、いつエアが帰ってくるかもわからない。リホノには悪いが、早めに退室してもらうしかない。
「悪いが、暖かい飲み物を貰えるか、二人分」
店主はまだ起きていた。まだゼンが平らげていた分の皿を洗っている。
「かしこまりました。
珍しい来客ですね」
「どう対応したらいいのか迷っている最中だ」
「どうぞ」
そう言って、店主は二つのカップを差し出した。カップからは良い香りが漂ってきている。色は薄い茶色をしていた。色付きの飲み物を飲む習慣がないゼンにとっては、少し飲むのが躊躇われる。
「心配しなくても毒は入っていませんよ。
これは遠くの地から入ってきた飲み物でして、飲むと心が落ち着くらしいですよ。
これを飲んで、落ち着いて話し合って下さい。
今日は幸いにもあなた以外に泊まってらっしゃるお客様はいないので、多少騒いでも大丈夫ですよ」
「そうならないように、心掛けます」
ゼンはカップを持ち、自身の部屋へと戻っていく。
「お待たせして申し訳ない」
リホノはまだ部屋にいた。ゼンがいない間に、自身の家へと帰っているかもしれないという一抹の希望は打ち砕かれた。
「ありがとう。
ねえ、物は相談なんだけど」
「悪いが、ここに留まることはできない。
目的地がある訳じゃないが、一つの地に定住しないことにしているんだ」
「――そう。それは残念」
そこからは、互いに無言で飲み物を頂く。
「ご馳走様でした。
それじゃあ、また明日」
「ああ。よろしく頼みます」
そう言って、リホノは部屋から去っていた。残されたのはゼンと、二つのカップだけである。