十六話 其の三
「ふぅ。
ご馳走様でした」
ゼンは静かに手を合わせた。目の前には、料理の載っていない皿が置かれている。
ゼンはエアの分も忘れ、二人前をあっという間に平らげてしまった。まだ胃に余裕はあるが、既に腹も心も満たされている。これ以上、無理に食うこともない。
「お口に会いましたかな?」
「見ての通りだ。
悪いが、もう少し貰えるか。夜食用に取っておきたいんだ」
「そんなに食べて、お腹は大丈夫ですか」
「生憎と、体は頑丈なものでね」
「夜食は消化のいいものにしておきましょう」
「助かる」
夜食を食べるのはゼンでない。そこまで気を遣う必要はないのだが、ここは店主の心遣いをありがたく受け取ることにする。
既に部屋を出てからそれなりの時間が経っている。今頃、エアは部屋の中で文句を言っているに違いない。手ぶらで帰れば、文句の砲口はゼンに向く。
美味い物を食って折角いい気分になっているのだ、エアの小言でその気分を損なわれたくない。加えて、食欲を満たしたことにより、睡魔がゼンを襲い始めている。
今ならばベッドに入れば、あっという間に夢の世界に誘われるだろう。どうせ、この後でやるべきことはない。明日も特にこれといった用事もない。今はただ、柔らかいベッドの上で眠りたい、ゼンの頭はそれで一杯だ。
「んがっ」
ゼンは目を覚ました。外部から衝撃を加えられた訳でもなく、悪い夢を見た訳でもない。ただ、自然と目が開いた。眠気も疲れも感じない。よほどぐっすり寝ることができたのだろう。
昨晩の記憶が曖昧だ。特に部屋に戻ってからの記憶が思い出せない。エアに晩飯を持って帰って来て、何か言われた気がする。問題は、内容が一切思い出せないことだ。
「まあ、いいか」
エアの言うことだ、重要ではないだろう。ゼンはそう自分に言い聞かせる。彼はベッドから立ち上がり、机の方に向かう。机の上にある水瓶から水を注ぎ、一気に飲み干す。続いてもう一杯、喉に水を流し込む。
三杯目を飲もうとゼンは手を伸ばすが、その手は途中で止まった。思っていた以上に体が冷えていた。既に一日を通しての気温は下がりつつある。以前と同じような行動をしていれば、体を壊すことは避けられないだろう。
「エ……」
ベッドで寝ているエアの姿を見て、ゼンは声を掛けるのを止めた。気持ちよさそうに寝居ている。こういう時は、放っておくに限る。下手に起こすことはない。
「ふぅ」
ゼンは体を伸ばし、窓際へ近づく。まだ太陽が昇り始めたばかりで、村の中は静かだ。道を行き交う村人も見えない。
ゼンは静かに扉を開けると、宿屋を出ていく。向かう場所は決まっている。昨日は通りがかっただけの、あの大きな木の下だ。
そう遠くない距離をゼンは、ゆっくりと歩く。周りに人影もいないため、じっくりと街中を見ることができる。過去の思い出に浸る間もなく、彼は目的地に着いた。
ゼンは木に手を掛ける。改めて見ても、かなりの大きさだ。それにかなりの年数を感じる。今はまだ葉を付けているが、その光景も今だけのものだ。
木には二本の横傷が入っている。よく見ないと、見逃してしまう程の小さなものだ。傷の横には、不格好な二つの名前が彫られていた。“ゼン”・“リホノ”と。リホノと彫られた傷の方が高くに付けられている。
「ゼン?」
ゼンは背後からの声に驚く。すぐさま振り返り、声の主を確認する。彼の右手はナイフを握っていた。
「リ……、あなたですか」
「やっぱり!
ここに来たってことは……。やっぱり、私の間違いじゃなかったのね」
リホノは一人で納得したような顔を見せる。一方のゼンには、表情の変化はない。ただ、右手はナイフから離れていた。
「あなた、ここに来たのは初めてじゃないでしょ。それに私とも初対面じゃない。
昨日は嘘をついたのか、それとも思い出せなかっただけなのか、私にはわからないけど。
ここに来て、それを見ているってことは、今は思い出したのね」
ゼンは何も応えない。これ以上何を言ってもリホノの追及を逃れることはできないだろう。むしろ、彼女の確信を深めるだけになってしまうに違いない。
「憶えてる?」
「何を?」
「これを刻んだ時のこと」
「ああ、少しはな。
誰かさんが、俺のことを字が書けないと思っていたが、字を書けたことに怒ったこと。
それを宥めるために、俺の名前をその誰かさんに書かせたこととかな」
ゼンもリホノも、僅かに口角が上がっている。
「そんなことまで憶えていたの?
あの時は、小さかったから。それに、ゼンだけだったのよ、字の読み書きができたのは。周りにいる年の近い子供たちは、誰もできなかった」
「小さい時、両親に叩き込まれたんだ。商売をする上で必要不可欠だって言われて。
当時は泣きながら必死に覚えたもんだ。今となっては、感謝してるがな」
「ご両親はどうしているの?
今は、ゼン一人だけで商売をしているの?」
「両親は死んだ……。ずっと前に。
今は一人で旅をしてる。商売目的じゃなくて、当てのない旅を」
「変なこと聞いてごめんなさい」
「いや。どうせ人は死ぬんだ。それが遅いか早いかだけの違いだ」
ゼンの顔から笑みは消え去っている。感情の起伏もなく、淡々と事実を語った。
「こんな所で立ち話も何だし、お屋敷に来ない?
歓迎するよ」
リホノは話題を変えようと話を逸らす。
「遠慮しておくよ。
俺みたいな小汚い格好の奴が屋敷に入っても、誰からも歓迎されない。
お前が変な目で見られるだけだ。俺はまた違う街に行くよ」
「いいから!
年上の言うことは聞くものなの」
リホノはゼンの手を強引に取る。彼はその手を振り払うこともできたが、何故かそうする気にはなれなかった。
「ほら、こっちこっち」
リホノは振り返らずにゼンのことを先導する。彼女はまだゼンの手を握ったままだ。力も強い。まるで大切な宝物を紛失しないために握りしめるように。
朝が早いのが幸いした。道中の光景を人に見られることは少なかった。村人に会った際、リホノはその屈託のない笑顔を見せるが、ゼンは目を合わそうとせず俯きがちになる。
リホノの家は、遠くから見てもその存在感を発揮させている。一目見ただけでも、この家の住人は一般人ではないことが窺える。家の周りを塀で囲んでおり、不審者を侵入させないための門まで拵えてあった。
その門も外部からの招かれざる客を防ぐには有効だが、中からの脱出には無意味らしい。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
リホノの姿を見るや否や、門はすぐに開けられた。中から初老の男性が出てくる。
「その隣のお方は?」
「私の客よ。
通して」
「ははっ」
「さあ、こっち」
ゼンが口を挟む隙もなく、話は進んでいく。もはや引き返せぬ所まで進んでいる。
屋敷に入ったところで、ゼンとリホノは別れた。彼女は自分の部屋へと、彼は先程の初老の男性に導かれ、応接間に招かれた。
応接間には、ゼンの生活とは縁遠い家具が置かれている。豪華な装飾を施された椅子や机、使用方法の分からない雑貨などもある。判別ができるのは、そのどれもが高価な物である、ということだけだ。
手持無沙汰なゼンはとりあえず椅子に座ることにした。椅子もしっかりと綿が詰められている。宿屋に置いている安物の木の椅子とは比べ物にならない。一度、腰を落ち着けると、二度と立ちあがれなくなりそうだ。その心地よさが、彼にとってはむしろ、落ち着かない原因となっている。
「失礼します」
応接間を仕切る扉が開けられた。開けた先には先程の男性が立っている。
「待っている間、こちらをどうぞ」
男性は水を差しだしてきた。
「ありがとうございます」
ゼンは無下にするのも悪いと思い、黙って受け取る。丁度、慣れない環境で喉も乾いていた所だ。リホノが来るまでここから解放されることはない。ゆっくりと彼女を待つことにする。
ゼンが水を飲み干した頃であった。
「お待たせーっ!」
扉が力強く開けられた。そこに立っていたリホノは、軽く息を切らしていた。加えて、服装が変わっている。
「快適に過ごさせてもらってるよ」
ゼンは腰を上げようとする。
「あー。
そのままでいい、そのままで。
立ったていたら、長くお喋りできないでしょ」
ゼンが何かしら理由を付けて早々に立ち去ろうとしていることを察したのか、リホノは逃げ道を塞いできた。
ゼンは再び座り心地の良い椅子へ腰を預ける。体としては楽なのだが、やはりどこか精神的に落ち着かない。
ゼンと向かい合う形で、リホノも椅子に座る。同じ部屋にいるはずなのに、彼女が入ってきたことで部屋が華やかに見えた。それだけではない。僅かにだが、良い香りもする。心が落ち着くような安らかな香りだ。
「さあ、何から話しましょうか」
「何でも」
ゼンは遂に腹を据えた。彼女の前から立ち去ることは、彼女を殺さない限りでも不可能だ。彼女の気が済むまで、話に付き合うしか他ない。
「今は一人で旅しているって言ってけど、どこか目的地はあるの?」
「……ないな。
ただ、気のゆくままにあてのない旅を続けているだけだ」
「ここに来たのも偶然?」
「ああ。
正直言って、この村に入っても昔のことを完全には思い出せなかった。ようやく昔のことを思い出すことができたのは、お前の顔を見てからだ」
「それって、口説いてる?」
「冗談はよせよ」
「冗談じゃないって言ったら?」
「その首から下げているやつ、もしかして……」
「あら、憶えていたの?
私の顔すら忘れていたんだから、てっきり憶えていないかと思っていた」
リホノは微かな笑みを浮かべながら、ゼンにそう返す。
「随分とねちっこく責めてくるな」
「あなたみたいな鈍感な人でも、これなら気付くでしょ」
リホノは首飾りを外し、ゼンに手渡す。その首飾りは彼女の瞳と同じ青色をしている。大きさも彼女の瞳と同じ位の涙型の首飾りだ。
「あなたが売ってくれた、幸運のお守り。
まさか、幸運が訪れるのがずっと後になるとは思ってなかったけどね」
「俺が初めて売った商品だ。
実を言うと、幸運のお守りなんてのは嘘だがな」
「嘘だったの?」
「ああ。
俺がたまたま、色が綺麗だからって理由で拾っただけの、ただの石だ。
偶然にも、石と君の瞳の色が同じだから売ったんだ。幸運のお守りなんてのは、その時に思いついた嘘だ」
「まあ、酷い人」
「それについては、反論できないな
さて。それじゃあ、そろそろお暇するよ」
ゼンは心地の良い椅子から立ち上がる。リホノも油断していたのか、彼を止めることができなかった。
「えっ。もう行くの。
まだゆっくり過ごせば……」
「明日の準備もあるしな」
「明日、何処かへ行くの?」
「この村を発つ」
ゼンの言葉に迷いはなかった。既に彼の決意は固まっていた。それを変えることは誰にもできない。
「どうし」
「どうしても何も、いつもこんなもんだ。
この村に寄ったのも、元々は水や食料を調達するためだ。それが達成できれば、もうこの場所にいる理由はないからな。
悪いが、物資の交換できる場所を教えてくれないか。金も物品もそれなりにはある。
量も大量じゃなくてもいい。次の村か町に着くまでの分だけでいいんだ」
リホノの顔から微笑みが消えた。
「ええ、それなら私と取引をしましょうか、ゼンさん。
生憎、それほど量はありませんが。
私の家に備蓄している食料と水をお渡しします。対価は、現金でも現物でもいいですよ」
「現金でお願いします」
「わかりました。
物は明日までに用意しておきます。受け渡しはここでいいかしら?」
「ええ。明日、馬を引き連れて来ます。
それでは、私はこれで」
ゼンは席を離れる。今度は、彼を引き留める声は聞こえない。微かに聞こえるのは、何かを押し殺す様な声だけだ。
応接間から出たゼンを迎えたのは、彼をここまで案内してくれた初老の男性だ。
「お嬢様は悲しんでおられますよ。
折角のご来客が立ち去ってしまうのに」
「それを癒せるのは俺じゃない。
俺じゃなくとも、もっと他にいるだろ」
「少し前にご両親が亡くなられて。それ以来、笑うことがあってもそれは表面だけ。
心から笑われたのは、久方ぶりでした」
「ご主人様の話を盗み聞きするとは、随分といい性格をしているな」
「老い先短い老人としては、娘同然のお嬢様の身が心配で心配で。
誰か、信頼できる人物と一緒になってくれればいいのですが」
「身元もわからない只の旅人には荷が重いぜ」
「周りが何と言おうとも、こればっかりは本人の意思が重要ですからな。
お嬢様は、自身の意思を貫く強さをお持ちです。あなたはどうですかな?」
「……ご期待には応えられないな。俺には、そんな強さはない。自分一人の身を守るだけで精一杯だ。
それじゃあ、俺はこれで失礼します」
ゼンはこれ以上何かを言われないためにも、早々にリホノの屋敷から立ち去った。