十五話 其の二
「どうだ。
食欲は戻ったか?」
「ううん。全く戻ってない。
それどころか悪化してる。さっきのせいだよ。折角、忘れかけていたのに」
ゼンはまさに夕食を作っている最中だった。まだ肉はないため、様々な野菜を入れたスープがその日の晩飯である。エアからすれば幸いだったのかもしれないが、ゼンからすれば少し物足りない食事となってしまった。
体を元の調子に戻すためにもゼンは肉が欲しかった。動物でも魚の肉でもいい。ただ、ゼンは腹一杯肉を頬張りたかった。水の問題が解決した今、先を急ぐ必要もない。いっそのこと、しばらくの間はここに拠点を構えるのも悪くないかもしれない、そう考える彼がいた。
動物を狩るのは難しくとも、魚であれば釣り上げるのは容易い。魚が釣れるかは別の問題になるが。釣り糸を垂らしておけば、一匹や二匹程度は釣れるだろうというゼンの楽観的な予測の上だが。
「食欲はなくても腹に何か入れておけよ。
何も食べないと余計に苦しくなるだけだからな」
「はーい。
まあ、お肉は入ってないみたいだからいいか。
って。味薄っ。
これちゃんと味付けしている?全然味がしないんだけど。野菜の味しかしないよ」
「生憎と調味料も尽きかけでな。無駄遣いはできないんだ。
それに肉も入れてないから味が薄いのは当然だ。素材の味を堪能してくれ」
「調味料は採取できないの?」
「採取はできる。が、この辺の地理には疎くてな。それに見たことのない物もある。試しに口に入れて、それが毒性の植物だったら笑うに笑えないぞ」
“毒”という言葉に、さしものエアも口を閉ざした。腹を満たすための食事に命を懸けるのは馬鹿げている。
「安全に見分ける方法ってないの?毒のあるものかないものか」
「あるぞ」
「どうやるの⁉」
「簡単な話だ。
それなりの店で金を払えばいい。そうすりゃあ、確実に美味い調味料が手に入る」
「そういう話じゃなくて」
「実際にそれが確実で安全な方法なんだ。こんな道中で動けなくなったら、それこそ終わりだ。
あとは所掌危険を伴うが、少量を舌に乗せて経過を見る位か。
言っておくが、絶対にやるなよ」
舌を出しているエアをゼンは目で刺す。
「ま、まさか。
そんなことしないよ。ゼンじゃないんだから」
「ああ。やらない方がいいぞ。量を間違えると、死ぬほどつらい目に遭うからな」
「試したことあるの?」
「何回かな。だから確信を持って言える。やらない方がいいってな」
ゼンの口にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
「苦しかった?」
「二度と経験したくない苦しみだ」
「じゃあ、やめとくよ」
それからというもの、エアの口から食事の文句が出ることはなかった。ゼンの忠告が功を奏する結果となった。彼も余計な言葉を言う必要がなくなり双方にとって都合がいい。
二人は次の日を迎えた。ゼンは昨晩言った通りに、今後の旅の準備に取り掛かる。そのため移動はない。昨日と同じ場所に留まっている。
ゼンが準備を行っている間、エアは川の近くで腰を下ろしていた。すぐ側には簡易的な釣り針が置いている。釣り針に反応があった際には、すぐに声を上げることになっていた。
まだエアからの救援要請は来ていない。釣り針を垂らしてから、それなりの時間が経っているがただの一度もだ。エアもただ座っているというのは暇らしく、欠伸ばかりをしている。
「反応はないままか」
「ピクリとも反応しないよ~
餌が悪いんじゃないの?」
「それじゃあ、魚が食いつくいい餌でも探してくれ」
餌には地中の生物を使っている。少なくとも魚が毛嫌いする理由はない。魚が釣れないのは、釣れる魚がいないからか、それとも別の理由がるのか。
悩んでいても問題は解決しない。ゼンは引き続き、旅の準備を進める。やるべきことは多い。彼には迷っている時間すらないのだ。
結局、その日の釣りの成果は無かった。川から打ち上げられた小魚二匹だけである。それもエアが飛んでいる際に偶々見つけたものだった。
「――また鍋か」
その日、ゼンが作った夕食は昨日と同じ鍋だ。違いといえば、中身に僅かばかりの魚が入っていることだけである。
「いいから食ってみろ。
昨日の鍋よりかは美味いはずだ」
「本当?
ゼンがそういうなら。魚なら、今の私でも食べられるしね」
ゼンの言葉を信じ、エアは自分の分に口を付ける。
「あっ、本当だ!
昨日のやつより美味いよ、これ。
ちゃんと味がする」
「そいつは何よりだ」
エアに続き、ゼンも料理を口に運ぶ。ただ小魚を入れただけだが、味が染みている。かといって、魚特有の生臭さも感じない。エアの様子から見ても、上手くいったようだ。
食事を摂りながら、ゼンは明日の予定を考える。今日と同じように釣りをするのでは、また一匹も釣れない可能性が高い。それよりかは罠を仕掛ける方が効率はいいだろう。
罠であれば時間を無駄にすることもない。なにせ、一度仕掛ければ、後は待つだけだからである。ゼンであればその間に、別の用事を片付けることも可能だ。
体を動かし、衰えた体力を戻すのも一つの手だ。森の中を歩き、食べられる野菜や調味料の素を探すのも悪くはない。
「ごちそうさまでした。
あ~、美味しかった。また作ってね」
「材料さえあれば何度でも作ってやるよ。
どうやら俺には釣りの才能はないらしいからな」
「それなら任せてよ。
明日もここにいるの?」
「ああ。
明日まではここにいる。まだいろいろとすることが残っているんだ。明後日にはここを発つ。
それでいいな?」
「うん。
どうせ、私が嫌って言っても聞かないでしょ」
ゼンは何も応えない。
「じゃあ、明日は私が魚を獲るよ。
魚が掛かるのを待つのはもう飽きたし」
「ああ。俺も一応罠橋掛けるが、主力はお前だ。明日の夕食が豪勢になるかはお前次第だ」
「そう言われちゃあ、頑張らざるを得ないね。味のない鍋は食べたくないし」
「精々頑張ってくれ。
これを食ったら寝るぞ。明日もすることは山ほどあるんだ。しっかり休んで、体力を回復させておけ」
翌日、ゼンたちは各々の作業に取り掛かった。既にエアは何匹もの魚を獲っていた。これだけの数があれば、しばらく食べ物に困ることはないだろう。魚の味に飽きが来る、という別の問題が発生するが。
魚に関しても生のままでは一日ともたないが、保存加工をすればその問題も解決する。
ゼンの用事もあらかた片付いた。残りの時間を使って手の込んだ晩飯を作るのも悪くない。保存食を作るにも時間がいる。夕食を作りながら行えば、時間も節約できる。
「エア、魚はもうその辺でいい。
もうそろそろ戻って来い」
「あと一匹、捕まえたら戻るよ」
エアはよっぽど魚を捕まえるのが楽しいのか、帰ってこようとしない。いつもは面倒なことや煩雑なことはゼンに任せようとしているため、余計にそう思ってしまう彼であった。
ここからであればゼンの目にエアの姿は移る。何かあれば声を上げるだろう。溺れることもあるまい。ゼンはエアのことは気に掛けつつ、晩餐の準備に取り掛かる。
ゼンが準備に取り掛かってからしばらくが経ち、エアが彼の元へ帰って来た。
「最後の一匹が獲れなかった。
さっきまでは順調に獲れていたんだけど」
「そういう時もあるさ。
特に自然が相手の場合は、特にな。
晩飯ができるまで休んでおけ。手伝いもいいぞ」
「本当?ありがとう」
「お前に手伝ってもらうと、そっちの方が手間がかかる」
ゼンは慣れた手つきで調理を進めていく。材料は十分すぎるほど揃っている。調味料に関して心許ないが、魚本来の味を引き出せば問題はない。
調理と並行し、保存食も作成する。煙で燻すだけでも簡易的ではあるが、立派な保存食の完成だ。煙の独特な香りがいい味に仕立ててくれる。
「今日もお鍋?」
「お前がまた食いたいって言ったんだろ」
「確かにそうは言ったけど、二日続けて同じ味のものはちょっと……」
「安心しろ。味は変えてある。
調味料が少ないから劇的に変わることはないが、それでも昨日と比べても違う味になっているはずだ」
「それを聞いてよかったよ。
それなら先に言ってよ、余計な心配しちゃったじゃん」
「ほら、できたぞ」
料理は完成した。後は、中身を平らげるだけだ。ゼンもエアも食べている間は無言で、ただただ食事に集中した。咀嚼音と汁を啜る音だけが小さく響く。
その静寂を破ったのはエアだった。
「おかわり!」
「自分で入れてくれ」
「そんなこと言わないで、よそってよ~」
「仕方のない奴……」
具材をよそった器が、ゼンの手から落下した。
「何やってるの。
あ~あ、勿体ないな」
「ん、ああ悪い。気が抜けていた」
ゼンは察知していた、何者かの鋭い視線を。まるで今にも襲い掛かってきそうな程の圧を感じた。敵意を隠そうともせず、彼をじっと見ている視線が。
そのことに気付いていないのは、エアだけだ。エアだけは何知らぬ顔で晩餐を楽しんでいる。結局、つくった晩餐のほとんどをエアが平らげる結果となってしまった。
「ゼン、あんまり食べなかったね」
「作っている時から、ちょくちょく味見をしていたからな。それで腹が膨れたんだ」
「ゼンだけずるい」
「作る者の特権だ。お前も食いたかったら、料理の一つでも覚えてみろ」
視線の主の正体は掴めていない。ただ、ゼンは直感的に相手が人間ではないことに気付いていた。いつ相手が襲い掛かって来ても反撃できるように、ゼンは自身の武器を側に寄せておく。刀・ナイフ・クロスボウ、一通りのものは揃っている。
先の戦いで使用した毒は残っていない。それなりの量を用意していたのだが、全て使い切ってしまった。同じ量を人間に与えれば、何百もの死体ができあがる。それほどまでにドラゴンの生命力が並外れていたのだ。
幸運だったのは、視線が一つしか感じ取れないことだ。ゼンが他の視線に気付いていないだけ、という可能性もある。が、今はまずその一つの視線をどう対処するかが問題だ。
ゼンは祈った。今、自身を見つめている生物が一匹だけであることを。
その後もゼンは警戒を続けた。視線は絶えることなく、彼を見続けていた。エアは腹一杯に飯を食べたことで睡魔に襲われていた。既に瞼は塞がりかけている。
当然のことながら、エアは視線には気付いていない。その方がゼンにとっても都合が良かった。下手にエアに現状を話しても事態は悪化するばかりだ。
「もう眠いから寝るね。おやすみ~」
エアは欠伸をしながら寝床へ向かう。
「ああ。
明日からはまた歩くからよく寝ておけ」
ゼンの長い夜が始まった。まず始めに、彼は装備を一つずつ身に着けていく。腰に刀を差し、背にクロスボウを掛ける。ナイフはいつも通り、腰の所に納められている。
既に空は暗闇に支配されている。光源となるのは、月の光と焚火だけだ。月の光も森の中へ入れば、その輝きは効力を発揮しない。松明を点せば森の中でも視界は失われないが、片手が失われる。未知の生物との戦いで、片手が使えないのは圧倒的に不利だ。
つまり、ゼンが戦うべき場所は、今この場の近くということになる。周囲に動きを阻害するような障害物はない。光源も月と焚火がある。
唯一の懸念は、戦いの余波でエアが目覚めないかということだ。
準備は整った。ゼンの意志も固まった。後は、どちらかが死ぬまで戦うのみである。




