十四話 其の八
「ハァ、ハァ」
ゼンは断崖絶壁の崖を降りていた。一つでも何かを間違えれば、その瞬間に死が待っている。登る時もかなり苦労したが、降りている今は更に辛い。
痛み止めを飲んだためゼンの体に痛みはないが、それだけだ。まだ思う様に体を動かすことはできない。そのことが疲労を蓄積させる。
「ッッ!」
「ゼンっ」
「大丈夫だ。足場が崩れただけだ」
幸いにも崩れたのは左足の方だけだった。残っている力を使って何とか体勢を戻したが、腕に限界が近づき始めている。その証拠に握力も弱まり始めていた。このままでは地面に落ちていくばかりだ。この高さから落ちれば怪我では済まない。
地面まではまだまだ距離がある。ゼンの体力が限界を迎えるのが先か、地面に辿り着くのが先か。今のままでは前者の方が圧倒的に早いことは間違いない。
ゼンは頭を切り替える。思考が後ろ向きになっている。ひとまず今は、この崖を降りることが先決だ。意識・思考・体、使える全てをそのことに注ぐ。
「ゼン、あとちょっとだよ」
エアの声を信じ、ゼンは振り返る。今までは余計な体力を少しでも減らすために、地面との距離すら確認しなかった。
「嘘つけ、まだまだ距離あるじゃねえか!」
「私からすれば、もうあとちょっとだよ」
「俺からすれば、まだまだなんだよ。
ああ、駄目だ。叫んだせいで体力が」
この高さではまだ駄目だ。地面に直撃すれば死ぬ。運よく命は助かっても衝撃までは避けられない。間違いなく、動けなくなる。死ぬのは直ぐか時間が経ってからかの違いしかない。
「待てよ」
ゼンはもう一度、振り返る。高さは変わらないが、あるものが目に入った。あれを使えば、何とかなるかもしれない。腕はもう限界に近く、体力も同じだ。このまま終わりを迎えるよりかは、分の悪い賭けでもそれに賭けるしかない。
「ゼン、大丈夫なの?」
「そこをどいてろ」
「ちょっと、何をするつも」
エアが言うよりも早く、ゼンは行動に移していた。彼は両手を放し、空中へと飛んだ。彼の落下地点には木が生い茂っている。
葉の揺れる音、枝の折れる音がした。その後で、重い物体が地面に衝突する。
エアは急いでゼンの落下地点に飛ぶ。まさか、あの距離から飛ぶとは。さしものエアも予想だにしていなかった。木を緩衝材に選んだのも馬鹿げている。枝は鋭いのだ。それこそ人間の皮膚を切り裂くことなど容易い。
「ゼン、ゼン!」
エアが急いだ先には大量の葉や枝が落ちている。が、ゼンの姿は見えない。返答もない。まさか、本当に。エアの頭の中で最悪の光景が現実味を帯びてくる。
「――ここだ」
僅かにだが、ゼンの声が聞こえた。エアは声のする方へと飛ぶ。彼はいた。木を背にして座っている。
「良かった!生きてる」
「生きてるよ。何とかな」
ゼンは左腕を右腕で支えながら喋っている。彼の左腕は脱臼していた。
「もしかして……」
「ああ。その“もしかして”だ。
ちょっと待ってろ」
ゼンは左腕を固定させると、脱臼を自力で治した。
「ちょっと、痛くないの」
「痛いさ。ただ、これ位なら慣れているんでな」
「これからどうするの?」
「ひとまずは休ませてくれ。痛み止めの効果が切れてきた。もう体中に痛みが走り始めてる」
幸いにも身を隠す場所には困らなかった。自然の洞穴が存在したのだ。崖の一部が切り抜かれたかのように。
ゼンたちはそこに身を隠すことにした。雨風を凌げ、外敵からの襲撃にも備えやすい。入口が一つしかないのだ。一方だけを警戒しておけばそれで事足りる。刀を振るのは難しいが、ゼンにはクロスボウが残っている。
クロスボウであれば、片手でも発射することはできる。装填も時間はかかるが、片手で可能だ。
その日、ゼンはすぐに眠りに入った。昨晩の様に痛みで魘されることはなく、静かに眠っている。まるで死んでいるかのように。額に汗だけが流れていた。
洞穴の中の生活も慣れれば苦にはならなかった。雨風を凌げ、外敵からの侵入にも対処しやすい。セロも奥の方で休めることができる。外敵が攻め込んでくることはなかったが、ゼンは常にクロスボウを隣に置いておいた。
怪我をしていてもゼンは一日中横になることはなかった。エアからは散々小言を聞かされたが、彼は効く耳持たずといった雰囲気で外に出て行った。
ゼンが外に出たのは、必要な物資の調達と体力の回復を兼ねていた。物資の調達は食料と水だ。水は近くに川があったため、そこから必要な分を汲んできた。食料に関しては、まだ狩りは彼には難しい。そのため、食べられる野草採取が中心となっている。肉は保存用に蓄えておいたものを少しずつ消費していた。
小動物であればクロスボウだけでも事足りる。今のゼンにとっても容易く狩ることが可能だ。問題は、その後のことである。狩った後は処理が必要になる。当然、血の匂いを避けて通ることはできない。
その匂いが別の獣を引き寄せることをゼンは懸念していた。一匹ならまだしも、複数匹で攻め込まれた場合は手の打ちようがない。
ゼンも完全回復には程遠い。日常生活程度であれば問題はないかもしれない。それが、戦闘になれば話は別だ。わずか一秒の遅れが死に直結することもある。
まだ動けばゼンの肉体に痛みが走る。普段はその痛みを無視しながら生活を送っていた。歩く程度ならば無視できるが、走るとなると事情は変わってくる。一秒、二秒であれば全力で疾走することは可能だ。その後に彼の体を激痛が襲うが。
ゼンの体を襲うのは激痛だけではない。滝のような汗と吐き気も加わる。更に、しばらくの間ゼンは動けなくなってしまう。呼吸をするだけで精一杯になってしまう。そのことをエアは知らない。彼がエアのいない間に行っているからだ。
洞穴の生活が続いたある日のことだった。その日は天気が悪く、朝からずっと雨が降っていた。雨が止む気配泣く、勢いも強い。ゼンはその日は洞穴の中で一日を過ごしていた。
「ねえ、ゼン」
ゼンの中で危険信号が付いた。いつもの明るさはない。声にも元気がない。こういう時のエアは余計なことを考えすぎて、気分が落ちてこんでいることが大半だ。
「どうした?」
そのまま無視する訳にもいかず、ゼンは返事をする。天気さえ良ければ、外に出てしばらく時間を潰すことができるのだが。外敵から身を守る場所が、仇となってしまった。
「ああするしかなかったのかな」
「さあな。
少なくとも俺にはああするしかなかった。それ以外の方法を知らないしな。
話はそれだけか」
「どうせ何を聞いてもはぐらかすか、答えないでしょ」
「お見通しか」
「それなりに長い間、一緒にいるからね」
ゼンは自身の頭を掻く。
「それで、いつまでここにいるの?」
「もうそろそろ出るさ。
体の方も大分鈍っている。少しでも感覚を取り戻していきたい。だから今は休んでおけ。雨が止んだら出るぞ」
「はいはい」
「返事は一回」
「はいっ」
エアの元気のいい声が洞穴の中に反響する。




