十四話 其の三
エアがいつから気を失っていたのかは定かではない。気が付けば、意識が消えてきた、そう表現するのがエアの状況を端的に表している。
記憶があるのはゼンと逃げている途中までだ。ドラゴンの火球でゼンが落馬し、そのはずみでエアも強い衝撃を受けた。そこからのエアの記憶は一切ない。
そして今、エアは見知らぬ寝床で目を覚ました。いつもの薬草の匂いがするポーチの中ではない。場所は広いが、日が差しておらず暗い所だ。昼か夜かの区別もつかない。
周辺には誰もいない。人はおろか、あのドラゴンでさえ。この場から抜け出す出口は二つある。エアは二つの出口の真ん中辺りにいた。
前に進むか、後ろに下がるか。ゼンならばどうするだろうか、エアは悩みこむ。今は自分一人しかいない、仮に何かに襲われれば、エアに成す術はない。ただ逃げるのみだ。
エアは嗅覚に意識を集中させる。人の匂いはしない。否、匂いが嗅ぎ分けられない。その理由は他の異臭にあった。匂いを嗅ぎ分けようにもその匂いが強烈過ぎて、他の匂いの情報が入ってこないのだ。
エアがこの匂いを嗅ぐのは初めてではない。ゼンとの旅で何度か経験したことはある。その度に、嫌な思いをした。何度となく経験しても慣れることはない。むしろ一層、その匂いが嫌いになる。
腐敗臭だ。それも人間の。エアが良く目を凝らしてみると、周辺には人の骨がある。大きさも種類もバラバラであり、共通しているのは異臭を出していることだけだ。
「うぅ。気持ち悪」
この場にいるだけで気分が悪くなってくる。エアはたまらずに前の出口へと向かう。
「……ここどこ」
出口を抜けた先にあったのは、断崖絶壁の崖だ。エアが飛んでいなければ、足を滑らせ地面に落下していたかもしれない。
エアがいる場所から地面まではかなりの距離がある。落ちれば怪我では済まないことはエアでもわかる。
エアであれば飛べるために崖があろうがお構いなしだが、ゼンはそういう訳にはいかない。ゼンであってもこの崖を登ることは不可能だろう。
崖には手を掛けられるであろう場所はあるが、上に辿り着くには相当の時間がいる。それだけの時間を支え切るのは人間では無理がある。
突然、エアの視界は真っ暗になった。何かに閉じ込められたかの様に目の前が真っ暗になる。あまりの事態にエアも何が起きたのかわかっていない。
エアが今いる場所は暗いが、寒くはない。むしろ、暖かみを感じる。
エアが暗闇に閉じ込められていた時間はそう長くなかった。闇の中に一筋の光が見えた。エアが自分の意思で抜け出すよりも早く、強制的にその場所から出された。
「うわっ」
エアは滑るようにして地面に落ちていく。結局エアは元の場所に戻ってしまった。あの酷い匂いのする場所に。
「何処に行く?」
声の主はエアの後ろにいた。そう、あのドラゴンである、ゼンとエアを襲った。この場所の匂いのせいで後ろにいるのにエアは気付けなかった。
声からは威圧するような感じはしない。むしろ、子供を心配する親のような雰囲気をエアは感じた。エアは恐る恐る、ゆっくりと後ろを振り返る。
ドラゴンはエアを見ている。その目はどこか悲しみに暮れている。エアは緊張しているものの、恐怖は感じていない。それは同じドラゴンだから感じ得るものがあったのだろう。
「私の何の用?
私を食べても美味しくないよ」
「アナタを食べるつもりはない」
「だよね。同じドラゴン同士だし」
「アナタをここに連れてきたのは、アナタを私の娘だと見間違えたからです」
「……娘」
「ええ。
私には娘がいました」
語尾に不安を感じつつもエアは話を伺う。今の所、エアの命は保証されてはいないが、安全と言ってもいいだろう。話を聴いている間は殺されることはない、エアはそう信じ込む。
「娘さんはいまどこにいるの」
「私も知らないのです。
私と娘は些細なきっかけで仲違いをしてしまい、娘はここから出ていきました」
聞けば聞くほどエアの境遇と似ている。
「私は娘を追いかけました。
ですが、娘は見つかりませんでした。最後には、娘の助けを求める声だけが私の耳に残りました。
“助けて!人間に攫われる”という声だけが。それ以来、ずっとあの声が脳裏から離れないのです。
夜になって寝ている時ですら、夢であの子の声が反芻するんです。私に助けを求める声が」
エアはただ黙って話を聴いていた。ゼンと出会わなければ、エアだって今頃どうなっていたかわからない。そもそもゼンとの出会いも、エアが囚われていたからこそなったものだ。
エアはどうしても目の前にいるドラゴンが他人とは思えなかった。エアの本当の両親も、今はどこにいるのか、何をしているのか、心配事は尽きない。
エアには別の思いが溢れ出してきた。両親のもとに帰りたい、という思いが。
今まではゼンと一緒にいたため、その思いが前面に出てくることは少なかった。出てきても食事を楽しみ寝ることで、その寂しさに蓋をしてきた。
その蓋が、今は開きつつあった。同じドラゴンに出会ったこと、攫われた娘の境遇が自分に酷似していたこと。無理やり閉じ込めていた感情が一気にエアの体に溢れ返る。
「あれ……?」
気づけば、エアは涙を流していた。そのことに気付いたのは、涙が頬の辺りに到達してからである。
エア自身にも、どうして涙が流れているのか不思議であった。目の前のドラゴンの話を聴いて心が揺さぶられたのは間違いない。それが涙になって表れたとは思えない。
「どうして」
エアは必死に涙を止めようとするが、止まる気配はない。それどころか、時間が経つたびに涙の量は増えていく。涙だけではなく、鼻水も溢れ出てくる。
「どうして、アナタが泣くのです。
アナタとは何の関係もない話でしょう」
「わかんないっ。私にも。
どうして私、こんなにも泣いているの」
既にエアの顔は涙で一杯だ。まだエアの涙は流れたままである。何とかして泣き止もうとするものの、感情の制御が一切できない状態だ。普段から感情を抑えるどころか、前面に出しているエアだが、この時ばかりは自身に嫌気がさした。
「泣きたいときは泣いていいんですよ。
アナタは泣いていいし、泣くことが許される。許される間に思い切り泣きなさい。
私にはそれができないし、許されない。
我慢しなくてもいいんですよ」
その一言で、エアの涙腺は崩壊した。今まで我慢していた壁が決壊し、エアは思い切り泣きだす。周りの目を憚ることもなく、ただ泣いた。声が枯れ、何度もえずき、体の水分がなくなるほどにエアは泣いた。
泣くだけでエアは疲れ果てる。エアの鳴き声が消えたと思えば、彼女は直ぐに眠りに落ちてしまった。
エアの目の前にいるドラゴンはその姿をただ見守っている。何を言うでもなく、何をするでもなく、見ているだけだ。親が子供を寝かしつけるときのようにただ寄り添うだけだった。
翌日、エアは最悪な気分で目を覚ます。眠る前は好きなだけ泣き散らかし、溜まっていたものも吐き出すことができた。そのお陰で気分は爽快そのものだった、起きる前までは。
エアが目を覚まし、まず気分が萎えたのは匂いである。匂い自体は変わっていない、昨日と同じだ。ただエアは周囲の匂いを嗅ぎ取れる状態ではなかった。
朝になり気分も落ち着いた所に、この異臭がエアの鼻腔を直撃したのだ。気分が萎えるのも不思議ではない。
「朝から最悪……」
エアは周囲を見渡す。あのドラゴンはいない。昨日のエアならば、すぐにでもここから出ていくのだが、今のエアにそのつもりはなかった。
昨日の話を聴き、エアはあのドラゴンを放っておけなくなっていた。エアがあのドラゴンに何か義理や恩義がある訳ではない。ただ、放っておくのが忍びなかった。
娘が攫われ、エアもこの場から立ち去れば、あのドラゴンはどうなってしまうのか。そう考えると、エアの考えから、立ち去るという選択肢はなくなっていた。
だからといって、ずっとこのままここに居座るつもりもない。エアにもやるべきことがある。エアは両親を探す途中なのだ。いまだに何の手がかりも得るには至っていないが。
加えて、ゼンのこともある。今、ゼンは何処にいるのか。生きているのか、それ自体も不明だ。勿論、生きていてほしいが今の状況ではそれを確かめる術もない。エアの悩みは解消されるどころか、深まる一方だ。
「う~ん」
エアは小さな頭を精一杯使い、何か道はないかと模索する。考えても考えても解決に至る道は見えてこない。むしろ考えれば考えるほど考えはまとまらず、エアの頭の処理能力を超えてしまった。
「あ~、もう!
どうすればいいのよ」
エアの声が、こだまする。
遠くから音が聞こえた。その音はエアにとって馴染みのあるものだ。普段から聞いている、むしろ自分からその音を発生させることもある。羽音だ。空を飛ぶときに、羽を動かすと生じる。
しかし、音の大きさはエアとは比にならない位に大きい。音だけではない、羽を動かす際に出る風圧もエアとは比べ物にならない。小動物や小さな子供であれば、吹き飛ばされるのもうなずける。
ドラゴンが羽を動かすたびに、土煙が巻き起こる。煙と共に流れる異臭はエアの気分を萎えさせた。
ドラゴンはゆっくりと地上に足を付ける。口には野生動物が咥えられていた。大型の動物だ。大きさはゼン以上だろう。頭に二本の角を携え、見るからに重量がある。仮に戦うのであれば、人はおろか他の陸上生物でも苦戦することは必然だろう。苦戦に持ち込む以前に殺されることだって有り得る。
ただ今回は相手が悪かったとしか言いようがない。なにせ相手はドラゴンだ。図体も重量も、何もかもがドラゴンの方が上回っている。更に言えば、戦う土俵もドラゴンの方が有利だ。動物は陸上でしか活動できないが、ドラゴンは異なる。地上は勿論、空中から一方的に攻撃を加えることも可能だ。
よく見ると、動物の体に目立った傷はない。正面切って戦うというよりかは、空中から一気に仕留めにいったのだろう。
「起きましたか」
ドラゴンは落ち着いた様子でエアに話しかける。昨晩の記憶はエアも覚えている。ただただ泣きじゃくる彼女を、親の様に受け止めてくれた。
その事を思い出し、エアは少し恥ずかしさを覚えた。今は恥ずかしさに悶える時ではない。エアは思い切って、目の前のドラゴンに質問を投げかけた。
「ゼ、私と一緒にいた男は生きているの?」
「ええ。気絶していたのでそのままにしています。あの男のことが気になるのですか」
ゼンは生きている。まだ彼自身の姿は見ていないが、エアはそう確信した。止めを刺していないのならば、彼は生き延びているはずだ。何度死にかけても、その度に復活してきた彼だ。ただ気絶しているだけならば、絶対に死んではいないはずだ。エアは少しだけだが、希望が持てた。
それと同時に別の懸念も浮上してきた。それは、ゼンが今、何をしているかということだ。エアが意識を保っていた時、彼は大きな怪我は負っていなかったはずだ。その後のことは知らないが、話を聴く限りは動けないことはなさそうだ。
今頃、ゼンは何をしているのか。エアの心配事は彼へと移っていった。