十四話 其の二
ゼンは、自身の顔に冷たい感触を感じた。
「ハッ」
意識を取り戻したゼンはすぐさま上体を起こす。周囲を見渡すが、セロしかいない。ドラゴンは暴れた跡だけを残し去っていた。先程の冷たい感触はセロの舌であったのだろう。
ゼンの頭の中に疑問が沸いてくる。どうして、自分は生きているのか。セロも生き残っている。仮にドラゴンの目的が自身の腹を満たすことであれば彼は勿論、セロだって今頃はドラゴンの腹の中にいるはずだ。
しかし、現にゼンもセロも生きている。セロに目立った外傷はない。彼は額から何かが流れ落ちるのを感じる。嫌な予感しかしないが、彼は流れ落ちる液体を手で触れた。
やはり、ゼンの思っていた通りだ。血だ。上体を起こしたことで血が滴り落ちてきたのだ。彼の意識に問題はない。体にも違和感はない。
まず行うべきは、ゼン自身の治療だ。彼は立ち上がり、セロのポーチから包帯を取り出す。慣れた手つきで包帯を頭に包帯を巻いていく。
「ッ」
最後に包帯を力強く締めたことで、多少痛みが入った。自身の治療が終わったことで、ようやくゼンは周りのことにまで目が届くようになった。
「セロ、エアはどうした?」
セロは何も応えない。エアがいない、そのことに今になってようやくゼンは気付いた。
エアがいるならば、間違いなくゼンに飛び込んでくるはずだ。それがないということは、エアはいない。
混濁していた記憶も徐々に鮮明になり始めた。ゼンはドラゴンと交戦していた。相手の攻撃を躱すことに意識を取られ、予想外の飛来物にまで気が回っていなかったのだ。
それは、ゼンのすぐ側にあった。木片だ。大きさはエアよりも小さい位だ。その程度の物体ではあるが、速度が乗っている分だけ衝撃も増していたのだ。
加えて、不運なことに直撃したのはこめかみの辺りである。他の部分であれば気絶もしなかったのかもしれない。今更過ぎたことを悔やんでも無意味だ、ゼンは思考を切り替える。
不幸中の幸いだったのは、命があることだ。少なくともゼンもセロも生き残っている。問題はエアだ。周辺に残っている血はゼンのものと見ていいだろう。
エアの遺体も血も残っている様子はない。食べるならばこの場で食べても不思議ではないはずだ。推測でしかないが、エアも生き残っている可能性が高い。
「ふー」
ゼンは腰を落ち着け、一息付く。頭の中でもう一度、情報を整理する。するべきことは何か、優先して片付けることは何か。気が付けば、普段であればもう就寝の準備に取り掛かっている時間だ。
ゼンの腹は減っているが、不思議なことに食欲は湧いてこない。腹の鳴る音だけが響く。腹が減っているのはセロも同じだ。セロはいつも通り食事を要求する。
「ああ。飯にするか」
このまま考え込んでいても時間を浪費するだけだ、ゼンは気分を変えるためにも夕食に取り掛かった。
エア抜きで食べる夕食は静かで、普段よりも時間も掛からない。味もいつもより薄味に感じる。
食事を終え、横になってもゼンの考えはまとまらない。まずは、エアがどこにいるかがわからないのだ。ドラゴンがエアを連れ去った時、ゼンの意識は途絶えていた。どの方角にいるのかすら見当もつかない。
無暗に探しても見つかるものではないことをゼンは知っている。それどころか、無駄な時間を費やすだけで終わる可能性の方が圧倒的に高い。いつまでも、エアが無事でいるとも限らない。
情報だ、情報がいる。ひとまずは寝て、体力を回復することにした。今から動いても夜道を彷徨うだけである。
寝ると決まれば、そこからは早かった。今まで悩んでいたことすら忘れるほどの勢いでゼンは寝息を立て始める。
ゼンは次の朝を迎えた。空は晴れており、遠くの方まで見渡すことができる。
頭の傷も完治とまでは言えないが、塞がりかけている。包帯を取ると、血が凝固されていた。包帯を外す時に、微かにゼンの頭に痛みが走った。念のために、もう一度ゼンは頭に包帯を巻きつけておく。新しく巻いた包帯からは血が滲み出ることはなかった。
ゼンは道なりに進み、久方ぶりに人に出会った。向こうもゼンのことを認識したようだ。
「だ、大丈夫ですか?」
「頭に傷を負っている。ドラゴンの仕業ですか」
ゼンは刹那、戸惑った。これほどの怪我であれば日常茶飯事とまでは言えないが、ゼンにとっては軽傷だ。安静にするまでもなく、放っておけば治ると位にしか考えていない。
「え、ああ」
「この人を早く村へ!」
「ささ、こっちです」
気づけば、ゼンは出会った二人に半ば無理やりに連行される形になっていた。強引に二人を引き離すこともできたのだが、情報を集めるには大人しく従った方が良いと彼は判断した。
二人の村はそう遠くはない場所にあった。物静かな場所に、大きくはないが暮らすのに不便はない場所だ。近くに川はあり、自然にも恵まれている。ただ、不安なのは村民の顔に笑みが少ないことだけだ。
大人であれば笑みが少ないのも理解できるが、小さな子供ですら笑顔の子は少ない。ゼンの視界にいる子どもたちは村の中で静かに遊んでいた。
村民から受ける視線に軽視や蔑視の類はなさそうだ。それどころか、憐みの様なものさえ感じ取ることができる。
「お兄ちゃんも、ドラゴンにやられたの?」
ゼンの横に小さな子どもが立っていた。歳は五、六歳といったところか。まだあどけなさが残る顔をしている。子供の手には水の入った瓶がある。
「まあ、そんなところだ。
ここはずっと前から、あのドラゴンが暴れていたのか?」
「ううん。
ちょっと前から。今まではこんなに暴れる事なんてなかったのに。急に僕たちを襲う様になったの。
そのせいで、外に出て遊ぶこともできなくなったの」
なるほど、とゼンは心の中で合点した。子供たちの顔に笑顔がないのも、外に出てないのも。
しかし、それとは別の疑問がゼンにはあった。それは、ドラゴンが何故、村を襲撃しないのか、ということだ。あのドラゴンであれば本気を出せば、否、本気を出さずともこの程度の村であれば跡形もなく滅ばせるはずだ。
何も地上に降りて、一人ずつ片付けていく必要もない。上空に留まって、そこから火球を放出するだけでも十分だ。一度、火が広がればあとは何もせずとも、燃え上がった炎が村を焼き尽くすだけだ。
あのドラゴンの目的が見通せない。腹を満たすなら、ゼンだって喰っていたはずだ。人を殺すなら、この村を襲わない理由が見当たらない。
「ふーむ」
「これからどうするの?」
無意識に出た声が、子供の耳に入ったようだ。流石に、“ドラゴン”を倒しに行く、とは言えない。そんなことを言えば、頭の傷で気が狂ったと思われる。
「旅のお方、体は大丈夫ですか」
ゼンがどう言葉を返そうかと悩んでいる所に、一人の男がやってきた。歳はゼンよりも一回りほど上だろう。短い髪によく焼けた小麦色の肌をしている。背はゼンよりも少し低いくらいだろうか、太さはゼン以上だが。
「え、ああ。お陰様で
ええと、あなたは」
「私はこの村の長を務めている物です」
随分と若い村長だ。もしかすると、ゼンの心の中で推測が始まる。
「ええ。お察しの通りだと思います。私は長としてはまだまだ新米です。
あなたも、あのドラゴンに襲われたと伺っております。お仲間はもしや……」
「いえ、一人旅です。
俺の傷はもう塞がりかけています。俺よりも、馬の方を見てやってください」
「――馬の方をですか」
「俺はこれ位の傷だったら、唾でも付ければ塞がります」
長は信じられない様な目つきでゼンを見る。だが、彼の言動はしっかりしているし、顔色も悪くない。彼本人の希望ということもあり、彼に使われる時間はセロに充てられた。
ゼンにも治療は勧められたが、彼自身が拒んだ。ただ拒むだけでは向こう側の心象も悪くするので、包帯だけは受け取った。彼は受け取った包帯で自身に応急処置を施した。
セロの様子も遠くからではあるが、何度か見ていた。セロの近くには子供たちが群がっていた。セロに恐る恐る触ろうとするものの、最後の一歩が踏み出せずに留まっていた。
「これから、どうするのですか」
ゼンの横に座っていた長が尋ねる。
「どうするとは?」
「そのままの意味ですよ。
まさか、ドラゴンがうろついている道を進むとは思いませんが」
「時間に余裕がなくて、先を進む必要があるんです」
「もう少し遅くすることはできないですか」
「心遣いは感謝します。
ですが、どうしても行かねばならぬ理由があるんです」
「もうすぐすれば、中央からあのドラゴンを討伐するための兵士が来るとのことです。
それまで待っていただければ安全に通れるんです。これまでも、何人もの人があなたの様に先を急ぎました。そして帰って来た人はいません。
全員が変わり果てた姿で発見されました」
「そうならないことを祈るしかないですね」
「どうしても行くんですか」
「どうしても行きます」
ゼンの目に迷いはない。それを長も悟ったようだ。今の彼に対してはどんな言葉も無意味だと。
「わかりました。
どうしても行く理由があるのですね。もう今日は遅いですから、せめて一日だけでもこの村で過ごしていってください。
何もない村ですが、その分、体はゆっくり休めることができます」
「お心遣い、感謝します」
その夜、ゼンは空き家で過ごすことになった。つい最近まで人が住んでいた形跡がある。家に備え付けられている道具や物にも使い込まれた跡があった。
「ふぅ」
ゼンは中に入ると、身に着けている装備を一つずつ外していく。重量が減るごとに心も解放されたような気分になる。傷に関しても、痛みを感じることは少なくなっている。外から見ても包帯に血は滲んでいない。
このまま休みたい所だが、ゼンにはやるべきことが残っている。セロと別れる前に取っておいた大きめの袋を床に置き、中身を取り出していく。
袋の中には、更に小型の袋がある。袋は紐で強く締められており、簡単には開けられないようになっている。
ゼンはゆっくりと袋を開き、作業に取り掛かる。作業は空が暗くなり、近くの家屋の明かりが消えても続けられた。