十三話 其の六
「これはお前が乗っていた馬車なんだな」
血だらけになった馬車の前で、ゼンは立っている。イドは膝を地に付いた状態で目の前の馬車をただ眺めている。
「……うん」
「間違いないのか」
「間違いない。
見て、この傷。僕が付けたんだ。調子に乗ってナイフを振り回して、転んだ時に付けた」
ゼンたちがこの場所に付いたのは、ほんの僅か前のことだ。エアが血の匂いを察知したのだ。セロだけを残し、三人で先行した。
「血の匂いだけしかしない。
全然、人が生きている匂いがしないよ」
近付くにつれてエアが推察する情報は正確性を増していく。最初は曖昧な情報だけだったのが、人の数まで当てるようになってくる。
「もうすぐだよ」
「ああ。
ここまでくれば、俺でもわかる」
血の匂いが強くなってくる。独特の鉄臭い匂いが鼻腔を通じて感じ取ることができる。これだけ血の匂いが漂っているにも拘らず、周囲は静かだ。自然の音だけしか耳に入ってこない。
そのことがゼンの不安を掻き立てる。ゼンだけではない、イドも生唾を呑み込む。
「行くぞ」
ゼンは刀を抜き、イドはクロスボウを携えている。
ゼンが飛び出した。その後に続いて、イドが出た。ゼン達が目にした光景は血だらけの馬車だった。
「ゼン。悪いけど、少しの間一人にさせてくれないかな。
すぐに戻るから」
「ああ。
晩飯でも作りながら待っているさ。エア、お前もだ」
ゼンは宙に飛んでいるエアを鷲掴みにする。
「ちょ、痛い。
待ってよ」
「いいから来い」
ゼンはエアを放り投げるようにして、いつものポーチの中へ入れる。ポーチの中からは声がしたが、ゼンは蓋をする。これで、少しは静かになる。
「ねえ、ゼン。
これからどうするの?」
エアが問いかけてきたのは、夕食の調理中のことだ。
「どうするもこうするも、旅を続けるだけだ」
「そうじゃないよ!
イドのこと!」
遂にエアの口から、聞きたくなかった言葉が出てきた。ここまで正直に尋ねられると、答えをはぐらかすことも難しい。下手に答えようものならば、エアから何を言われるか想像もしたくない。
「イドは置いていくつもりだ。
何処か、安全な場所に着いたら、別れるつもりだ」
「うん、私もそれがいいと思う」
エアの口から出たのは、予想外の言葉だ。
「ああ、そうだな。置いていくのは酷いと思うが……。
ん、エア。お前、何て言った?」
「イドには悪いけど、別れる方がいいって」
ゼンの聞き間違いではなかった。エアは確かに言ったのだ。イドと別れる、と。
「ゼン?」
「悪い。お前のことだから、てっきりイドも一緒に旅に連れて行け、と言うもんだと思っていた」
「私も少しはそう考えた。
けど、イドのことを思ったら、別れる方がいいのかも。
ゼンに付き合えるのは、心が広くて、深い深~い慈悲のある私くらいだしね」
「そういうことにしといてやるよ」
そう言った、ゼンの口角は僅かに上がっていた。
「実際の所、イドをどうするつもりなの?」
「安全な場所に着けば、そこで別れるつもりだ。下手に長引けば、別れが辛くなるだけだからな。
できれば、世話をしてくれる場所も見つけてやりたいが、果たして向こうが受け入れてくれるかどうか。
何処にも行き場所がないなら、金を渡してやるつもりだ。それが俺にできる精一杯のことだ」
事実、ゼンにできることも限られている。イドの受け入れ先を見つけるか、金を渡すか、その二択に限られている。こればかりは、彼がどうすることもできない。
金を渡して、イドを預かってもらうという案もゼンの頭の中にはあったのだが、直ぐに選択肢から消去した。
金だけを受け取って、イドを放り出すことも考え得る。イドが放り出される頃にはゼンたちはもういない。イド一人の力で生き残ることが要求される。それは余りにも過酷だ。
そこからゼンとエアの間に会話はなかった。ゼンは黙々と夕食を作り、エアはすることもなく、時間が過ぎるのを待つほかない。暇で欠伸だけはよくしていた。
ゼンが夕食を作り終える頃になっても、イドは帰ってこなかった。
「イド 遅いね」
「黙って待っていてやれ。
これが最後の別れになるんだ」
「あっ、イドだ!」
「噂をすればんとやら、だな」
イドが帰って来た。既に陽は落ちかけている。もう少し帰ってくるのが遅ければ、戻ってくるのにも一苦労していたであろう。
帰って来たイドの目は真っ赤に充血していた。目もよく見れば、少し潤んでいることがわかる。
「別れは済んだか」
「うん」
「そうか……。
今日はここまでだ。飯を食って寝るぞ。
明日からはまた歩くぞ。それでいいな?」
「わかった。
ご飯ちょうだい、お腹が減った」
「たんと食え」
ゼンは大盛の器を差し出した。イドは黙ってそれを受け取る。受け取るや否や直ぐに料理を口に放り込む。よく噛まない内に喉に流し込み、口が開くとすぐに次の料理を口に頬張る。
料理を食べるイドの目からは涙が流れている。
「おかわり」
イドは食器をゼンに手渡す。彼も黙って次の分をよそう。
「ほら」
「ありがとう」
イドの口も涙も止まる気配はない。さしものエアも、少年に話しかける気はないようだ。
いつもはイドの近くにいるが、今日ばかりはセロと一緒にいる。
食事を終える頃になっても、イドの目から流れる液体は留まることを知らない。
「ご馳走様でした。
腹一杯になったら、眠くなったから寝るね。
おやすみ」
「おやすみ」
ゼンたちは次の朝を迎えた。この日は、イドの方が先に目を覚ましていた。
イドの目は真っ赤に充血している。
「顔を洗ってこい、酷い顔だぞ」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
ゼンは手拭いをイドに投げる。少年はそれを受け取り、水のある場所へと向かう。
エアはまだ寝ている。このまま起こさなければ、昼まで目ざめることはないだろう。
「んぁぁ」
ゼンは体を伸ばす。体の至る所から骨の鳴る音が響く。
「オイ、起きろ」
ゼンはイドを優しく擦る。
「んん~、まだ眠い~」
「ハァ」
イドが返ってくるまでには、まだ少し時間がある。今、無理に起こしてエアの機嫌を損ねるよりかは、寝させる方がいい、ゼンはそう判断した。エアの元を去り、朝食の準備を進める。
「おいしそうな匂い」
先程までは寝ていたはずのエアが起きている。朝食の香りにつられて起きたのだろうか。嗅覚はずば抜けて優れているエアだ、起きても不思議ではない。
「もう少し待っていろ。
もうすぐイドが帰ってくる」
「え~。お腹空いた、空いた、空いた」
「これでも食っていろ」
ゼンは干し肉の切れ端をエアに投げる。エアは上手く受け取り、頬張り始める。
「戻ったよ」
イドがすっきりした顔でゼンたちの下へと帰還した。まだ少し目は赤いが、それでも寝起きと比べると随分と顔色はよくなっている。
三人で朝食を摂った後は、普段の様に旅を再開した。
「ん?あれは……」
もくもくと立ち上がっている幾多の煙が、ゼンの目に入る。火事ではない。火事であれば、もっと大きな煙に収束しているはずだ。恐らく、村か集落があるのだろう。次の目的地は決まった。
「あの村か集落に寄ろう。
そろそろ水や食料も心もとなくなってきた」
後ろから返事が聞こえる。一方の返事は朗らかだが、もう一方はどこか元気のない声だ。
「あの距離なら、頑張れば今日中に辿り着けるな。
久し振りに柔らかい寝具の上で寝よう」
「賛成!」
“柔らかい寝具”その言葉が、イドの足取りを元気にさせた。考えてみれば、随分とまともな寝具の上で寝ていない。いつもは質素な敷物の上で寝ることができればマシな方だ。硬い地面の上で寝ることも珍しくはない。
ゼンにとっては慣れたものだが、イドの方はやはり堪えるのだろう。寝ることはできても、深く眠ることは難しい。ゼンも寝てはいても、気は張り詰めたままだ。
活気にあふれるイドに対し、エアの方は塞ぎがちだ。
「もう少し、明るく振るまえ。
イドに悟られるぞ」
イドが前を歩いているため、エアと話ができる。
「それはわかっているけど。
あそこに着いたら、イドと別れることになるんだよね」
「そうだ」
問題は、イドを受け入れてくれるかだ。
「お前もイドと一緒にいろ。
俺と一緒じゃ、アイツに怪しまれる」
「はーい」
ゼンに促され、エアも前に出る。いつもとは、順序が逆になっていた。イドとエアが先導し、ゼンとセロが後ろを付いていく。
既に目的地は見え、道も開けている。この開けた場所では奇襲も受けることはないだろう。
何とか陽が落ちる前に一行は村に辿り着いた。どうやら何か騒ぎがあったようだ。入る前から騒々しい音が聞こえてくる。
このまま通りすがることもできるが、水も食料も心許ない。それにイドのことを考えれば、一日でも早く次の受け入れ先を見つけることが望ましい。
「何かあったんですか?」
ゼンは門番に尋ねる。
「ああ。少し前に大勢の連中が逃げてきたんだよ。それも血まみれの状態で。
聞けば、何でも賊の襲撃に遭ったとか。命からがら逃げてきたようだぜ」
ゼンはイドと顔を合わせる。
「進んでもいいか?」
「ああ。勿論だ。
けど、村の皆は今、そいつらの世話で一杯だ。アンタらのことまで気が回らないと思うぜ」
「それで、その逃げてきた人たちはどこに?」
「この通りを真っすぐ行けば、教会が見えてくる。そこだ。
もしかして、あんたら……」
「悪いが、少しの間、馬を見ていてくれ。すぐ戻ってくる。
行くぞ、イド」
「うん!」
二人は走った。イドの方が遅いため、ゼンはイドに合わせる。教会までは距離があり、イドは何度も足を止めた。呼吸も整わない内にまた走り出し、再び足を止める。
「イド」
「な、なに」
イドの息は切れている。
「行くぞ」
ゼンはイドを担ぎ上げ、走り出す。
「お前、重くなったんじゃないのか」
「成長期なだけさ。
ほら、もっと速く走って」
イドの顔は明るい。自身で走らないで済むため、楽なのだ。一方のゼンは、どんどん顔から余裕がなくなっていく。
ゼン一人であればこの程度の距離には苦戦しない。だが、今は右肩に大荷物を担いでいる。大荷物を落とさぬよう、しっかりと力を入れているため、その分も疲労に直結している。
ようやく二人の目に教会が見えてきた。ゼンの息は既に切れている。速度も最初と比べると、かなり遅くなっている。歩いているよりかは早いが、それでも遅く感じてしまう。
「ハァ、ハァ、ハァ。
もう駄目だ……。
行け、イド。俺はここで少し休憩する」
ゼンはその場に腰を下ろす。イドも地上に足を付けた。息は回復しており、全力疾走だって可能だ。
「行ってくる」
イドは走り出した。教会は見えている。人ごみの姿も、少年の視界に入っている。もしかすると、あそこにいるのかもしれない。既にいないと思っていたはずの人物が。
「イド?」
懐かしい声がした。もう聴けないはずの声がイドの耳に入る。少年は声のする方へ進む。