十二話 其の十
意識は薄れ始めている。痛みだけがゼンの感覚を刺激している。左腕は使える状態ではない。唯一、幸いなのは胃の中に何も残っていないことだ。残っていれば確実に嘔吐していた。
「起きろ!」
「ううっ」
レーサの膝がゼンの腹に入った。ゼンは声を上げるだけで、他の反応は薄い。
「何とか言ったらどうだ!」
レーサはゼンの髪を引っ張り上げる。ゼンの顔は血に塗れ、赤く腫れている。口だけでなく、頬や、額にも血が付着している。髪を引っ張られたことで、ようやくゼンとレーサの目が合った。
その時だ。ゼンの口から唾が飛んだ。そのほとんどが血で構成されていた。
「お前ぇ」
レーサの猛攻は続く。何度も何度もゼンの頬を殴る。息が切れるまで。最後の方になると、子供のような殴り方になっていた。
「ハァ、ハァ、ハァ。
フー。放してやれ」
その一言で、ゼンの拘束は解かれた。彼は受け身を取ることもなく、地面に倒れていく。地面に伏した後も起き上がる気配はない。微かに体が動いているのみだ。
「もう死にかけですよ」
「これだけ痛めつければ、何もできないですよ」
「お前らは黙っていろ。
おい、槍を。」
レーサの手に槍が戻ってくる。彼が槍をゼンに向けた。ゼンに動きはない。
「じゃあ」
「っ待て」
声を出したのはソドであった。片足を引きずり、立っているのも辛そうに見える。
「ソド!
生きていたのか。丁度いい。コイツに止めを刺すところだったんだ。
ワロの仇だ。一緒にやろう」
「狩りはどうなった?」
ソドは首を傾げる。
「俺たちが行っていたのは狩りのはずだ。俺たちは狩る側にも狩られる側にもなり得る、そうじゃないのか」
周囲から笑い声が上がる。
「おいおい、ソド。
本気で言っているのか?考えてみろ、こんな薄汚い流れ者と俺たちの命の勝ちが一緒だと思っているのか。
それなのにコイツは!ワロを殺しやがった。お前も酷い目に遭っているだろう。これは制裁だ。
この街の秩序を乱した余所者へのなっ!」
「制裁?大勢を一人で囲んで袋叩きにするのが?
俺たちがやっていたのは狩りだ。狩るか狩られるかの緊迫感こそが俺たちの求めていたものじゃないのか?」
「お前は疲れているんだ。少し休め、そうすれば落ち着いて判断ができる」
「いや、これまでだ」
ソドは刀を抜くと、レーサに突き付ける。
「何の冗談だ?」
「冗談じゃない。俺は至って真剣だ」
予想だにしなかった事態に周囲の誰もが驚いていた。レーサは勿論、警備団の男たちも。ソドに武器を向ける訳もなく、ただ立ち尽くしている。
「普段のお前ならともかく、そのボロボロの体で俺に勝てると思っているのか?」
「腰抜けの腑抜けた豚なら今の俺でも十分だ」
見る見るうちにレーサの顔が真っ赤になっていく。微塵も怒りを隠そうともしていない。
「お前ら、何をしている。
この馬鹿をさっさと殺せ!」
警備団の者たちは動かない。皆が皆、誰かが動き出すのを待っている。
「早くしろっ!」
ソドの怒鳴り声が闇夜に響く。そして、ようやく一人が動き出した。刀を振りかぶり、ソドに近寄る。
男は本気で斬ろうとしている訳ではない。ソドが驚いて、レーサに向けている刃を降ろしてくれれば、それでいいはずだった。
男が刀を握っているはずの手は、上空にあった。体と分離した右腕は真っ逆さまに落ちていく。
「馬鹿が」
「あ、あ、あぁぁぁ」
男の悲鳴が響く。そしてその場にいる全員が悟った。ソドは真剣だ、ということに。今までの言葉に嘘偽りはない。邪魔をすれば、本気で斬られると。
今は右腕だけだが、次は命の保証すら危うい。
一人が逃げ出した。その姿を見て、もう一人、更に一人と。一度、動き出した歯車が止まらないように、次々と逃げていく。
残っているのは、レーサとソド、それにゼンの三人だけになってしまった。
「おい、本当に俺を殺すつもりか?
もう一度考え直せ。それが何を意味するか」
「心配するな。
お前を殺すのは俺じゃない」
「それはどういう――」
レーサの背にナイフが突き立てられる。レーサはゆっくりと首を後ろに回す。
そこに立っていたのはゼンであった。体中に傷を負い、顔も酷い有様だ。荒い息を立てつつも、その目は死んでいなかった。
ゼンは突き立てたナイフを下方向に切り裂いた。レーサの背からは血が溢れ、ゼンの顔にも返り血が降り注ぐ。そのまま彼は地面へと落ちていく。
「ボロボロじゃないか」
「お前もな。ソド」
「やはり。ただ寝ていた訳じゃないんだな」
「うるさくて、眠ろうにも眠れねえよ」
ゼンもソドも立っているのがやっとの状態だ。ソドは刀を地面に突き立て何とか体を支えている。
ゼンは自身の体を支えるものが無いため、右へ左へとふらついている。
「ホラ、刀だ」
ゼンは今になってようやく自身が刀を落としていることに気付いた。何処で、何時、落としたのかもわかっていない。確かなことは、ソドの手元にあることだ。
「返すぞ」
ソドは刀をゼンに向かって投げる。刀は放物線を描き、ゼンの手元へと戻ってきた。
「いいのか。刀を返して」
「言ったはずだ。
俺はお前と対等に戦いんだ。一対一で。誰にも邪魔されずにな。
刀を抜け!」
ゼンは無言で刀を抜く。刀身が月夜に照らされ、眩い光を放つ。
「今度こそ、決着を付けよう」
「ああ。
そう遠くない内に夜も明けるしな」
既に夜も明けつつあった。僅かではあるが、夜明けの兆候も見えてきた。
ゼンたちの背後では、建物が燃えている。火は大きくなり、建物全体を包み込んでいる。ここまでの規模になると、秘密裏に事を治めるのは無理だろう。そう遠くない内に、この街の住民も駆けつけるはずだ。
決着の時は近い。それは二人とも理解している。
ゼンもソドも前へ踏み出した。止まる気配はない。二人は交錯し、位置が入れ替わりになった。
「やはり強いな、お前は」
「お前も強いさ、ソド」
ゼンは刀を鞘に納める。それと同時に、ソドが倒れていく。ゼンも膝を付く。
「ゼン!」
「大丈夫だ、
それよりも早いこと、ここから離れるぞ。
もうじき騒ぎになる」
「う、うん。
宿に帰ったらいいんだよね。後で絶対に来るよね」
「ちゃんと行くから心配するな」
ゼンは膝を震えさせつつも立つ仕草を見せている。実際、彼も宿に移動するだけであれば問題はない。ただ、その道中で誰かに遭遇しないかが不安の種だ。
「行くか……」
ゼンは壁に寄りかかりつつも、移動する。その歩みは遅々たるものだ。何度も倒れそうになり、歩みも止まった。それでも彼は一歩、一歩と足を進める。
僅かにではあるが、体力も回復してきている。体に走る痛みは一向に減ることはないが、少しは楽になってきている。
ゼンにとって幸いだったのは、今いる場所が宿に近いことだ。彼が先ほどまでいた場所からは声や雑踏の音が聞こえる。早く離れた彼の判断は誤ってはいなかった。
ゼンもなるべく大通りを避け、路地裏や人通りの少ない場所を通っていた。見ず知らずの街の裏道を通ることは多少なりとも危険が伴うが、四の五の言っている余裕は彼にはない。
「誰?」
背後から声がした。ゼンは無意識に内に腰のナイフを抜き、投擲の態勢を取っていた。
「あなたは……」
ゼンの後ろに立っていたのは、あの給仕だった。ゼンが二度訪れた飯屋で働いている。
よりにもよって最悪な相手に見つかってしまった。一番、会いたくない人物に。
ゼンは腰のナイフをもとの位置に納め、再び歩き始める。
「何があったのかは知らないけど、酷い怪我。
見せて」
「伏せろっ!」
ゼンの手からナイフが投擲される。ナイフは給仕の後ろにいた男の喉元に刺さっている。男は恐らく警備団の者だ。顔に覚えはないが、その服装には見覚えがある。
警備団は全員が同じ隊服を着ているため、一目で判別できた。給仕に当たらなかったのは幸運だったという他しかない。
給仕は突然の事態に硬直していた。伏せることも動くこともなく、その場から動いてはいない。
ゼンは給仕を通り過ぎ、倒れた男に近づく。男の喉元からナイフを引き抜く。
今になって給仕は腰を抜かし、地面に座り込んでしまった。遅れて目の前の事態を理解し、恐怖心がやってきた。
ゼンは給仕に手を刺し伸ばす。
「大丈夫か?
え~と、名前は……」
「リ、リース。それが私の名前」
「そうか、リースか。
巻き込んで悪いな。もう俺に近づかない方がいい。今度は腰を抜かすだけじゃすまなくなるぞ。
今、見たことも夢と思え。家に帰って寝ろ。明日からも平和な生活を謳歌してくれ。
それじゃあな。」
ゼンは歩きだす。後ろは振り返らない。恐らく、リースは腰を抜かしたままだろう。あのまま置いていくのは少し酷だが、彼と一緒にいる方がもっと酷な事態に陥るだろう。
「待って!」
声はするがゼンは止まらない。徐々にだが、リースの声が小さくなっていく。
「ハァ、ハァ」
何とかゼンは宿に辿り着くことができた。彼は這いずるようにして部屋に入り込む。入り込むことはできたが、それ以上、体が動かない。
布団はすぐ側にあるのに、体が少しも動かない。指一本ですら自分の意のままに操れない。動いているのは呼吸をする胸だけだ。エアはいない。いたとすれば、すぐに近寄ってくるはずだ。
口も動かせない。言葉が発せない。やがて、ゼンの意識は消えていく。




