三話 其の三
流石にこれで立ち上がることはあるまい、ゼンは安堵した。本当は、ここで腰を落ち着けたいのだがそういう訳にもいかない。
ゼンは外から自室に飛び込んだ。窓の縁や、建物の僅かな突起物を使い、部屋に入る。
「今すぐ出るぞ」
部屋に戻るなり、ゼンはそう言い放った。
「え、え?どういうこと?」
隠れるように指示していたエアは、状況が呑み込めていないようだ。
「説明は後だ」
それだけ言うと、ゼンはエアをいつものポーチに放り込んだ。
「うわっ」
ゼンの迫真さに押され、エアは成す術もなくポーチの中へとその姿を隠した。
すでに荷物は纏めていたため、夜逃げの準備は数十秒で終わった。
入ってきた時と同じように、部屋を出たのは窓からである。
同じように窓の縁や壁の応答と利用し、今度はうまく着地できた。
再び地に立ってゼンは休む暇もなく、厩舎に向かう。
「悪いが、これから一っ走りしてもらうぞ」
ゼンはセロの体を数度軽く叩く。それに呼応したかのように、セロは前足を上げた。
「おっと、そうだ」
セロの鐙に片足だけをかけていたゼンは、セロの横にいた馬に目をかけた。
「お前にも走ってもらうぞ」
ゼンはセロに乗り、それに加えて横の馬の手綱を握り、厩舎を出た。
ゼンは二頭の馬を引き連れ、先程の死闘の場所に戻ってきた。
倒れているマイネの横に一人の男が佇んでいる。
「旦那、旦那」
男は倒れているマイネを必死に呼びかけているが、反応はない。その熱中の程度は、ゼンが近づいても気づかない程だ。
「旦那!立ってアイツを倒してくださいよ。それで、分け前を俺にくれるんでしょう」
「オイ」
ゼンは男の後ろに立って、声を掛けた。
目の前にいる男は、後ろにゼンがいることに気付く。だが、振り向きはしなかった。
男の肩は震えていた。きっと、自分が斬られると思っているのだろう。
少しずつ、本当に少しずつだが、男が動き始める。そして、後ろにいるゼンを見ようと体を回転させる。
鈍い音が響いた。
ゼンは刀の柄で男の頭を小突いた。
男はその一撃で気を失った。
「まったく、コイツのせいでこんな目に」
ゼンは気絶した男を抱えると、もう一頭の馬に乗せた。
「これで、よしと……」
そう言うと、男を乗せた馬の尻を叩いた。馬は興奮して明後日の方向へと走っていく。上に男を乗せた状態で。
馬が走っていた方向は、警備隊が来るであろう方向だ。警備隊の連中からしても、自分たちの方に制御を失った馬が来たら、対処せざるを得ないだろう。
「さて、逃げるか」
ゼンはセロに跨り、反対の方向に向かってセロを走らせた。
街が寝静まる夜に一つの影が移動している。
ゼンが移動している区とは別の方向からは、雑多な音が鳴り響いている。
その騒ぎを起こしたのはゼンだが、本人は真顔で街の外を目指していた。
「何でこんなことになってるの!」
ポーチからエアが顔を出して喚いている。
「お前のせいだよ!というより、ここで顔出すなって」
「どうせ町から出るんだからいいでしょう!」
ゼンは一度だけ大きい舌打ちをすると、セロの操作の方に集中した。
闇夜を駆け抜けるゼンの前から、騎兵が二人、横に並んで馬を走らせている。
二人とも暴徒鎮圧用の非殺傷の槍を構えた。柄は木で、先端は丸くなっている。あの槍を全力で突かれると骨の二本三本は折れる、との噂だ。
二人の騎兵は息の合った動きでゼンめがけて一直線に向かってくる。
二人は交差してゼンを止めるつもりだった。徐々に左右から詰め、身動きが取れないように誘導しようとする。仮にゼンが左右どちらに向きを変えようと、リーチに長けた槍はゼンを逃さないだろう。
ゼンは背中にあるクロスボウに手を掛けたが、すぐにその手を戻した。
そうしている間にも、二組の距離は縮まる一方だ。
騎兵は互いに顔を見合わせた。兜を被り、互いの顔は見えないはずだ。だが、二人は何かを感じ取った。
二本の槍がゼンめがけて、放たれた。槍はゼンの体に直撃したはずだった。
しかし、そこにあるはずのゼンの体はなかった。ゼンの体は、槍よりも上にある。
ゼンは放たれた槍に掴まり、逆立ちの状態で攻撃を避けたのだ。ゼンはそのまま一回転し、セロに跨る。
その動きは、時間にしては数秒であった。だが、余りの出来事に騎兵たちは驚き、馬も止めてしまった。
騎兵は、再び顔を見合わせた。自分達の見たものが信じられず、互いに確認を取っている。
相互確認が終わり、二人の意識はゼンの方に向けられた。
二人が振り返った時には、ゼンの背中は小さくなっていた。追いかけようと馬を反転させるが、既に追いつけないほどに距離は開いていた。
ゼンが騎兵を振り切ってから、しばしの時間が経った。
未だにゼンは東の都から脱出しきれていなかった。今までも通ってきた見慣れた道だが、今のゼンにとっては安心できるものではなかった。
先程起こした騒ぎもようやく終結を迎える。そうすると、騒ぎの鎮静を図っていた兵士たちがゼンを捕らえにやってきた。
ゼンは兵士と遭遇しないよう道を変え、無規則に動いているが、その努力は報われなかった。
「いたぞ!あそこだ」
「逃がすな、追え」
四方八方から防衛隊の声が響く。ゼンたちの動く音は、想像以上に響き、その場所が容易く知られてしまう。
更に、防衛隊の兵士たちは各所に点在しており、逃げても逃げてもキリがない。
「クソッ」
流石のゼンも逃走による疲労の色が見えてきた。
マイネとの戦闘が終わって、休むことなく脱出口を探しているが、行く手を阻まれるばかりである。
ゼンの行くところ行くところに、防衛隊の姿がチラつく。段々と腹から怒りが込み上げてくる。
「こうなりゃ、強行突破だ」
ゼンはポーチの中にいるエアにそう言った。
「強行突破って、具体的にどうするの?」
ポーチから顔を出したエアが心配そうに問いかける。
「北の門から出て、東の方へ行く。道中、揺れるけど落ちるなよ」
そう言うと、ゼンは大通りに出た。セロの体を足で叩くと、疾風のような速さで街を駆けていく。
あまりの速さに防衛隊の兵士も手を出すことができなかった。何度かセロを転倒させようと槍が足元に跳んできたが、セロは華麗にそれを避ける。
弓矢も飛んできたが、大半は当たらなかった。放たれた矢は、ゼンが通り過ぎた後に、着地した。
偶然、ゼンの方に跳んできた矢も、ゼンが刀で切り払う。
「見えた」
ゼンの視界の先には、都と外を隔てる門があった。
門にいる兵士たちもゼンに気付いたようだ。そこにいる兵士たち全員で、門を閉じようとしている。
「間に合うか」
ゼンはセロを全力で走らせているが、未だに門は遠かった。
ゼンが門から脱出するか、兵士たちが先に門を閉じるか、状況はどちらにも転びそうだ。
「何としてでも止めろ!」
建物の角から、槍を携えた複数の兵士たちが出てきた。
今度の槍は鉄でできた殺傷用ものだ。向こうもなりふり構わなくなってくるのがわかった。
「あと……、ちょっとなのに」
出てきた兵士たちは、道路を塞ぐように横一列に並び始める。槍を前に突き出した状態で、何としてでもゼンを止めようとする気概が見えてくる。
「どうするの、どうするの、どうするの~?」
ポーチの中にいるエアが騒ぎ始めた。
「いいから、掴まってろ!」
そう言ったゼンの顔からは、落ち着きが見えた。逆に、それがエアにとっては怖かった。
ゼンと兵士たちが衝突する、その寸前だった。ゼンはセロの胴を足で叩く。
セロはそれに合わせて、高く飛んだ。
兵士たちが槍を前面に突き出していたからこそ、採れた選択であった。もし、槍が上向きならば、セロは串刺しになっていただろう。
「あっ」
兵士たちから驚きの声が出た。全速力で走ってくる馬に、彼らも恐怖していた。衝突すれば、自分たちも無傷では済まない。その懸念が槍にも表れていた。
ある者はそれを手放し、ある者は自分の前に横に出すなど、元の構えのままの兵士は数人しかいなかった。
「あれ?お前、槍は?」
一人の兵士が隣の者に向かっていった。
「あれ、ほんとだ。地面にも落ちていないし」
槍を紛失した兵士が辺りを見渡していると、ゼンの背中が目に入った。その左手には、槍が握られている。
門までの距離はあと少し。そして、門は既に僅かだけしか開かれていなかった。
ゼンは左手にある槍を持ち直す。槍投げの状態で左手に持ち、前方にある巨大な門前掛けて、その槍を投げた。
宙を放物線上に跳んだ槍は、木製の門に刺さる。
「っおお」
その衝撃に驚いた兵士は腰を付いた。目の前に刺さった槍を、驚きつつも凝視している。
その上を何かが飛んだ。飛んだ何かは、僅かに空いた門の間から外に出た。
「あつ、」
声を漏らした時には、ゼンの姿は暗闇に溶けていた。