十一話 其の六
「私は、元々この家に住んでいた訳じゃなかったんだ。
これでもお嬢様だったんだよ、昔は」
ゼンにはどうもその姿が想像できない。山を縦横無尽に駆け巡る、リタの姿からは。
「一応、ある程度の地を治めていた領主の一人娘なのよ、私。
母親は私を産んだ後にすぐに亡くなった。体が弱いのは、お母さんもだったんだ。
私が小さい頃は、すぐに倒れて横になっていた。立っている時間よりも横になっている時間の方が多かったと思う。
父は私を、それはもう大切にしてくれた。一人娘で、亡き妻の忘れ形見だから、人一倍私に気を掛けてくれた。
私の体調がいい時には外にも出してくれた。最初は家の近く、慣れてくると近くの山や水辺の方にも連れて行ってくれた。その甲斐もあって、私の体は徐々に良くなっていったんだ。
私も嬉しかったし、父は私以上に嬉しそうだった。
そんな時だった。私の元に結婚の話が来たのは。いや、結婚じゃないな。愛人にならないか、っていう脅しが。
話を持ち掛けてきたのは、別の領のバカ息子だった。そのバカ息子の父親の部下が、私の父だったの。この誘いを断れば、何かと理由を付けて父の地位を脅かすことは間違いなかった。
けども、父はその誘いを断った。娘は病気がちでとても人前には出せないとか。肌荒れや痣が酷くて、嫁には出せないとか、てきとうな話をでっちあげてね。
けども、向こうは父が嘘をついていることを知っていた。何たって、バカ息子本人が私を見たらしくてね。
父もこれ以上は騙しとおせないと悟って、私を連れてこの地まで逃げてきたの。
その時は大変だったんだよ。いきなり“逃げるぞ”とだけ言って、私を連れだしたんだから。前の家にあった大切なものも全部置いたままで。
持ってこれたのはわずかな服と、馬のソメだけ。
そして、私の第二の人生が始まった。父と二人でこの家で過ごす生活が。元々、この家も父が用意していたんだ。いつか、私の体が普通の人みたいになれば、連れてこようとしていたみたい。
ここに移ってからは幸い、生きていくのに困ることはなかった。水はあるし、食料も山から採れる。
困ったのは父のイビキがうるさい位かな。壁が薄いから、すぐに聞こえるんだ。慣れない内はそれで睡眠不足にもなったっけ。
父は私に色々なことを教えてくれた。食べられる食材と食べられない物、弓矢の扱い方、保存食の作り方とか。私が一人でも生きていけるように」
「親父さんは……」
「うん。亡くなった。もう随分と経つかな。
ある日、起きたら亡くなっていた。前の日まで何も変わったところはなかったのに。眠るようにして死んでいた。
私は父の遺体を家の近くに埋めた。それ以来は、ゼンが来るまで一人で暮らしていた。
だから、ゼン。
私が倒れたのはあなたのせいなんかじゃない。むしろ、私自身の問題のせいなの。
もう恐らくわかってはいると思うけど、私も長くない」
「――そんなことはっ」
「いいの。自分の体だもの、自分が一番わかっている。
私が倒れた日から、どんどん体調が悪くなっている。今だと、起き上がるだけでも結構きついんだ。最初はもうちょっとマシだったんだよ。日常生活位なら問題はなかったんだけど。そろそろ限界なの。
さて、私の話はこれで終わり。
悪いんだけど、寝室まで連れて行ってくれる?ただ話すだけでも疲れるんだね。もう立ち上がれないや」
「それ位なら喜んでやるさ」
ゼンはリタに手を刺し伸ばす。彼女がゼンの手を取る。ゼンは彼女を宝物のように丁重に運ぶ。
「楽ちん、楽ちん。
そっちはどう?重くない?」
「毎日運んでいる薪の方が重いな」
リタを運んで、ゼンは改めて彼女の軽さを実感した。発育のいい子供であれば、彼女よりも重いだろう。
「ここ最近で大分軽くなったと思うけど。
ゼンが来たときと立場が逆になったね。あの時は、私が寝ているあなたの世話をして、今度はゼンが私の世話をする。
人生、何があるかわからないね。まさか、怪我をした不審人物に世話される日が来るなんて」
「そうだな。俺もこんなことをするなんて思ってもいなかった」
ゼンはリタを寝かせる。エアは一人で寝床を占領していた。リタがいなくなったことにも気付かず、深い眠りに付いている。起きる気配もない。
「それじゃあな、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
その後は、ゼンも眠りに付いた。色々と考えることはあった。が、目を閉じると、悩むよりも眠りの方が早かった。
次の日からも、ゼンは動き続けた。日が昇る前には起き、誰よりも遅く寝る生活が続いた。それでもゼンは苦しいと感じたことはなかった。
命が脅かされることもなく、日に三度も飯にありつけた。それだけでゼンにとっては極楽の日々であった。
だが、リタの容態は悪くなる一方だった。寝たきりの生活が続いた。食欲も明らかになくなっていった。その結果は、目に見えて現れる。脚や手は細くなり、骨ばっている。顔も小さくなるというより、げっそりしたという印象を受けた。
リタの容態について、あれこれ言うのはエアだけだった。エアは一日中彼女と行動を共にし、あれやこれやと口を動かす。リタはいつも通り、エアの言葉を聞きはするものの、従う気配はなかった。
ゼンとリタは会話を交える回数も減っていた。ゼンがほとんどの時間を外で過ごしているという事情もあるのだが。二人が一緒にいるのは夕食の時くらいだ。その夕食のときでさえ、二人の間の会話は最小限のものだ。互いに口を出せば、余計なことを言ってしまうと感じていた。
口論が二人の間だけで終わればいい。しかし、一番口を開く回数が多くなるのはエアだろう。エアは頑固な部分がある。それが親しい者のこととなれば猶更だ。
「ごちそうさまでした」
リタの皿には、まだ料理が残っている。
「美味しくなかった?それともやっぱり体調のせい?」
「料理はおいしいよ。まあ、私が作った方がおいしく作れるけどね。
食欲がないだけだよ。体調は少しずつだけど良くなっていっている。毎日、三食食べて、睡眠もとりすぎているくらいだしね。
本当にお腹が空いていないだけだから。心配してくれてありがとう、エア。
さて、ゼン。いつも悪いけど今日もよろしくね」
ゼンは自身の残っている料理を口に放り込み、立ち上がる。
「ん、ああぁ」
「食べ終わってからでいいよ。今すぐに寝るっていう訳でもないし」
「そうだよ、ゼン。
ゼンがいっつも、よく噛んで食べろって言っているじゃん。それなのに自分はそうしないって、どういう訳」
「へいへい。
じゃあ、ゆっくり食べさせてもらいますよ」
ゼンは再び椅子に座り、食事を再開する。
リタを寝室まで運ぶのがゼンの日課になりつつあった。大体は食事を終えると、リタは自身の部屋へと帰っていく。
エアによると、リタは大人しく寝ているらしい。就寝中に息を乱すことはないし、起きることもないらしい。一度寝ると、朝が来るまで目は覚めないらしい。ただ、あまりにも静かで、死んでいるのではないかというエアの不安があった。
日々は過ぎ去り、季節も変わりつつあった。毎日降っていた雪は徐々に量が減りつつある。地面に積もった雪も厚さが薄くなっている。それに伴い、気温も上がりつつあった。ゼンが上着を脱いで、出ることも多くなった。
太陽が落ちるまでも長くなっている。これまでは罠を仕掛けていた地点を巡れば、後は家に帰る頃合いになっていた。最近は、リタの症状を軽くする薬草を探してから帰っても、まだ陽は落ちていない。
ゼンも完全に復活といっていい状態まで戻っていた。腹に小さな傷跡は残ってはいるが、近くで見ないと判別ができない位である。
一方、リタの容態が良くなることはなかった。ゼンが必死にあれやこれやと薬草を探しても、症状に改善は見られなかった。最近は、物を咀嚼するのにも一苦労する始末である。。
食事の際や就寝の際など、移動するときはゼンが運ばないと、どこにも行けない体になりつつあった。食欲も落ちている。用意する量は変わらないのだが、以前よりも残している量が増えている。
「ゼン。エアのことだけど……」
「分かっている」
エアも薄々とではあるが、リタの容態に勘付いてきている。ゼンに詰め寄ったりすることはないが、暗にほのめかすことが多くなった。
「どうにもならないの?」
「俺の力じゃ無理だ」
「誰かほかの人なら。
いったん、山を下りて近くの村から医者を呼んでくるとか。薬を買うとか」
「あの症状は恐らく無理だ。
それに、リタはここに誰かを入れることを望んでいない。仮に診察に来た医者がこの場所を漏らせば、俺たちは逃げられない。
それに、こんな山奥に来てくれる医者なんていない」
「それじゃあ、どうすることもできないの!リタはあんなにも苦しんでいるのに」
「……」
ゼンは何も応えない。
「――そんな。そんなことって」
エアの目から涙があふれる。溢れた涙は許容量を超え、地面へと落ちていく。
ゼンの拳は硬く握られている。
解決策は出ないまま、夜が明けた。
その日は、快晴だった。視線を上げた先にある青い空は久しぶりの景色であった。雲はあるものの、太陽が見える。太陽の熱によって、積もった雪が解け始めていた。
ゼンはリタを抱いたまま、家の前に出ていた。久方ぶりの快晴だ。外の空気を吸わせてやりたいという気落ちがゼンにはあったのだ。
リタも同じであった。窓から見る銀景色には飽きたそうだ。しばらく外にも出ていないので、ゼンの提案にすぐに乗ってくれた。
「う~ん、いい天気。
外に出るのも久しぶりだから気持ちいい」
「そいつは何よりだ」
リタの気分は良さそうだ。少なくとも家にいるよりかは、気分転換ができているのだろう。
それとは裏腹に、ゼンの心には靄が掛かっている。リタの体重が減っている。以前よりも更にだ。
前々からリタの体重が減っていることにはゼンも気付いていた。最近はその勢いに拍車がかかっているように思えた。子供でも、もう少し重さがあるはずだ。その重さすら、今のリタには存在していなかった。
ゼンがこの家に来た当時、料理を作っていた細くも筋肉のあった腕は、骨と皮だけしか残っていない。山を駆けまわった強靭な足腰も最早見る影もない。
「ゼン……」
「何だ?」
「お願いがあるの。聞いてくれる?」
「聞くだけなら、いくらでも聞いてやるよ」
「私が死んだら、この地に埋めてほしいの。ソメは好きにさせてやって。
今まで私のわがままに付き合ってもらったから、もう自由にさせてあげたいの」
ゼンは何も言わない。
「ここには父も眠っている。
あそこだけ、土の色が違うでしょ」
リタが指さした場所は、確かに他の場所と土の色が違った。更に、その場所には一輪の花が添えられていた。
「あの花はエアがしてくれたの。
私が父のこと話した日から、一日も欠かさずに。私は動けなかったけど、窓の外から見えたの。
毎日、毎日。雪も降っているのに外に出て、綺麗な花を添えてくれたの。
もう覚悟はできてる。
できれば、苦しむことなく眠るように意識が無くなれば、一番いんだけどね」
「――わかった。
お前の願いは叶えてやる」
ゼンの言葉はそれだけだった。
「うん。お願いね」
対するリタの返答も簡潔であった。