十一話 其の五
リタが倒れてから早数日、彼女の体調は回復の兆しが見え始めていた。寝床で寝たきりだったのが、立ち上がり、歩けるまでに戻っていた。
ゼンがこの家に来たときと役割が逆転していた。ゼンが外に出て食料を探し、リタが家の中の用事を済ますという形に。
本音を言えば、ゼンはリタには横になって欲しかった。一時は立ち上がることすらできなかったのだ、それを考えるとしばらくは安静にするのが望ましいのはわかっている。
ゼンがリタに強く言えないのには理由があった。一つは彼女自身が横になることを拒否しているからだ。もう一つは、ゼンも人のことを言える立場ではないからだ。
「寝てばかりじゃ、治るものも治らないよ」
そう言って、リタは寝床から抜け出すことが多々あった。ゼンが朝に家を出て帰ると、ベッドにいるはずのリタが家事をしている光景を何度も目にした。やがてゼンもそれについて口にすることは無くなった。
またゼン自身も無茶をして、リタに看病された身である。それ故、リタに対してどうしても強く出ることを躊躇してしまう。
リタ自身が動くことを望んでいる以上、ゼンにはどうすることもできなかった。
リタに対し一番強く出ているのはエアである。エアは彼女に対し何度も口ずっぱく安静にするように促しているが、効果はない。リタはエアのことを上手く受け流すだけだ。エアの忠告は受け入れられた試しがなかった。
「分かった、分かった。
これが終わったら、すぐ戻るから」
この言葉がリタの口癖になりつつあった。
ゼン自身も以前よりも更に体のキレは良くなりつつあった。日が昇る前から落ちるまで、動き続けることが日常になりつつあった。朝に起きて馬の世話をし、山に入ってはその日の食材を探す。運動量は以前と比べると格段に増えていた。
不思議なことにゼンは疲労をあまり感じなかった。むしろ、体の調子がよくなりつつあることを実感している。体力は勿論、力に関しても怪我を負う依然と遜色ない位だ。
回復に大きな寄与を果たしたのは食事である。ゼンが食材を探し始め、肉を食うことが多くなった。ゼンは山の一定の場所に動物用の罠を仕掛けていた。わざわざ獲物を探して山を歩き回らずとも、運が良ければ肉にありつくことができた。
ゼンやエアは食卓に肉が増えたことで大喜びしていたが、リタの顔は変わらないままだ。リタの器には肉が残ることも一度や二度の話ではない。
「リタ、お肉嫌いなのかな?」
「嫌いって訳じゃなさそうだがな」
「ゼン、そんなことわかるの?」
「本当に嫌いなら口にしないはずだ。
それに残す時との残さない時があるからな。体調によって変わるんじゃないのか」
「今度聴いておくよ」
「そうしてくれ」
実際、ゼンにも確固たる理由はわからなかった。体調に拠るものなのか、単純に好き嫌いの問題なのか。ゼンも深くは聞かないが、理由が知りたくない訳ではない。
また夜が明け、ゼンは目を覚ます。窓の外には変わらぬ風景がある。横殴りの雪のせいで、視界の悪い風景が。
ゼンは自身の体には少し大きい上着に袖を通し、家を出る。
息が白い。何もせずに突っ立っていれば肺の中まで凍りそうな寒さだ。
「フー」
ゼンは深呼吸をし、走り始める。最初は歩く速度と変わらぬ程度に。慣れてきたら、息が切れない程度の速度で山中を走る。
「今日は掛かってないか……」
ゼンは罠を仕掛けた地点を順々に回っていったが、この日はどの罠にも動物の姿はなかった。
それ自体は珍しいことではなかった。時節のこともある。まだ保存用に取っておいた肉もある。それで一日、二日なら凌ぐことは可能だ。
ゼンは罠の地点を去ると、家へ戻りつつ、山菜収集へと移った。既に体は十分に温まっている。歩く程度ならあまり寒さを感じずに済む。
「ん?」
「ゼン!
急いで、リタが」
ゼンは走った。ゼンが真っ先に目にしたのは、床に倒れているリタの姿だ。
「今まで元気にしていたのに急に倒れて……。
今までは何ともなかったんだよ。それが急に」
「わかった」
ゼンはリタの首筋に手を当てる。脈拍がかなり早い。呼吸はしているが、苦しそうな表情を浮かべている。
「ちょっと変なところに触れるかもしれんが、許してくれよ」
「何も言わないから大丈夫よ。
何だったら、今が絶好の機会だよ」
リタは苦悶の表情を浮かばせつつ、必死に軽口を叩く。
「元気になってから触らせてもらうさ」
ゼンはリタを抱え上げ、彼女の寝床にまで運ぶ。
「水はいるか」
「ちょうだい」
「後は何か要るか?」
「体力かな」
「それは、自分で獲得してくれ。
水だな、待っていろ」
ゼンはリタを残し、彼女の部屋を出る。水を蓄えている瓶と飲む容器だけを持って、再び彼女の部屋へ入る。
寝床にいるはずのリタはそこにいなかった。代わりに先ほどと同じように床に倒れている彼女の姿がそこにはあった。
「おい!リタ!」
「大丈夫、とは言えないね。
ハハハ、体に力が入らないや」
「無理するな。
ほら、水だ」
ゼンは容器に入った水を差しだす。
「ありがとう」
リタも手を伸ばす。が、その手で入れ物を掴むことはできなかった。手にした瞬間、杯は地面へと落ちていく。
「ハハ、この程度の物すら持てないの」
リタの手は震えていた。彼女は怒りにわななく訳でも何かを恐れている訳でもない。ただ、力がなかったのだ。
「もういい、リタ。休んでいろ」
「……そうするよ。
悪いけど今日は一人にして。エアにもそう言っておいて」
「わかった」
ゼンは振り返らず、リタの部屋を後にする。
「リタの調子は?」
部屋から出た瞬間、エアの質問が飛んできた。触れ合いそうな位の距離で、ゼンの目を真っすぐに見てくる。
「体調が悪いから寝るそうだ。
今日は一人になりたいから部屋には入らないでくれ、だとさ。俺もお前な」
「嫌だ」
「へ?」
「嫌だって、言ってるの!
ゼンはリタのことが心配じゃないの?この間も同じように倒れたんだよ!
それなのに部屋に一人にしておくなんて。絶対、寂しいに決まっている」
「――エア」
「うるさい!
私は行くよ。こんな時こそ、誰かが側にいた方がいいに決まってる。会話がなくても。ただ、隣に誰かがいるだけで心は安らぐんだよ、ゼン」
ゼンはエアに対し、何も言い返すことができない。ゼン自身がこういった経験が少ないというのが理由の一つである。ゼンが一人で暮らしてきた経験が長い、というのがもう一つの理由だ。
ゼンはこれまでの生活から他者に頼らずに一人でこなす癖がついていた。自分一人で身の回りのことをこなせるために、他者を必要とする場面がない。そのため、誰かを頼ることの必要性が理解できないのだ。
「ゼンがなんて言っても、私は行くよ」
飛んで行くエアに対し、ゼンは手を伸ばすだけで何もできなかった。離れていくエアの姿をただ立って、見ることしか。
その日、ゼンは夕食も取らず寝床に入った。普段であれば、すぐに寝付けるのだが、この日は中々眠ることができなかった。
次の日、ゼンは気怠さと空腹感とともに目を覚ました。頭を掻き、体を伸ばす。
リタの姿は見えない。エアもだ。机の上には、空になった容器だけが置かれていた。ゼンは空になった容器に水を注ぎ、リタの部屋の前に置くと家を出た。
リタの様態が心配でない訳ではない。ゼンが家を空けている間に、彼女の身に異常事態が発生する可能性もある。そうなった場合、エアでは何の対処もできないであろう。ゼンを探しに行っても、広い森の中で一人を見つけるのは至難の業だ。
それでもゼンは家を空けることを決めた。このまま待っていても問題は解決しない。リタの容態は悪くなる一方だろう。半端な医療の知識しかないゼンでも、それ位はわかる。そして、自分ではリタを治療できないことも。
今のゼンにできることは、できるだけ栄養の付くものをリタに提供することくらいだ。山で薬草などを採取しても、リタの症状には効果は薄いだろう。
この日も、罠に動物が掛かってはいなかった。全ての地点を回っても、姿はおろか足跡すら見当たらなかった。
「そろそろ位置も変えるか」
ゼンの声が小さく漏れた。
既に朝からそれなりの時が経っている。リタに何もなければ、このまま新しい罠の設置に取り掛かるのだが、今はそういう訳にもいかない。ゼンは大人しく、踵を返した。
家に帰り、ゼンは夕食の調理を始める。ゼンお得意の汁物だ。具材は取ったばかりの山菜だ。
調理中は誰もその場にいないため、ゼンは一人で黙々と作業を進める。誰からも料理の邪魔をされないため、彼が考えていた以上に早く終わった。ゼンはリタの分の食事を持つと、彼女の部屋に立つ。
一息を入れ、リタの部屋のドアを叩く。
「入るぞ」
リタの返事を聞く前に、ゼンは扉の取っ手を回す。
「まっ」
ゼンの声を聞いたのは、扉を開けてからであった。
ゼンの目に、上半身裸のリタが映った。
「悪い。
これを置いたら、すぐに出ていく」
ゼンはてっきり何かが飛んでくるものだと身構えていた。が、ゼンの懸念は懸念で終わった。何も飛来せず、ゼンはすぐにリタの部屋を出た。
一瞬、ほんの一瞬であったが、ゼンの目に映ったリタの裸に対し、ゼンはある印象を抱いた。
異常だ、という印象だ。リタの体は余りにも細すぎた。女性の体にしては余りにも肉がついていない。皮と骨しかゼンの目には見えなかった。リタは栄養を摂取してない訳ではない。常人と比べ食べる量は少ないかもしれないが、それにしてもあの体は異常だ。
あの細い体で毎日山を駆け巡っていたのかと考えると、頭が下がる。それだけではない。ゼンが倒れた時、彼をこの家まで連れてきたのはリタだ。あの細い体でゼンを運ぶのには相当苦労したはずだ。
ゼンは一人、夕食を取るとその日を終えた。
寝つきは良かった。寝床に入ってから、ゼンの記憶はほとんどない。すぐに寝たのだろう。
ふと、ゼンの目が覚めた。まだ眠気は残っている。窓の外は暗闇に覆われている。まだ夜が明けるまでには時間がある。このままもう一度、目を閉じる。
眠気はあっても、何故か眠ることができない。喉の渇きをいやすためにゼンは立ち上がる。
そこにはリタがいた。リタは椅子に座り、水を飲んでいた。
「やあ。ゼンも眠れないのかい?」
「お陰様で快眠できているよ。
ちょっとばかし、喉が渇いたんで水を飲みに。お前もか?」
「私の場合は、単純に眠れないんだ。
一日中、寝たっきりで寝るのには飽き飽きしてるよ。
どうせだし、私の話に付き合ってくれる?」
「ああ。
気の利いたことは言えないが。それでもいいならな」