十一話 其の三
ゼンが寝床から離れ、作業を始めてから幾ばくかの時が経った。日を経るごとに、ゼンの作業速度は上がっていく。今まで陽が沈むまでに終わっていた作業が、陽が真上を少し過ぎた辺りの頃で終わる。
余った時間で、ゼンは更に体を動かす。斧を片手に、その日に使う薪を割っていく。
気温は下がっていく一方だが、ゼンの体は熱くなる一方だ。薪割を終える頃には、額と背中は汗で濡れている。
少し前までは体を動かせば、怪我の部分に痛みが走った。今はその痛みも微々たるものになりつつある。むしろ、体を動かし続けている方が、痛みも感じにくくなっていた。
「ゼ~ン、今日のお仕事終わった?」
飛んできたのは、エアだ。ゼンが薪割をしている間、何処かへ行っていたエアが戻ってきた。
「終わったよ。
今日はこれで終わりだ」
ゼンは斧を地面に置き、汗をぬぐう。
「どう、体の調子は?
もう傷口も痛まない?」
「上々だ。
傷口もだいぶ良くなってきた」
エアは日によって、自身の居場所を変える。リタについていく時もあれば、ゼンと一緒にいるときもいる。
エア自身は寒いのが苦手だ、そうだ。雪を見たのも今回が初めてと言っていた。とすれば、エアの生まれた場所は南の方になるのだろうか。
「さて、そろそろ家に戻るか。
もうすぐリタも帰ってくるころだろ」
「今日は肉かな、山菜かな。
肉の方が嬉しいんだけどな~」
「俺もだ」
ゼンが家のことをしている間、リタは山へ出て狩りをしていた。と言っても、毎日何かを狩れるわけではない。むしろ、生き物を狩れる日の方が稀だ。特に気温が下がっている今の状況では、動物たちも冬眠をしている。
狩りの成果がない日、リタは代わりに山菜を取ってくる。この頃は山菜ばかりの日が続き、ゼンもエアも肉を欲し始めている。
「今日の分は終わったようだね」
家に着く前、ゼンはリタに出会った。リタは小型の弓を背中に携え、片手に見慣れた山菜を持っている。この様子では、今日も肉にはありつけそうにない。
「悪いけれども、今日も肉はないよ」
「文句はないさ。
寝ていた間に増えた余分な肉が、お陰様で減ったよ」
リタはいつも陽が出てから山中へ赴き、陽が沈むまでには家に戻ってくる。保護色の外套を着こみ、狩猟というよりは散歩に近い感じだ。
彼女自身も帰って来てからも顔に疲労の表情を見せることはない。むしろ、家を出る前の方が暗い顔をしているくらいだ。
彼女の獲物は、背中に携えている小型の弓、それに左大腿に巻き付けているナイフだ。ナイフは女性にしてはかなり大型のものだ。恐らく、両手で扱うのだろう。
といっても、彼女が武器を使う機会はそうそうなかった。彼女が取ってくるのは、大半が山菜だ。そして、ゼンが驚いたのは、彼女の料理上手さだ。
ゼン自身もそれなりに料理の腕には自負を持っている。男性はおろか、女性よりも美味しいものを作れる自信がある。
リタの料理はそれ以上のものだった。彼女の料理を一口食べただけで、ゼンは悟った。リタに料理では勝てない、ということを。材料で言えば、彼女の使っているものは山菜が大半だ。ゼンが普段食べているものの方が豪華だ。
となれば、後は料理を作る者の腕の差だ。単純に、ゼンよりもリタの方が料理の腕の上だった、それだけの話だ。
肉が食卓に出ないことは、ゼンにとって辛い日々であった。怪我を負っている時は体を動かすことができないため、寝るか食べるかしかできない。そのため、一日の満足感に食事が大きな割合を占めている。その食事に肉が出ない、それはゼンの体力にも気力にも負の影響を多大に与えることになってしまう。
実際はそれほどゼンに影響が出ることはなかった。それは何よりも、リタの料理が美味いからであった。仮に、リタの料理が不味ければ、ゼンが立ち上がるのにもっと日数を要したであろう。
晩飯を食えば、後は寝るだけだ。夜は日中以上に冷え込んでいる。外に出れば体調を壊しても不思議ではない。外に出ることもできず、屋内でもすることもない。
腹が満たされれば、睡魔がゼンを襲う。既にエアはゼンが寝るベッドの上で眠りに付いている。
「ふぅぅ」
ゼンは自身の上着を脱ぐ。上着の下には包帯が巻かれている。腹の辺りに、何重にも巻かれている。赤い染みはなく、まだ白いままだ。
ゼンはゆっくり、ゆっくり包帯を解いていく。途中、何度か声が漏れそうになる。身体に触れている包帯には赤い染みがあった。既に血は固まり、解く時に乾いた音がした。
まだゼンの体には大きな傷跡が残っている。黒ずんだ、丸い跡が。傷跡を消すには多大な時間が必要そうだ。
ゼンは机の上に置いている新しい包帯を手にする。彼は慣れた手つきで腹に包帯を何重にも巻いていく。物の僅かな間で、包帯の取り換えは終わった。
「寝るか」
ゼンはエアを起こさぬよう、そっと布団をめくる。エアは起きそうにない。この頃は特によく眠っている。
昼に何をしているのかしらないが、一度眠ると、早々のことでは起きない。
ゼンもそうだ。疲労が溜まっている訳ではないが、体力が落ちているのだろう。晩飯を食べ終わるとすぐに眠くなる。そして夢を見る間もなく、起きてしまう。
「んぁ」
次の日も、その次の日も、また次の日も代わり映えのない日々が続いた。窓の外には雪が降り、冷たい風はゼンの体温を容赦なく奪っていく。
それでもゼンは毎日、毎日、自身の作業をこなしていく。雪で目の前の視界が悪かろうが、極寒の日であろうが。
「フンッ!」
ゼンの動きは以前と違わぬ程までに回復していた。体に傷跡は残ったままであるが、体の動作に支障はない。
「大分、よくなってきたんじゃない?」
後ろに立っていたのはリタだ。いつもであれば、この時間帯は森へ行っているはずだが。
「今日は大きな獲物が狩れてね。
一人じゃ運べないんだ。手伝ってくれない?」
「ああ。すぐに向かおう。
ここからどれくらいの距離だ?」
「私一人ならすぐに。
ゼン、もう走れる?」
「肉のためなら、走れるさ」
「それじゃあ、行くよ。
遅かったら待つから、ゆっくりでいいよ」
「そいつは……どうも」
リタが先行し、ゼンが後を追いかける。リタの後を追って判明したことは、彼女の足の速さだ。ゼンが必死に後を追いかけても、彼女との距離は一向に近くならない。
小柄な体の何処にあんな力があるのか、ゼンは不思議に思う暇もなく、ただただ彼女の後を追う。ゼンの息が切れ始めても、リタの様子に変わりはない。肩も大きく動かず、息切れしている様子もない。
「ハア……ハア……」
もう息が続かない、ゼンが止まってくれと口に出そうとしたその時だ。
「着いたよ」
リタは普段と変わらない息遣いで、何もなかったかのように言う。多少の呼吸の乱れこそあるものの、ゼンと比べればその違いは一目瞭然だ。
「コイツ、頼むよ」
リタが指さした先には動物が横たわっていた。頭には二本の角が生え、皮膚は体毛で覆われている。背中から腹にかけては、皮膚が見えない位だ。大きさはゼンよりも小さく、リタよりは大きいだろう。リタが狩った中では最大の大きさだ。動物の腹に一本の矢が刺さっていた。
「よく一本の矢だけで仕留められたな。この大きさなら、二、三本以上打ち込んで、ようやく仕留められる大きさだぞ」
「ちょっと、矢に細工を施したの。あなたの言う通り、この大きさじゃ仕留めるよりも前に逃しそうだったから」
「ほう、どんな細工を?」
「毒よ。と言っても、すぐに死ぬようなもんじゃないけどね。あくまで摂取すれば、体が痺れるだけの」
「それだけでも十分さ。
現に今こうして、目の前で実証している」
「お話はここまで。解体するよ。
ゼン、体を持って」
「了解」
「ゴメンね」
リタは小さくそう呟き、横たわる動物の首元にナイフを入れた。
料理に加え、解体もリタは得意のようだ。腹に刃物を入れ、そのまま止まることなく切り裂く。切り裂かれた腹からは大量の血が溢れ出る。
リタは溢れてくる液体に物怖じせずに、それどころか自ら進んで腹の中に手を突っ込む。リタの腕は血まみれになってしまった。それでも彼女は自身の姿を気にすることさえしない。
「取れた!」
そう言ってリタは血まみれの腹の中から顔を出した。彼女が右手に持っていたのは臓物だ。
「この部位が美味しいんだよ。すぐに腐るのが欠点だけどね」
「食べても大丈夫なのか?
食べた次の日、体が動かなくなったら笑い話じゃすまないぞ」
「大丈夫。もし、体が麻痺するようなら、私は今この場所にいないから。
さあ、運ぶわよ」
「あいよ。
このままじゃ、服が汚れちまうから預かっててくれ」
ゼンは着ていた、少し大きめの上着をリタに預ける。体は既に温まっており、上着を脱いでも心地よい位だ。
リタは既に手拭いで血を綺麗にふき取っていた。
このまま過ごせばまた体が冷えるだけだが、その心配はない。今からゼンを待っているのは重労働だ。目の前に横たわっている今日の食糧を持ち帰るという仕事が。
ゼンはゆっくり息を吸い、そして吐く。
「ふんっ」
ゼンは獲物を肩に担ぐ。流石に重量がある。担いだまま走ることは可能だが、距離を稼ぐのは難しい。
「どう?大丈夫?」
「歩く分にはな。
走るのは勘弁だがな」
「それじゃあ、帰りはゆっくり歩きますか」
「そうしてくれ」
ゼンとリタはゆっくりと歩き始めた。険しい山中を、しかも足元には雪が積もっている。ただ歩くだけでも過酷だ。加えて、ゼンは荷を背負っている。足元を掬われぬように歩くだけも精一杯だ。
リタが先行し、ゼンが後を追う。
「そこ、木の枝があるから気を付けて」
「ここ、滑りやすいからね」
リタの声がなければ、ゼンは何度も雪の上に転がっていただろう。ゼンは一歩一歩の距離を短くし、転ばぬよう気を張る。それでもゼンの注意が及ばぬ箇所もある。その個所は、リタの指示で乗り切っている。
「フーフー」
ただ歩いているだけだが、ゼンの体力は確実に消費されている。ゼンの額からは汗が流れている。
「少し休む?」
「いや、このまま歩こう。
休んだら、逆に辛くなる」
「そう。
家まではまだそれなりに距離があるけど、頑張ってね」
「肉のためならやるさ」
その後も、ゼンはゆっくりとではあるが、着実に一歩一歩を踏みしめていく。家に近づけば近づくほど、息は上がっていく。額だけに留まっていた汗は、今や顔中に流れている。
「ハァ、ハァ、ハァ。
……着いた」
「お疲れ様。
いやぁ、絶対に途中で休憩すると思っていたんだけどなぁ。まさか、休まずに家まで着くなんて。
後は休んでおいて。これから夕食の準備をするから」
「ああ、お言葉に甘えさせてもらうよ」
ゼンは重い腰を上げる。まだ重さから完全に開放はされていなかった。まっすぐ歩くだけでも少し揺ら付いているのが見てわかる。
ゼンはふらつきながらも、なんとか部屋にまで戻った。既に眠気がゼンを襲い始めている。部屋に戻って、ゼンがまず目にしたのは、椅子だ。
ゼンはそれに吸い込まれるようにして近づいていく。椅子に腰かけると、瞼も重くなっていく。気づいた時には、ゼンは眠っていた。