十一話 其の二
ゼンは夢の中にいた。彼自身はそのことに気付いていない。彼は夢の中で敵を斬っていた。
その数は一人や二人ではない。何十人、何百人といる。円状になってゼンを囲う様にして立っている。
彼らは一人でゼンと対峙する。一人が斬られれば、次の一人がゼンの前にやってくる。また斬られれば、次の一人がやってくる。
既にゼンは何人もの敵を斬っている。斬った数は覚えていない。否、彼にはそれを数える余裕すらないのだ。
ゼンの手にある刀からは血が滴り落ちている。彼自身も返り血によって汚れている。汚れているのは返り血のせいだけではない。彼もまた、幾度もの斬撃を喰らっていた。一つ一つは大きな傷でないとはいえ、小さな傷は何箇所にも及んでいる。
「ぬあっ」
ゼンは左ひざをついた状態で、相手の右腹から左肩に掛けて一撃を放った。刀を地面に突き刺し、呼吸を整える。僅かな間の休息だ。ほんの数秒でも休むことのできる貴重な時間だ。まだ、戦いは終わっていない。
「フー、ハー、フー」
ゼンはよろけながらも立ち上がる。ゼンの眼前には、次の相手が立っている。彼の手にはゼンの刀とよく似た獲物を持っている。
ゼンは刀を強く握りなおす。刀身を上に向け、袈裟に斬ることができるように。
「ッン」
なんということだ。目の前の相手もゼンと同じ構えを取る。鏡の前に立ったようだ。
勝負は一撃で決まる。どちらが早く、相手の胴体に一撃をぶち込むか。ただそれだけだ。早い方が勝ち、遅い方が死ぬ。
二人は相向かい合ったまま動かない。刀の刀身からは血が滴っている。血は刀身から鍔へ、そして地面へと落ちる。
ゼンが踏み込んだ。ゼンだけではない。眼前の相手もだ。両者の速度に大きな違いはない。
「ッ」
ゼンの体に激痛が走った。今まで動いていた分、ゼンは痛みを感じる暇もなかった。動きを止めたことで、今まで無理していた代償が来てしまった。
「がっ」
痛みはゼンの動きを遅くし、それはゼンの敗北を意味した。ゼンの刀は途中で止まった。ゼンの手から刀が落ちる。
ゼンの左肩から右わき腹に掛けて、赤い一筋の線が走る。ゼンは自身の体を見る。彼は悟った、もう助からないと。力が入らない。体が言うことを聞かない。気力ももう尽き果てた。
ゼンは崩れ落ちる。膝をつき、地に伏す。自分を斬った相手がどんな者なのかも、気にもとまらない。ただ、負けた。それだけだ。
ゼンはゆっくりと目を閉じる。何の悔いもない、ゆっくりと眠れる。ゼンの視界が暗くなっていく。
ゼンが目を開けた時、まず目に入ったのは見知らぬ天井だ。ゼンの記憶にはない光景だ。
ゼンは自身の記憶を遡る。敵襲に遭い、腹に矢を貰ったことは覚えている。その怪我の治療をしたことも。そこから先だ、一切の記憶がないのは。腹に走る痛みが記憶を確かなものにする。
「あれ、起きた?」
声がした。ゼンは上体を起こそうとする。
「っがぁ」
ゼンは起き上がることができなかった。途中まではいい調子だったが、彼の体に激痛が走る。余りの痛みに、彼の体は寝床に戻ってしまった。
「急に動かない方がいいよ。腹の傷は塞がっているけど、まだ傷が癒えてないんだから。
それに、相当無茶な治療をしたね。腹の傷よりも、荒療治のせいで死ぬかもしれなかったんだ、命は大事にしなくちゃ」
声の主が近くまで来た。ゼンの視界に女性の姿が映る。女性は寝床に横たわるゼンを見下ろしている。
「そうだ、名前教えてよ。
これから呼ぶときに困るからさ。大丈夫?自分の名前、憶えてる?名前がないなら、私が付けるよ。
そうだな~、“ナナシ”は?それか、“ケンシ”!」
「ゼン。ゼンだ」
「ゼン、ゼンね。
とりあえず、命があってよかったね。あのドラゴンと馬にお礼を言っときなよ。あの二人がいなければ、本当に死んでいたよ」
「ああ、後でちゃんと言うよ。
所で、アンタの名前は?」
「私は、リタ。
じゃあ、しっかり休んでおきなよ」
リタ、そう名乗った女性は、ゼンと同じくらいの年齢だろう。長い黒の髪を後ろで束ねている。大きな瞳に、長いまつげ、整った顔立ちをしている。
「ふー」
ゼンは寝床に背を預けながら、一息つく。ひとまず、身の安全は確保された。そういえば、エアは?ゼンは首だけを動かし、周囲を見渡す。
エアの姿は見当たらない。何もなければエアを探しに行くのだが、この体ではそういう訳にもいかない。
今は休むしかない、ゼンは目を閉じる。陽が昇っている間から、寝るのは久しぶりだ。それもこんな心地のいいベットで。偶にはこういうのも悪くない、ゼンは安寧の時間を手にした。かに、見えた。
「ぐふっ」
ゼンの腹に痛みが走る。何か重量のあるものが、腹に落ちてくる。ゼンの安眠は始まる前から終わりを告げた。心地よい気分はどこかに霧散し、痛みと重さがゼンに残った。
「起きたの!ゼン!
あれから何日も寝たままで死んだんじゃないかって、心配したんだからね。
リタがここまで連れてきてくれたんだよ!」
「一度に、全部話すな……。
あと、腹から降りろ……。傷口が開くから……」
「ああ、そうか。
ゴメン、ゴメン」
エアが腹から去った後も、ゼンの腹には痛みが残っていた。
「それで、俺が気を失った後、お前はあの洞窟に残った。洞窟を通りかかったリタに助けられ、今この状況にあると」
「うん!
ゼン、あれから何日も目を開けないままだったんだよ。息はしているけど、目を覚ますか不安だったんだから」
「そいつは心配をかけたな。悪かった。
それと、ありがとうな。助けてくれて」
ゼンはチラリとエアのいる方に顔を向ける。エアは口を開けたまま、呆然としていた。
「何だ?
何か、おかしいことでも言ったか?」
「いや、ただ珍しいなって。何か悪いものでも食べた?けど、寝ていたから食べられないか。
むしろ、食べずに何日も過ごしたからかな」
「酷い言われ様だ」
ゼンの口角が少しだけ上がった。
「ゼンが、笑ってる。
やっぱり何日も何も食べてないから、体がおかしくなったんじゃない?」
「そうかもな。
俺は寝るから、邪魔するなよ」
しばらくの間、ゼンにしては珍しく平和な時が続いた。ゼン自身も腹の傷が癒えていないため、身動きができない状態だ。ベッドに背を預ける、それだけの日が何日も続く。
食事はリタが用意してくれたものを食した。この家に、リタ以外の住人はいるのか、ゼンは尋ねた。
「いない。
この家にいるのは私一人だけ。昔は違うけどね。
賑やかになったよ、特にエアのお陰で。あの子がいると、退屈せずに済むよ。
この前も、雪を見て大興奮していたよ。これは何だって?上を向いて、口をずっーと開けていたよ」
「そうか……。雪か、雪⁉」
ゼンの耳に予想外の言葉が入った。確かに気温が下がっていることはゼンも知っていた。このまま気温が下がり続ければ、雪が降るであろうことも。
しかし、ゼンの意識があったあの晩、まだ雪が降るような気温ではなかった。そこから逆算すると、ゼンは相当長い間、眠っていたようだ。
「何だい、アンタも雪は初めてだったのかい?」
「いや、雪は知っているよ。
ただ、もうそんな時期なのかって驚いただけさ」
「これから雪は積もっていく一方だよ。アンタの馬も、この雪じゃあ、歩くことは難しいだろうね。
まあ、怪我もしているんだし、ゆっくりすることだね」
「ああ、お言葉に甘えさせてもらうよ」
ゼンが寝床から離れるまでには、相応の時間を要した。ゼンが寝床を離れ、外の景色を見た時、そこは一面の雪景色であった。
雪は積もり、ゼンのくるぶし辺りにまで到達していた。ゼンが普段着用している服では寒さを凌ぐことは難しい。見かねたリタが、男物の上着をゼンに貸してくれた。
「お古で悪いけど、何も着ないよりもマシだろ」
渡された上着は、ゼンには少し大きかった。裾や腹囲の辺りに余裕がある。
「ああ、これで凍死せずに済むよ」
ゼンが真っ先に向かった先は、馬小屋だ。馬小屋は、ゼンたちが住んでいる家のすぐ近くにあった。
久し振りにみるセロは、いつもと変わりなさそうだ。馬小屋にはもう一頭、馬がいた。リタの馬だ。セロよりも一回り小さいだろうか。だが、足の筋肉はセロ以上だ。荒れた山道を歩くには適しているのだろう。
「よう、久しぶりだな。元気か?」
ゼンがセロに手を伸ばす。セロは、自身の前に出された手をなめる。
「セロはアンタと違って元気だよ」
後方から声を掛けてきたのはリタだ。
「そいつは何よりだ」
「私の馬とも仲良くやっている様だし、頭もいい。
元からの性質か、それとも教育の賜物か、どっちだと思う?」
「後者だろうな。俺が教えられることなんて片手で数えられる程度しかないからな。
ところで、リタ、君の馬の名前は?」
「ソメ。女の子だから、呼ぶときは親しみを込めて呼んであげて」
「親しみを込めて、ね。」
「起き上がれるようになったし、明日からは軽い作業をお願いするよ。
アンタも寝るだけの生活よりもいいだろ?」
「ああ。もうそろそろ寝るだけの生活にはうんざりしてきたころだ。
体も動かさないと鈍っちまう」
「私は外に出て、食材を調達してくる。
その間に、ゼンには家のことをお願いするよ。家の掃除、炊事、洗濯。それに馬の世話だね。
何か苦手なことはある?」
「苦手なこと……自分の体の治療かな」
「それは知ってる。
付いて来て。納屋の場所も教える」
次の日から、ゼンの肉体労働が始まった。最初は緩慢とした動きで、一つの作業に多くの時間を要した。それだけではなく、一作業を終えるごとに休憩が必要になる。
作業を終えた後のゼンの額には、大量の汗が流れている。外の気温は寒い。山間を吹く風は容赦なく、人の体温を奪っていく。それにも拘わらず、ゼンは額だけではなく、背中も汗でまみれていた。
ゼンに割り当てられた仕事は主に二つだ。一つは馬や馬小屋の世話、もう一つはゼンたちの住処の家事だ。
朝早くからゼンの仕事は始まる。まだエアも寝ている、陽の昇り始める前から、ゼンは動き始めた。と言っても、普段のように俊敏に動くことはできなかった。
まず、ベッドから起き上がるのにゼンは時間を要した。次に、立ち上がるのに。たったそれだけのことに、ゼンは信じられぬほどの時間を掛けた。
ようやくベッドから離れたゼンは、リタが譲り受けた上着を着こみ、家から出る。
まだ日も出ていないため、外の気温は低い。加えて、ゼンが目を覚ましてから雪が降り続けている。低気温に降雪、ゼンの体力を奪うには十分すぎるほどの環境だ。
「ふぅぅぅ」
息を吸い込むと、灰の中まで凍えそうになる。ゼンは肩や足などを大きく動かし、少しでも熱を発生させようと試みる。