十話 其の二
「んじゃ、兄ちゃん。食べ物はこの袋に入れておくぜ。
水は井戸があるから、そこから汲んでくれ。水だけなら、いくらでも汲んでってくれ。
この辺は水が豊富なんだ。あの北東にある山から水が流れてくるんだ。そのお陰で水に関しちゃ苦労しねえんだ」
「その様ですね。ここにいる人たちは皆、幸せそうだ」
ゼンはとある村にいた。北上している最中、ゼンは巨大な獣と対峙することになった。ゼンはこれを撃退し、交易に使える材料を確保していた。
それからしばらくが経ち、食料や水などに不安が生じ始めていた。ゼンは道中、発見した村に立ち寄り食料を手に入れることにした。
ゼンが持っていた獣の材料は物々交換において非常に役立った。保存食用に取っておいた肉、毛皮、内臓などは食料や水と交換される。
更に骨までもが価値を持った。ゼン自身は骨の有効な活用方法を見出すことができずにいた。罠などで使えないことはないが、手間を考えると使う気にはなれなかった。
村人曰く、獣の骨は釣り針として使えるらしい。ゼンは釣りをすることがなかったので、その考えには至らなかった。ゼンもその肉眼で見たが、川には大きな魚が泳いでいた。
ゼンが使わない部位や持て余している素材などを必要物資に換えてもらい、ゼンは村を後にした。
村人からは泊っていくことを勧められたが、ゼンはその申し出を断った。
「ゼン、どうして村で泊まらなかったの?私なら一日位、外とかポーチの中でも大丈夫だよ」
ポーチの中から声がする。いつも通り村の中にいる間、エアにはポーチの中にいるように言っている。
「なあ、エア。お前、親と一緒にいた時、住処を変えたことはあるか?」
「住処を変えたこと?
う~ん、ないかな。わざわざ住み慣れた場所から移るなんて考えたこともなかった。
餌が無くなったりすれば、移り変わるかもしれないけど」
「そうだよな。
わざわざ住み慣れた場所から移るなんて、そうそうしないよな」
「何が言いたいの?」
「この間狩った獣、アイツは元々この地域にいた訳じゃないと、俺は考えている。
じゃあ、何で移動してきたかって謎が残るんだ。この地域は水もあるし、自然も豊かだ。山に住んでいれば、餌が無くなるなんてことはないはずだ」
「じゃあ、どうして?」
「そこが謎なんだ。
考えられる理由はあるが、そうでないことを祈るだけだな」
「どんな理由なの?」
「エア、仮に餌場に自分よりも強い奴がいたらどうする?そいつは餌を占領していたら?」
「そりゃあ勿論、出くわさないように気を付ける。占領されているなら、別の餌場を探すとか……」
「そうだ。
早い話、動物が生活拠点を移すということは、その場所で生活ができないからだ。
その理由が、餌が無くなったからか。自身が餌になりかけたからか。できれば前者であってほしいな」
二人は懸念を抱きつつも、北へと進む。
旅は順調に続いた。ゼン、エアの心配は現実にはならなかった。ゼンも腰に刺した刀を抜くことはなかった。
天候も荒れることなく、恐ろしいほどに旅は順調である。気温が下がりつつあり、ゼンは外套を着る時間が多くなっていた。以前であれば、周囲に人影がないときは外套を脱ぐ機会が多かった。今は昼夜を問わず、外套を着こんでいる。
「冷たくなってきたね」
そういうエアは変わらない。その小さな体で一日を通して外にいるのだが、言葉ほど堪えているようには見えない。
「お前は寒くないのか?
小さな布切れだったらあるぞ」
「寒いよ。寒いけど、まだちょっと体が冷える位かな。
もっと寒くなったら、その布切れ貰うよ」
エアの故郷はどこにあるのか、未だにその手掛かりすらゼンには見えてこない。エアの今の話からすれば、寒さには慣れているようだ。となると、北部の辺りだろうか。
これから気温は下がる一方だ。次第に空から雪が降ってもおかしくないだろう。その雪を見て、エアはどういう反応をするだろうか。もし、エアが雪を見たことがあるのならば、彼女の故郷は北部辺りになるのだろう。
「ゼン。もうそろそろ寝床の準備しなくていいの?
多分、すぐに陽が落ちるよ」
考え事をしていたため、ゼンは野営の準備を忘れていた。普段であれば、もう夕食の準備に取り掛かっている頃だ。
「あ、ああ。
そろそろ準備をしないとな」
とは言ったものの、ゼンは乗り気ではなかった。理由は、食べる食材を狩っていないからだ。数日前から、動物を見かけることが少なくなった。
狩った動物に関しても、小ぶりで痩せているものが多かった。内臓を取り出し胃の中を調べても、空の状態が多かった。
まだ予備の食糧はあるものの、可能な限り手を出したくないというのがゼンの本音だ。
これから先、天候が悪くなることも多くなるだろう。雪が降れば、それだけ進むのは困難になる。動物に関しても、冬眠を始める種もいる。食料を確実に入手する算段が付かないため、ゼンは慎重ぎみになっている。保存用として干している肉もあるが、それも量が減りつつある。
料理に関しても単調になりつつある。寒さに耐えるため、汁物が多くなっていた。料理は野菜と肉を混ぜた簡素なものだ。エアから不要な小言を言われないよう、エアの夕食は別に作っている。
「いっつも、そういう汁物を飲んでるよね、ゼン。飽きないの?」
「誰かさんがもう少し小食なら、俺ももう少し豪勢な食事にありつけるんだがな」
ゼンとしては、冗談のつもりで言いたのだが。
「ゼン、そんなに追い込まれているの?」
「ただの冗談だ。
まあ、正直に言えば、この味には飽き飽きしている。本当は肉に齧り付きたいな。
食ったら寝るぞ。明日も歩くんだ。いや、お前の場合は、飛ぶだな。しっかり体を休めておけ」
ゼンたちは夕食を終えると、休息に入る。いつものことではあるが、ゼンは芯からは眠っていない。何か物音や不穏な気配を察知すれば、直ぐに眠りから目を覚ます。その音や気配が勘違いだったとしてもだ。
その晩も、ゼンは目を覚ました。いつもであれば自身の勘違いであることを察し、再び夢の世界へと入るのだが、この時は違った。
ゼンは何者から見られているような気配を感じた。周囲は開けている。誰かが隠れるような場所はない。それでもゼンの直感は確信している。何者かの視線が自分に向けられていることを。
ゼンはそばに置いている刀を取る。鞘から刃は抜かない。エアはいる、セロもいる。両者とも目を閉じ、眠っている。セロは何かを感じ取ったのか、目を開ける。
「セロ、いつでも走れるように頼むぞ」
ゼンは立ち上がり、周囲を見渡す。やはり、人影はおろか生物の影は見えない。それでも視線をゼンは感じ続けている。エアが起きていれば、鋭い嗅覚で確認してもらえるのだが、今はそれもできない。
光源となる灯りは月の光だけだ。真夜中ということもあり、気温は低いままである。それにも関わらず、ゼンの額からは汗が流れ始めていた。
焚火はあるが、火種は小さくなっている。ゼンは側にあった小枝を火にくべる。火は勢いを盛り返し、再び燃え盛る。この位の火炎ならば、小動物などは近づいてこないはずだ。
それでもゼンに纏わりつく視線が消えることはない。ゼンは刀を握ったまま、立ち尽くしている。
時間が経っても状況は同じままであった。ゼンの顔は汗で濡れている。ゼン自身の精神も疲れを見せ始めていた。いつ襲い掛かってくるのかわからない相手に対し、隙を見せることはできない。
気を張ったまま、何時間も立っているのだ。肉体はまだしも、心は疲弊している。
ゼンが自身に突き刺さる視線から解放されたのは、朝日が昇り始める頃であった。丁度、エアが眠りから目覚める頃であった。
「ふわぁぁ。ゼン、おはよう~」
その一言で、ゼンの緊張の糸は解けた。倒れるようにして、ゼンはその場に座る。
「あれ?ゼン、どうしたの?」
「寝る。何かあったら、起こしてくれ」
その一言を言い残し、ゼンは目を閉じた。
「え?何、どういうこと?
ねえ、ゼン。ゼン!」
エアの声はゼンには届かない。ゼンの鼾がエアの声をかき消してしまった。エアはゼンの上に乗ったり、頬をつまんだりと、あるゆる手を使ってゼンを起こそうとした。その努力が実ることはなかった。ゼンは死んだように眠っていた。
「何だい、何だい。
詳しい理由も話さずに、一人で抱え込んで!」
エアは自慢の嗅覚を使う。集中すれば、微かな匂いでも嗅ぎ分けることができる、エアの自慢の一つだ。
確かに、ゼンの言っていたことは本当らしい。この場には似つかわしくない、異様な匂いをエアの嗅覚は捉えた。野生の生物の匂いに加え、血の独特な鉄臭い匂いだ。
一匹ではない。複数匹いたのだろう。僅かにだが匂いが異なる。エアが寝ていた間、ゼンは目に見えぬ相手と刃を交えずに戦っていたのだ。
「いつになったら、目を覚ますのかな……」
ゼンは口を開け、鼾をかいている。大の字になって、ただ眠っている。
ゼンが目を覚ましたのは、太陽が頂上から少し動いた頃であった。その間、ゼンは寝返ることも姿勢を変えることもなく、ただ眠り続けていた。
「寝ている間、何もなかったか?」
ゼンは何事もなかったかのように上体を起こし、エアに尋ねた。今まで寝ていたのが嘘のように、意識は明確である。
「大丈夫。何もなかったよ」
「そうか。
少し移動するぞ。恐らく今日も何かしらある。準備が必要だ」
「準備するなら、動かない方がいいじゃないの?」
「ここは開き過ぎている。
どこから敵が襲い掛かってくるか絞り切れん。もう少し、守るに有利な場所を探して、そこで待ち構える」
ゼンたちは、素早く荷物を纏めると移動を始めた。