八話・其の十
状況は最悪に近いものであった。護衛対象であるミーネとレーパを守ることができるのは、ゼン一人だけである。
ゼンたちの目の前には数十人の敵が立ちはだかっている。これだけの数をゼン一人ではどうすることもできない。
一対一ならば、ゼンが勝つ。だが、現実はそう上手くは行かない。ゼンが一人を斬る間に、残っている敵がゼンを斬る。
ゼンは嘲笑を浴びせられながら、一歩ずつ前へ進む。ゼンの目線の先には、集団の長であろう男が立っている。
男の手には使い込まれた斧が握られている。刃先には血の跡が付いていた。それは、鮮やかな赤い色ではない。どす黒く変貌した跡だ。
刃の部分も欠けている。凹凸ができている。あの斧では最早、何かを断ち切ることはできないであろう。できるのは、押し潰すようにして強制的に物体を切断することだ。
「そこの小さいの、来いよ」
ゼンの眼前にいる男の顔が変わった。変わったのは長だけではない。その周りにいる部下たちもだ。
部下たちの顔が引きつるのに対して、長の顔は固まっている。怒っているようにも悲しんでいるようにも見えない。冷静な顔つきだ。
「オイ!お前だよ。小さすぎて聞こえないのか」
その一言が起爆剤となった。
長は一直線にゼンに向かって走る。斧を背に担ぎ、背を丸め、足の筋肉を全力で使う。
時間にしてみれば、僅かな間だ。ゼンに辿り着く一歩手前で、長は飛んだ。
宙に飛んだ時、長は背中を真っすぐにし、その力を利用し斧を振り下ろす。斧はゼンの脳天を真っ二つにする軌道であった。
ゼンの頭は真っ二つになっていない。怪我もしている様子はない。右手に持っている刀から、赤い血だけが滴れている。
長はというと、地に付している。動かない。長の体から流れる血が結果を物語っている。
その光景を見て、周りの連中も気づいた。今、目の前に立っている男、ゼンがただ者ではないことを。
「次はどいつだ」
ゼンは再び、刀を構える。刀に付いた血はそのままだ。
残りの連中がゼンから一歩離れる。
「今だ!走れ!」
同時に、ゼンが叫んだ。
一瞬、ミーネとレーパが戸惑った。しかし、今はゼンの言う通りにするしかない、その思いで二人は走る。
「逃がすか」
威勢のいい一人が前に出る。が、一歩踏み出した先には、ゼンがいた。
ゼンは刀を振り下ろす。相手は何も反応できないままだ。次の瞬間には、男の顔に赤い一条の筋ができていた。
「次」
ゼンが刀を振るうたびに、周囲の敵が一歩、退いてく。恐怖は一度生まれると、周りに感染してく。特に身近な人間が亡くなれば、その恐怖は並大抵のものではない。
そして生まれた恐怖はそう簡単に消えるものではない。一度、足が止まれば木偶にも等しい。
「このまま都に向かって走れ!
後ろは振り返るな!前だけを見て走れ!」
二人がゼンと入れ違った。後は、ゼンがこの場所を死守するだけだ。一人でも通せばゼンたちの負けだ。誰も通さずに二人が都に辿り着けばこちらの勝ちだ。
幸いにも残りの連中はゼンに襲い掛かる様子がない。誰もが誰かが一歩踏み出すのを待っている。
誰も自分の命が一番なのだ。誰も好んで命を捨てる訳ではない。特に傭兵からすれば命あっての稼業だ。生きてさえいれば、後から損失分を回収できる。
だが、死んでしまえばそこまでだ。それゆえ、彼らはゼンに向かうことはない。
そう、このまま状況に変化がなければ……。
ゼンの目に人影が写る。数は一つや二つではない。十数もの影がゼンの方に向かってくる。
そのことに気付いているのはゼンだけだ。が、すぐにでもほかの連中も気づくであろう。
ゼンの額から嫌な汗が流れる。
どうする、ゼンの頭はそれで一杯になる。先程のように一人、二人斬るか。否だ。ゼンが一人を斬る間に、残りの連中が奥に進んでしまう。
ゼンが考えている間にも迫ってくる影は大きくなってくる。ゼンは一歩も動かない。動くことができない、という方が正しいかもしれない。
近づいてくる追手に気付いたのはゼンだけではない。ゼンに対し距離を取っている賊たちも気付く。
「何してる?」
「こいつは誰だ?」
合流した者どもが当然の疑問を投げかける。端から見れば、たった一人の男を数十人の男が囲っているのだ。加えて、双方に動きがない。
「弓だ、弓でアイツを撃て」
合流したものの中には弓矢を背中に携えている者もいる。状況はゼンにとって悪化する一方だ。
弓矢などの遠距離攻撃ができる武器なら、ゼンに近づく必要がない。仮にゼンが弓矢を持った者を斬ろうとしても、その前には何人もの賊がいる。
ゼンが弓を構えれば、今度はゼンが危うくなる。さしものゼンといえども、弓で剣や槍を持った相手と対等に戦えるわけではない。一人や二人ならばなんとかなるかもしれないが、何といっても数が段違いなのだ。
向こうからすれば、ゼンが息絶えるまで弓矢を撃ち続ければいいのだ。
集中すれば飛んできた矢を斬り落とすこともゼンならばできる。しかし、その集中状態をいつまで保てるかは不明だ。それに飛来する矢を斬り落とせるのは一本だけだ。複数の矢を斬り落とす芸当はゼンにも不可能だ。
「ッ」
ゼンは無意識に刃を振るっていた。地面には一本の矢が落ちている。
考えるよりも早く、ゼンの体は動いていた。
「アイツ、矢を斬り落としたのか?」
「偶々だろ」
「ただ狙いが外れただけだろ」
いつ、次の矢が飛んでくるかはわからない。その状態がゼンを追い詰める。
運動量からすれば、ゼンにとってはまだまだ序の口だ。だが、ゼンの額からは汗が流れ、肩で息をしている。
瞬きをせずに、常に目を動かす。左か、右の奴か、刀を握るゼンの手は固い。
再び、ゼンが刀を振るう。
「やっぱり。アイツ、斬り落としてる、矢を」
ゼンの並外れた芸当により、更に困惑が広がる。それ以上に苦悩しているのは、その芸当を行っているゼン本人だ。
「狼狽えるな!
同時に、同時に撃て!
どれほどの腕でも、同時に迫ってくる二つの矢は落とせまい!」
ゼンが恐れていたことだ。一方向なら、相手の体の方向や、手の動きから矢の軌道を凡そ予想することができる。
二方向からとなると、そうはいかない。一人に集中すれば、もう一人は疎かになってしまう。
「うッ」
矢が飛んできた。一つではない、二つだ。一つはゼンが斬り落とした。もう一つは、幸いにもゼンから離れたところに命中した。この状況が長引くのは、ゼンにとって好ましくない。
「続けろ。
アイツが動かなくなるまで矢を放て」
ゼンの苦悩を他所に矢の数は減らない。弓矢を携えている者の数が少ないことが不幸中の幸いだ。
ゼンは右に左に動き、狙いを攪乱させる。動きに呼応して、ゼンの心拍数も上昇する。最初は鼻で呼吸をしていたが、今では口で行っている。
肩が大きく上下に動いている。少しでも止まれば、再び動くのには時間を要するだろう。ゼンが死なないためには、動き続けるしかない。その動くことでさえ、いつ終わりを迎えるかは誰にも不明だ。
心臓の鼓動を感じながら、ゼンは刀を振るう。既に息は上がっており、いつ足が止まるかわからない。当のゼン自身は、矢を斬り落とすことに集中しており、そんな不安を感じる余裕すらない。一体、何本の矢を落としたのか。
「ッア!」
ついに、矢がゼンの体を掠めた。矢はゼンの右肩を掠めた。服は避け、その部分からは出血が始まっている。怪我自体は大したことはない。その証拠にゼンの動きは止まってはいない。ゼンが恐れていた遅行性の毒もないようだ。
ゼンの敵は別のところにいた。その瞬間。ゼンの意識は肩に持っていかれた。その僅かな間が、ゼンを苦しめることになる。
「ッッッ」
一本の矢がゼンの左肩を貫いていた。流石のゼンも動きが止まってしまった。
「あ、当たった」
「当たったぞ」
足を止めてゼンは何が起こったのかを理解した。呼吸はまだ乱れている。心臓の鼓動は意識せずともゼン自身に伝わる。体の熱とは別に頭は冴えている。
ゼンは深く呼吸をする。一回、二回。たった数回の呼吸だが、ゼンにとっては貴重な行為だ。
まだ心拍数は収まっていない。ゼンは刀を地に刺し、右手をゆっくりと矢の刺さっている左肩の方へやる。
ゼンは目を閉じ、矢を握る。
「ぐ……だらぁぁ」
血まみれの矢がゼンの右手に握られていた。ゼンの左肩、腕からは血が流れている。握った矢を放り投げ、ゼンは再び刀を握る。
「ヒィィ」
「バケモンだ……」
ゼンの並外れた行動に周囲の人間も驚いている。ゼンの目的は、一秒でも長く敵を食い止めることだ。そのため、不必要な行動でも敢えて行っている。
その最もたる例が、矢の引き抜きだ。矢を引き抜こうが抜くまいが、もはやゼンの左腕は満足に使えない。ただ、左腕が使えないだけでは、足止めに足りる印象には至らない。ゼンはまだ生きている、まだ戦うことができる、そう思わせるための行動である。
結果は、概ねゼンの予想通りだ。肩に刺さった矢を引き抜く、その行為は周囲の連中に十分な印象を与えたようだ。
「矢を射続けろ。
数名の者は俺と一緒に、先に行った奴を追いかける」
数名の賊が武器を収め、走る態勢を取っている。先程までのゼンであれば、踏み込んで攻撃を仕掛けていただろう。
今のゼンはそれができない。片腕しか使えない状況では、刀を振る速度も力も大幅に減少している。そこから攻勢を仕掛けるのは、上策ではない。
敵がゼンを通り過ぎていくのを、ゼンはただ黙って見過ごすしかない。動こうにも、ゼンを狙っている弓兵のせいで、まともに動くこともできない。
ミーネとレーパはどこまで進んだだろうか。まだ東の都にまで着いたであろうか。二人がある程度の距離を稼いでおけば、後はゼンが逃げるだけでよい。何も残っている全員を相手にする必要はない。
左に逃げるか、右に逃げるか。ゼンの思考は逃げることに徹している。
弓兵はゼンに狙いをつけている。もうそろそろ矢が飛んでくる、ゼンは直感で察した。
「あっ」
突然、この雰囲気に似つかわしくない声が上がった。声を上げたのは、弓を構えていた一人だ。
構えていた弓は地に落ちている。矢は明後日の方向に飛んで行った。
「どうやら穴場はこっちのようだね」
そこに立っていたのは、ハーディーであった。その場にいた、全員が驚いている。
囮になっているはずのハーディーが何故ここに、ゼンはいるはずのないハーディーに困惑している。
周囲の連中は、名の知れた傭兵であるハーディーがここにいる事実を。加えて、自分たちに危害を加えたことに対して当惑している。
「次っ」
ハーディーの槍は、先ほどとは異なる弓兵の胸を貫いている。
一瞬の出来事だったため、一人を除いて反応ができなかった。例外の一人、それはゼンであった。
周囲の注意がハーディーに向いていることを、ゼンは見逃さなかった。
ゼンは冷静に一太刀を弓兵に入れる。動いていない相手を斬るならば、片手でもゼンにとっては十分だ。
ゼンの一太刀は綺麗に入った。左肩から右わき腹に掛けて、赤い一筋の線が入った。ゼンの一撃は確実に相を絶命に至らせた。
続いてもう一撃、ゼンにはそれをできるだけの力量と余裕がある。続いて、ゼンは追撃には入らなかった。一撃を叩きこむと、ゼンはすぐに退く。
一瞬の間であった。ゼンが地を蹴り、一太刀を入れ、元の場所に戻る。周囲の連中の注意がゼンに戻ったころには、ゼンは前の場所にいる。
「ハーディー!」
「わかってるって」
ゼンに注目が集まった時、再びハーディーが動いた。ハーディーの槍は次の弓兵を貫いた。
再度、ハーディーの方へと視線が集まる。人数的にはゼンたちは圧倒的不利な条件である。
ゼンとハーディーが二人なのに対して、残る追手はまだまだいる。残っている連中が一致団結し、二人の内どちらかに総攻撃を仕掛ければ、一人は討ち取れるかもしれない。
現実は違う。残っている者はどちらから攻撃が来るか、そこに意識が向いている。一度、意識が守りに向くと、そこから攻勢に転じることは困難だ。
「後は頼んだ!
俺は先に進んだ奴を仕留める」
ゼンはそれだけを言うと、ミーネとハーディーがいる方向へ走る。