七話 其の五
状況はゼンにとって最悪と言っても差し支えない程であった。ゼンの武器は腰のナイフ一本だけ。それに対し、ハーディーは得意の長物を手にしている。
間合いもハーディーに味方をしていた。槍の長さが最も活かされる距離だ。ゼンは腰のナイフを手に取るが、不安は消えない。
「さあ、来いよ」
ハーディーはゼンの方に向かって手招きをしている。自身の足元にゼンの刀があることを承知しているが故に、隙も多かった。それでもゼンは動けなかった。
ハーディーの余裕綽々とした態度は、罠だ。その考えが、ゼンの足を留める。
「どうした?来ないの」
「そっちこそ、来いよ」
ゼンは減らず口を叩くが、今はどう動いてもゼンが有利になることはない。ただひたすら、訪れるかもわからない好機を待っていた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
ゼンは冗談のつもりで言ったはずだが、それが現実になってしまった。ハーディーは槍を構えつつ、少しずつ前進してくる。ただ前進するのではない。槍を突きながら、徐々にゼンに近づいてくる。距離が近づけば、ゼンのナイフも届き状況も変わるかもしれない。
だが、ゼンとハーディーの距離は一向に近づかない。むしろ、離れていく。ゼンが距離を取っているのだ。槍の届かない場所まで。
「フー、フー」
ゼンの息が荒い。至近距離から突かれる槍を避ける度に、体力も精神も削られていく。
何とかして突破口を開かねば、ゼンの焦りばかりが募る。一方、ハーディーは冷静に、ゼンを少しずつ追い詰めていく。ゼンが前へ動く動作を見せれば、すぐに槍で牽制する。ゼンが回り込もうと左右に動けば、その槍でゼンの行く道を塞ぐ。
「オイオイ、逃げずに遊ぼうぜ」
余裕がなくなっていくゼンに対し、ハーディーはまだまだ余裕だ。ゼンは深く呼吸をする。
「……」
今まで、一方的であったハーディーが態度を改めた。来るな、ハーディーは直感で感じた。今まで焦らしてきた甲斐があった、ハーディーは集中力を高める。
ゼンがどこから来ても、槍で突き刺せるように。考えるよりも早く手が動くように、頭は冷静に体は熱く保つ。
だが、ハーディーには一つ不安もあった。それはゼンの目だ。ハーディーは今までも、窮地に立った奴の目は何度も見てきた。そいつらは血走った獣のような目をしていた。
ゼンの目は違った。追い詰められた獣の目はしているが、血走っていはいない。何か奥の手を隠しているのか、ハーディーは胸に興奮と恐怖が湧き上がってくるのを感じた。
「来い」
ゼンは一気に駆けだした。ハーディーに向かって真っすぐに。ただ前だけを見て真っすぐに。
ハーディーは槍を真っすぐに突き出す。ハーディーにとって予想外だったのは、ゼンがまっすぐ前に出てきたことだった。本当に策がなかったのか、それとも、ハーディーの考えはそこで終わった。思考よりも、体が動いた。
ハーディーの目に飛翔体が映った。先が鋭利なものだ。ハーディーは思わず、伸ばした槍を自らの方に返す。飛翔体は槍の柄に当たった。ハーディーは飛翔体の正体を見た。それは、ゼンが手にしていたナイフである。たった一つの武器を投げたということは、今目の前を走っている相手は丸腰だ。
勝った、ハーディーがそう思った時である。左腕に痛みが走った。手に力が入らず、ハーディーは穂先を下に下げてしまう。恐る恐るハーディーが自身の左腕を見ると、そこにはナイフが刺さっていた。それも、先ほどハーディー自身が放ったナイフだ。
それよりもセンは今どこにいる、ハーディーが顔を見上げると、ゼンはすぐ傍まで来ていた。だが、ゼンは今、武器を持っていない。取っ組み合いの殴り合いでもするつもりか、ハーディーの頭は混乱したままだ。
ゼンは、地面を向いている槍を左足で踏んだ。そして、踏み込んだ反動を使い、大きく飛んだ。ゼンはハーディーを優に飛び越し、後ろに回り込んだ。
「な?」
さしもの事態にハーディーも驚いたようだ。ゼンの飛ぶ姿に視線を奪われた。
ゼンは着地すると、足元に落ちている刀を拾い上げた。その光景を見て、ハーディーも我を取り戻す。急いで残る右腕で防御の構えを取る。
それよりも、ゼンの斬撃の方が早かった。ゼンは右下から左上へと袈裟に刀を振るう。ゼンの刃はハーディーの命を奪う所までは至らなかった。ゼンの腹部と同じく、皮を切っただけに収まった。
「チッ」
ゼンは間を置かずに追撃に移る。横に薙げばハーディーの槍で攻撃を止められる、ゼンは敢えて斬るのではなく、刃を刺しに行った。幸いにも、ハーディーは先ほどのゼンの斬撃で姿勢を崩している。
刃先はハーディーの喉元めがけて、まっすぐに伸びていく。しかし、刃はハーディーの喉元には届かなかった。ハーディーは姿勢を崩しつつも、自身の槍でゼンの突きを防いだ。
「うぉ」
ゼンとハーディーは互いに、倒れこむようにして、地面に落ちていく。ハーディーはもともとゼンの斬撃を受け、体勢を崩している。ゼンも一瞬の好機を逃さないため、追い込んだのが拙かった。二人は抱き合えるほどの距離にいる。
二人がそのままの状態で落ち着くはずもない。そして、武器を使わない肉弾戦が始まる。
拳と足を使った、自身の肉体だけが頼りの格闘だ。互いの距離が近いため、殴り合いが中心だ。ときたま、膝蹴りも交わされたが、それも相手の腹に入ることはなかった。
互いの拳が行き交う。だが、決定打にはなりえない。受け流しや防御などで、攻撃がそのまま入ることはない。
「ラァ」
ようやく、ゼンの右拳が、ハーディーの顔を捉えた。ゼンの右手はハーディーの頬に確実に入った。
「ダラァ」
次はハーディーの左がゼンの顔に入る。ハーディーの左拳は、ゼンの顔の中心にめり込んだ。ゼンの鼻からは、赤い液体が流れ始めている。
そこから、ノーガードでの殴り合いが始まった。二人とも頭に血が上っているのか、攻撃を避けようとも防御しようともしない。ただただ、拳を相手に叩き込むだけだ。
互いの顔と拳が赤く染まっていく。だが、少しずつゼンの手数の方が多くなってきた。ハーディーは徐々に防戦に移ってきている。
「フンッ」
ゼンの強烈な右がハーディーの腹に入った。ハーディーは苦痛のあまり、体をくの字に曲げている。そして、遂に膝をついた。
ゼンはハーディーが膝をついたのを確認すると、鼻の血を手で拭う。そして、ハーディーの服を掴むと、力を振り絞り持ち上げた。
「ま」
言葉を発する前に、ゼンは勢いのままハーディーを投げた。ゼンがハーディーを投げた先には、宿屋があった。ハーディーは柵を壊しながら、落ちていった。
ゼンは肩で息をしながら、ハーディーが落ちていった方角を見ている。あれだけの傷で立ち上がれなくなるような奴ではない、ゼンはまだ警戒心を解いてはいない。必ず立ち上がり、反撃を仕掛けてくるはずだ、ゼンは確信を抱いている。
「ッ」
ゼンの想像通り、ハーディーは反撃に出た。ゼンの右太腿にナイフが突き刺さっている。先程と同じナイフだ。痛みは微々たるものだが、ゼンの意識がそちらの方へと吸い込まれてしまった。
ハーディーに投げ返そうと、ゼンは何事もなかったかのようにナイフを引き抜いた。ゼンが顔を上げると、先ほどまでそこにいたはずのハーディーは姿を消していた。
ゼンの右手に握られたナイフは行き先をなくしたままだ。ゼンの額から大粒の汗が流れた。
「動くなよ」
姿を消したと思っていたハーディーの声がした。ゼンはすぐに声のする方へ体を向け、ナイフを投げる態勢を取る。しかし、ゼンの右手にあるナイフが、宙を飛ぶことはなかった。
ハーディーは馬に乗っていた。しかも、乗っているのはセロである。
「これはお前の馬だろ?
い~い馬だな」
セロはハーディーが気に入らないのだろう。激しく動いてハーディーを落とそうとしている。だが、ハーディーは左手で手綱をしっかりと握り、落ちそうにもない。それどころか、ハーディーの右手にはナイフが握られており、その刃先はセロの喉元に向かっている。
このままセロが暴れ続けたら、いつ刃がセロの喉に刺さってもおかしくはない。
「セロ、落ち着け」
そのたった一言で、セロは今まで暴れていたのが嘘のように動きを止めた。
「やっぱり、いい馬だな。
こうまで主人の言うことをすんなり聞くとは」
ゼンに他の選択肢はなかった。セロがいなくなれば、この先、旅を続けることはできない。また右手のナイフを投げたとしても、ハーディーを仕留めることはできないだろう。
ハーディーを仕留めそこなった場合、犠牲になるのはセロだ。それだけは何としても避けなければ、ゼンは動くに動けない雁字搦めの状態に陥っている。
「おい、セン。
俺の槍をこっちに投げろ。言っておくけど、穂先をこちらに向けて投げるなよ。胴の部分を持って、ゆっくりと投げろ」
「わかったよ」
ゼンは苦虫を噛み潰したような表情で返事をした。そして、ハーディーの槍の下までゆっくりと足を運んだ。
「おっと、まずはお前の刀を遠くにやってもらおうか。
いきなり刀身が飛んで来たら、焦ってナイフがあらぬ方向へ刺さるかもなー」
ゼンは腰をかがめ、刀を手に取ろうとする。
「待った。手で取るんじゃない。
足だ、足で遠くに蹴飛ばせ」
ゼンは鋭い目線で、ハーディーを睨みつける。声には出していないが、殺気が溢れんばかりに出ている。一般人であれば、足は震え動きが止まらんばかりの雰囲気だ。
「怖い、怖い。怖くて、ナイフが滑りそうだな」
だが、ハーディーはそんなゼンの雰囲気をものともしていない。勿論、ハーディーはゼンの殺気を感じている。だが、ハーディーは敢えてゼンの殺気に気づいていないかのように振舞った。
「わかったよ」
ゼンはできるだけ力を入れずに、刀を蹴った。距離は稼ぐが、少しでも傷が付かないように丁寧に。
「よし。次は俺の槍だ」
ゼンは再び腰をかがめ、槍を手にした。槍はゼンの想像していた以上に重かった。今までも、何度か槍を手にしたことはあったが、ここまで重い槍を持ったのは初めての体験であった。
「気を付けてくれよ。お前の刀と同じで、特注品なんだ。普通の槍よりも重く頑丈に作られているんだ。高いぞ~」
ハーディーはよく口を開くが、ゼンの口は閉じたままだ。ゼンは手にした槍をハーディーの方へと投げた。槍は放物線を描くようにして、ハーディーの手元に帰っていった。
「じゃあな」
ハーディーは堂々とセロに乗ったまま村の入口へと動き始めた。ゼンはその姿を黙って見ることしかできない。自身の歯を噛みしめ、何とか留まっている。
「オイ!アイツはどうする?
それに、まだ目標の奴も殺していないぞ」
今まで蚊帳の外にいた賊の一人が口を開いた。もはや、この村にいる賊は彼一人である。十数人の仲間を率いて、この村にやってきたものはいいものの、仲間はすべてゼンによって帰らぬ人になってしまった。このまま帰ることは、彼にとって許されざる行為なのだ。
「落ち着けよ。この馬を取っておけば、アイツは動けない。そうなれば、残っているのは目的の二人だけだ。あの二人なら、目を閉じていても殺せる。
だから、今は大人しく退くぞ。いいな」
「ふざけるな!今、アイツごと殺ればいい話だろうが!
お前が無理ならば、俺がやる。その後で、二人を殺す!それで万事解決だろうが!」
「ふむ、それでもいいけど。あのセンという男に挑んでも、お前が死ぬだけだよ。いや、それどころか、お前が人質にされて折角の状況をふいにするかもしれないけど。
ちなみに俺は、お前が人質にされたらすぐさま逃げるから。それでもいいなら、行っていいよ。俺は止めないから」
面と向かって言われたのがよほどの衝撃だったのだろう。男はハーディーの方を憤怒の表情で見ている。だが、直接的に言われたことで男は渋々、ハーディーの言うとおりに村から引き上げようとする。心情ではまだ納得できていないため、顔に不満が残ったままである。
「アイツらは準備が整えばいつでも命を取れる。だから、ここは大人しく退くよ」
ハーディーのとどめの一言で、男はついに馬を走らせた。振り向くことなく一直線に、来た方向へと走っていく。
「セン!」
男が村から立ち去ったことを確認すると、ハーディーはゼンに向かって声を掛ける。
「明日、明朝に今から指定する場所に来い。お前ひとりで。
場所はこの村から真っすぐ西にある平原。ひたすら歩けば、俺たちの姿が見える。
来なかったらどうなるかはわかるよね。
じゃあね」
ハーディーは笑みを残しつつ、ゼンたちの前から姿を消した。