七話 其の三
血の海と化した廊下に、一人、ゼンは立っていた。
ピチャ、ピチャとゼンが歩くたびに音が響く。廊下には、ゼンが切った賊たちが二度と起きることのない眠りについている。
ゼンは女の部屋に入る前に足を止めた。そして、壁を軽く、数回叩く。
「入るぞ、俺を撃つなよ」
手に刀を携えたまま、ゼンは部屋に入った。刀からは血が滴り落ちている。
女はゼンが渡したクロスボウを構えたまま、部屋の隅っこに固まっていた。狙いを定める腕は震えており、この状態では撃っても命中はしなかっただろう。
女はゼンを見て、更に落ち着きがなくなった。血に濡れた刀を持っている男が自分の方に来るのだ、無理もない。
「大丈夫だ、今のところ、もう賊はいない」
ゼンは刀を収め、女に近づく。震える手からクロスボウを手に取る。
女はクロスボウを固く握りしめており、手から離すのにゼンは少し苦労した。だが、クロスボウを手から離すと、女は緊張の糸が切れたようだ。一気に体中の力が抜ける。
「はぁぁーー」
女は大きく息を吐き、立ち上がる。
「ところで、お前、名前は?」
今更ながらの質問を、ゼンは投げかけた。
「私はミーネ。あなたは?」
「ゼンだ。
それにしてもお前ら、何をしようとしているんだ?たかが二人を殺すのにここまでするとは、只事じゃない」
「それは……」
ゼンの言葉に、ミーネは言葉を詰まらせた。
「まあいい。とりあえず今は、生きてここを出るのが先決だ」
ゼンは先導して、部屋を出る。数歩遅れて、ミーネも部屋を出る。ミーネは廊下から漂う異臭に気が付いていた。今までの彼女の人生の中で、馴染みがない血の匂いに。
「うっ」
初めての光景に、ミーネは思わず口を抑える。それを見て、ゼンは足を止めた。
「キツイなら、鼻をつまんでおけ。多少は楽になるはずだ」
「あ、ありがとう」
ミーネは口に手を当てたまま返事をする。相当苦しんでいるようだ、早くこの階から出たほうがよさそうだ。
「降りないの?」
ゼンが階段を過ぎたあたりで、ミーネが問いかけた。
「ちょっとした忘れもんだ。キツイなら、そこで休んでいいぞ」
ゼンはそう言ったが、ミーネは後をついてきた。今は、一人になりたくないのだろう。
ゼンは自身が泊まっている部屋の引き出しの前に立ち、引き出しを軽く数回叩く。
そして、ゆっくりとエアが隠れている引き出しを開ける。
「終わった?」
「残念ながら、まだだ」
エアは引き出しの中に入ったままだった。小さな声でゼンに尋ねる。そして、後ろからはミーネが奇妙な目でゼンを見ている。
彼女からすれば、何もない引き出しの中を見て話しているのだ。エアの声はミーネの耳に入っていないのが、余計に彼女の不安を掻き立てた。
「とりあえず、そこから出てこい。このままじゃ、俺がおかしな男だと思われる」
「ゼンは相当おかしいと思うけど……」
エアはぶつぶつ言いつつも大人しく、ゼンの言うことに従った。
「まあ、それは強く否定できないな」
引き出しの中から出てきたものを見て、ミーネは目を丸くした。目の前の光景が信じられず、目をこする。だが、彼女の眼に映ったのは、幻でも見間違いでもない。ドラゴンだ。
「ド、ド、ドラゴン?」
今まで目にしたことのない、聞いただけの存在が目の前に現れ、ミーネは困惑していた。しかも、目の前のドラゴンは、聞いていたものとはなにかも違っていた。
ミーネが想像していたドラゴンとは、巨大で人を簡単に蹂躙できる大空の覇者、という類のものであった。その概念は見る様もなく、砕け散った。
「あれ?この人、誰?」
「こんなことになっている原因だ。名前は、ミーネだ」
「ふーん」
ミーネの目の前で、ゼンとエアは変わらずに会話を続けている。それがあたかも普通かのように。
「しばらくは、アイツのところに隠れていろ。そのほうが安心だ」
「そうだね。そっちの方が互いにとってよさそうだしね」
エアはその小さな羽値をはばたかせ、ミーネの方へ近づく。
「私、エア。よろしくね!」
ミーネは小さく口を開け、固まっていた。
「え?あ、ああ。よろしくね」
何とか返答はしたが、まだミーネの頭の中は混乱したままだ。落ち着く暇もなく、エアはミーネの肩に止まる。不思議な感触だった。ミーネの右肩に止まっているのは恐ろしいドラゴンだ。しかし、ミーネは恐れを抱かなかった。それどころか、エアの体温が伝わり、少し安心したくらいである。
「さあ、行くぞ」
エアとミーネの様子を見て、ゼンは前へと進む。
階段を降り、今度は正面の玄関から一行は出ようとする。
「待て、様子を見てくる」
ゼンは手を横に出し、後ろの二人を制止した。もう恐らく、賊たちはいないだろうが、念のためにゼンが先に出ることにした。
ゆっくりと、木製の扉をゼンは開ける。ゼンの予想通り、もう賊たちはいなかった。
「よし、来ていいぞ」
ゼンは後ろを振り返り、ミーネとエアを呼ぶ。
「ところで、レーパはどこ?」
不安そうな顔でミーネが尋ねる。
「ああ、今から助けに行くか」
「助けに?」
ゼンの一言で、ミーネの顔がさらに曇る。
「今頃、井戸の奥で一人、身震いしてるよ」
ゼンたちは、再び井戸の前を訪れた。
「オイ、生きているか」
暗い、底の見えない奥に向かってゼンは声をかける。
「は、早く、出してくれ~。腰から下が凍えて、死、死にそうだ」
井戸の奥から覇気のない声が返ってきた。いくら暖かくなってきたといえども、朝から水風呂は耐えられないらしい。
「まだ腕の力はあるか?」
「う、腕なら、まだ」
「よーし、じゃあ、桶をしっかりと握っておけ。今から引き上げる」
ゼンはロープを自身の腕に巻き付け、何度も強度を確かめえる。確認を終えると、ゼンはロープを力の限り引っ張り始めた。
最初は難なく引き上げていたが、それもしばらくすると引き揚げ作業は停滞し始めた。ゼンも自身の限界が近づいてきていることに気づいた。
今までは中腰の状態でロープを引いていたが、ゼンは体制を変える。
膝をつき、ロープを右肩の上に乗せる。そして、出せる力のすべてを振り絞る。ゼンの腕からは大きな力こぶに、浮き出た血管が現れた。
「ぬううぅぅぅ」
徐々に、ゼンの顔が赤みを帯びてきた。
「早く、あいつを」
ゼンは必死になって、ミーネに向かって言う。
黙ってゼンの方を見ていたミーネは、ゼンの一言で動き始める。小走りで井戸の方に近づくと、桶につかまっているレーパが見えた。
レーパは腰から下だけではなく、腕もブルブルと震えていた。一刻も早く井戸から救出しなければ、再び井戸の底へ落ちるのは明確だ。
「レーパ、手を伸ばして!」
ミーネは片手を井戸の中へと伸ばした。
「ミーネか。よ、よかった。早くここから出してくれ」
歯をガタガタと震わせながら、レーパも腕を伸ばす。ミーネが取った手はとても冷たく、重たかった。
「おっ、重」
思わず、ミーネの口から本音が出てしまった。だが、いくらレーパの背が低く体重が軽くても、女の力で大の大人を引っ張り上げるのは無理があった。
ミーネが力を振り絞ってもレーパを上げる気配は一向にない。それどころか、このままではミーネも井戸の底に落ちてしまいそうな雰囲気である。
「だ、駄目。もう無理……」
ミーネの細い腕の横から、太い傷だけの腕が出てきた。ミーネが両腕で引っ張っても何も動かなかった状況が好転し始めた。ゼンはその太い片腕でレーパを易々と引き上げた。
「助かった~」
久しぶりに太陽の日を浴びたレーパは眩しそうに太陽を眺める。陽の光が凍えたレーパの体を温かく迎える。
ようやく3人とも、一息をつくことができた。ゼンとレーパは肉体的な緊張から、ミーネは精神的な緊張から。
中でも一番、安堵していたのはレーパだった。一人で、暗い井戸の中にいたせいで、地上にいるだけで幸せな気持ちになることができた。
地上の恩恵を受けているレーパの後ろで、ゼンも腰を落ち着けていた。ゼンも休む暇なく命のやり取りをしていたのだ。一息をついたことで今までの溜めていたものがゼンに押し寄せてくる。
「ハー」
ゼンは深く息を吸い、心と体を落ち着かせる。
「さて、そろそろ聞いてもいいか。
何故、お前たちは狙われている?それも、あの人数だ。ただ人に憎まれるだけでは、あそこまではいかん」
「それは……」
ミーネとレーパが互いに顔を見ている。
「まあいい。ひとまずは、この騒ぎの後片付けだ。この村の連中も騒ぎ始めた」
村の中も徐々に騒ぎが大きくなり始めた。今までは賊たちが外で暴れていたため、住民は家の中でおとなしくしていた。だが、外が静かになったことで、住民たちは家の扉を開け外の様子をうかがい始める。
「ひとまず、宿屋の主人を弔ってやろう」
「宿屋の主人が」
レーパだけが、その言葉に驚いた。
「ああ、そうか。お前は井戸の中にいたんだったな。
そういうことだ。気に病む必要はないが、せめて弔うだけでもしてやれ」
「ゼン!」
今まで、ミーネの服の中に隠れていたエアが突然出てきた。
「どうした?」
「音がする。馬の蹄の音が。それも一つじゃない、複数いる」
ゼンはすぐさま気分を入れ替える。
「二人とも、エアと一緒に宿屋の中に隠れていろ」
突然の事態に、状況を呑み込めない二人は固まったままである。
「早くしろ」
二人は何が起こっているのか、何も理解できなかった。だが、今は目の前にいるこの男の指示に従うほかはない。二人は、そそくさと宿屋の中へと戻っていく。
「ゼン、死なないでね」
二人が移動する途中、ゼンとすれ違いざまにエアが心配そうに声をかける。
「ああ、善処するよ」
一体、何人敵が残っているのかもわからない。それにいつ、敵が来るのか。そもそも、相手は人だけなのか、不確定要素は残ったままだがゼンは意を決する。
レーパとミーネが宿屋の中に入ったことを確認すると、ゼンは刀を抜く。
「ふー」
ゼンの予想よりも、開戦の幕は早く開きそうだ。村の入り口の方から、駆けてくる馬が見える。3頭、いや4頭いる。1頭は、3頭の後ろにいたため、ゼンは認識できなかった。
ようやく、ゼンと馬に乗った賊が対峙した。
賊たちは刀を持ったゼンを見て警戒している。既に、彼も武器を抜き、いつでも戦うことができる態勢になっている。
「そうか、お前が向こう側の用心棒か」
真ん中の馬に乗った人物が言葉を発した。その男は、金色の髪を後ろで結んでいた。背丈は馬に乗っているため正確にはわからないが、ゼンと同じくらいだろう。上下ともに白い服を着ているため、髪の色がよく映えている。
左手には槍を握っていた。その長さは大の大人と同じ位で、太さは通常のものよりも一回り以上太い。特別な飾りなどはなく、それが余計に槍の武骨さを際立させていた。
ゼンは目の前の男からただならぬ気配を感じた。自分と同じ、戦いなれている戦士の気配だ。今の平穏なこの世界で、血の匂いが染みついている人種はそういない。そのことは、目の前の男がかなりの手練れだということを意味していた。
「オイ!仲間をどうした!」
ゼンから見て、左側の男が叫ぶようにしてゼンに詰め寄る。
「仲間?お仲間なら全員、眠ったよ」
ゼンは口角を上げ、嘲笑うかのようにして言い放つ。