五話 其の五
夜空に一つの影が走った。影は右へ左へ、あちらこちらを動いている。
「オプト……」
エアはまだオプトの姿を見つけられていなかった。かれこれ、それなりの時間が経っているが、エアの視界にオプトは映らない。
エアの飛行が止まった。飛行が止まってから少しして、エアは北方向に進路を逆転させる。とにかく今、エアは体を動かしていたかった。そうでもしないと、頭がおかしくなりそうだった。
湧き上がる不安を掻き消すため、エアは夜空を孤独に飛ぶ。
「どこにいるんだよ~」
エアの今にも泣きそうな声が、夜空に消えていった。焦りと不安と孤独に苛まれ、エアの顔も知らず知らずの間に俯きがちになっていく。
「ん?」
俯いたことにより、エア自身の下の方へと意識が向いた。そこには、周りの家と変わらない一軒家があった。一軒家の玄関から、何者かが出てきた。
「オプト!」
家から出てきたのはオプトだった。嬉しさのあまり、エアはオプトの方に一直線に飛ぶ。
オプトの家で起きた惨劇、あの様子のおかしかった時、手足から流れていた謎の液体、それらの存在も忘れて、猪突猛進の勢いでオプトの方へ向かう。
エアとオプトの距離が触れ合えるほどに近づいた時、突然、オプトが右腕を上げた。上げた右腕には血まみれの手斧が握られていた。
オプトはその手斧をエア目掛けて、力任せに投げた。力任せに投げた手斧は明後日の方向へと飛んでいく。それでも、エアにとって驚きは十分だった。
「わっ!」
自分目掛けて飛んでくる手斧に困惑したエアは、飛行のバランスを崩した。エアも猛スピードでオプトの方へ向かっていたため、急に止まることができなかったのだ。
滑空の姿勢を崩したエアは、そのまま地面に激突した。
オプトは地面に激突したエアを見ることもなく、また歩みだした。一歩一歩と、違う家の方へと歩いていく。足取りはおぼつかなく、速度も遅いが、確実に次の家への距離は近づいて行った。
「ううぅ」
エアは泥の中で自分が今どうなっているのか、訳が分からなかった。確かに自分は、オプトを見つけた。そして、それからの記憶が曖昧だ。
エアがオプトに近づき、それからだ。それから、どうなったのだ。エアが泥の中から頭を上げる。
時間にしてみれば、しばしの時が経っていた。まだ夜は深いままである。
エアはまず自分の周りの状況を確認した。オプトはいない。けれども、あちらこちらから血の匂いがする。一度、倒れたことにより、エアは少しではあるが、落ち着きを取り戻していた。
そして、エアは再び宙に舞い戻った。今度は、村の中ではなく、森の方へ向かって飛んでいく。エアの小さい体は森の中に入ると、すぐに消えていった。
エアが倒れている間にも、オプトの狂気は止まることはなかった。次々と人の家に入り込んでは、犠牲者を生み出していった。オプトの体は血まみれであった。
体や服に付着した血は、オプトのものか村人のものか分別が付かない。この惨劇の間、オプト自身も吐血していた。口の周りの血が乾き始めている。
オプトの体に血が付着するたびに、オプトは笑った。笑ったかと思えば、次の瞬間にその陽気な笑いは消えた。オプトが一人手をかけるごとに、オプト自身の中で何かが壊れていった。オプトの心に罪悪感というものは存在していなかった。オプトの心を支配していたのは、高揚感であった。
「ハァ、ハァ……」
オプトの息は切れている。それでも、歩くことを止めない。次の標的を探す。
その時であった。オプトの足元に、矢が撃ち込まれた。オプトはそれに臆することはなかった。オプトは矢が打たれた方向に、ゆっくりと顔を向ける。
「よお、朝の散歩にしちゃ早いんじゃないか。まだ月は落ちてないぞ」
先日、この村を発ったはずのゼンがそこにはいた。セロにまたがり、クロスボウを構えている。
ゼンの腰のポーチから、エアが飛び出てきた。
「ゼン、君か」
オプトは血だらけの体をゼンの方に向ける。ゼンの知っているオプトはそこにいなかった。今、ゼンの目の前にいるのは、オプトの形をした壊れた人間だった。
「オプト、どうして、こんなことを」
「この村はもう長くはもたない。だったら、今死ぬか、後になって死ぬか、それだけの違いしかない。
だから、僕がこの手で終わらせてやったんですよ。こういったケジメを付けるのも、村長の仕事ですからね」
そう言うオプトの顔は笑っていた。ゼンが今までに見たことのないような満面の笑みで。
ゼンは黙って、セロから降りる。そして、腰の刀を抜いた。
「だったら、オプト。お前が今ここで死ぬのも後で死ぬのも、大した違いじゃないんだな」
ゼンとオプト、両者が睨め合った。両者ともに、視線を外す様子はない。あのか弱そうなオプトとは見違えるほどの気迫であった。
オプトが手斧を持っている右手を挙げた。そして、全力疾走でゼンの方へ走ってくる。
「ッ」
ゼンはすぐさま、迎撃の態勢をとった。腰の刀をすぐに抜けるように。
「グフッ」
オプトの全力疾走は途中で止まった。そして、口から真っ赤な血を流す。オプトは手をついて、四つん這いの状態になっている。持っている手斧も地に落とし、隙だらけの状態であった。
「ハーハー、ハー」
オプトの体は限界寸前の状態であった。元々、体が強くないオプトに、精神的に過度な負担も加わり、今のこの状態になっているである。
オプトの意思、心はまだ止まっていない。だが、体は既に限界を迎えていた。
「立てよ。どうした?俺も殺すんじゃないのか」
ゼンは、目の前で倒れているオプトに手を貸すことなく、そう言い放つ。
オプトは口から血を流しつつも、必死に力を入れる。目の前にいる、男を殺すために。だが、オプトの足は震え、手に力が入らない。オプトは今までも、このような感覚を味わったことは何度もあった。その度に、誰かが手を貸してくれた。
「うううぅぅぅ。」
オプトの血走った目から、涙が落ちた。ゼンはそれを見たが、何も変わることはない。刀を抜く態勢を取ったままである。
「おおおぉぉっぉ」
遅々としてではあるが、オプトは自分の力で立ち上がった。何度も何度も、崩れ落ちそうになるが、それでも自分ひとりの力で、ゼンの目の前に再び立った。足は震え、姿勢も安定はしていない。前は片手で持っている手斧も、今は両手で持っている。オプトはいつ倒れてもおかしくはない状況だ。
「ゼン。君だけだ。僕自身を見てくれたのは……」
そう言った、オプトの顔は笑っていた。以前の優しい、オプトの顔で。
「来い」
ゼンがオプトに向かって言う。オプトは、再び、走り出した。ゼン向かって真っすぐに。
ゼンも動くことなく、オプトの正面に立ったままである。二人の距離が、刃の届くところまでに近付いた。
ゼンとオプトの立ち位置が逆になる。今まではオプトがゼンの目の前にいたのに、今はゼンの後ろにオプトがいる。
ゼンは刀を横に薙いだ状態から、刀身を素早く鞘に納める。その動作に一切の迷いはなかった。
カチッ。
刀身が鞘に納まったその時、オプトは倒れた。
ゼンが振り返り、大の字になっているオプトを見下ろす。オプトは夜空をじっと見ている。その顔は満足に満ちていた。
夜空には、たくさんの星が輝いていた。数多くの星が、両者の頭上を照らしていた。
エアは後ろから飛んできた。エアはゼンの肩にとまった。恐る恐る、オプトの方に視線を向ける。
「……やあ、エア」
その声を聴き取って、エアはゼンの肩から飛び立った。エアが着したのは、オプトの胸である。
「あ、ありがとう」
掻き消えそうな小さい声で、オプトはエアに言った。
「ゼン。君もありがと」
オプトはゼンに手を伸ばそうとしたが、その手は途中で落ちていった。
「さらばだ」
オプトの呼吸が止まった。ゼンはそのことを確認すると、オプトの空いた目を優しく閉じる。
「ゼン、これからどうするの?」
エアが振り返り、ゼンに尋ねた。
「後片付けだな」
バンッ。
まだ日も昇っていない、暗闇が支配する村に不相応な音が鳴った。それも一度や二度ではない。何度も何度も、音は鳴った。家の中で寝ていた人間も、流石に目を覚ました。
「お父さん、何?」
「あなた……」
「待っていろ。すぐ調べてくる」
寝床には、夫婦と小さな女の子が三人仲良く揃っている。父親の方が、寝床から発ち、近くにあった手ごろな棒を手に取る。
その間も、音は止まなかった。それどころか、段々と音が大きくなっている。
「オラッ!」
聞きなれない声だ。父親の胸中に不安が募る。音の正体も段々と分かってきた。音は玄関の扉からきている。誰かが、扉を蹴っているのだ。
「ここを開けろ!」
父親が扉に手をかけようと手を伸ばした時、扉は木っ端みじんになった。扉の木片があちらこちらに飛んだ。
「うわっ!」
父親は驚きのあまり、尻餅をついている。その視線の先にはゼンがいた。手には刀とクロスボウを携えている。
「なっ、何なんだお前は?」
「ああ?お前らの大嫌いな他所もんだ。
死にたくなかったら、逃げるこった」
そういうとゼンは、狭い室内の中で刀を振り出し始めた。刃はどこにも触れることなく、空を切った。
父親は慌てて、逃げ出そうと立ち上がる。勿論、ゼンもそれを見逃すわけがない。父親は背を向け逃げようとする。ゼンはその背中に刀を振るう。
ゼンの刀は肉を切ることはなかった。父親の服を切っただけに過ぎなかった。
「逃げろーー」
父親は叫びながら、家の中を走っていく。ゼンも刀を振り回しながらそれを追う。
「逃げろ、余所者が!余所者が!」
父親の尋常ではない叫び声、そして様子を見た母と娘はすぐさま行動することはできなかった。何が起きているか理解することができず、その分だけ動くのが遅れてしまう。
動揺している母娘の横を、何かが通り過ぎた。通り過ぎたものは、壁に刺さっている。刺さっているものは矢であった。
「チッ。外したか」
ゼンは片手に携えたクロスボウを母娘に向かって撃っていた。ようやく、母娘も事態に気づき始めた。
「窓から、逃げなさい!早く!」
母親は娘に怒鳴るようにして言った。娘は最初、聞き慣れない母親の声に膠着していた。それを見た母親は、意を決する。娘を乱暴に持ち上げると、窓から放り出してしまった。
ドスンと、音が鳴る。娘は家の外に出てしまった。だが、ゼンはそんなことを気にすることもなく、クロスボウに矢をセットしている。
「今だ!」
ゼンの両手がふさがったその時、夫婦も娘と同じように窓から逃げて行った。
「走れ!絶対に足を止めるんじゃないぞ」
「みんな、逃げて!余所者が、襲ってきた!」
外からは、必死の叫び声が聞こえてくる。あれだけの大声で叫べば、眠っている人間も起きるはずだ。
ゼンはその声の原因を追うことはなかった。
「ふう」
ゼンは一息をつくと、近くにあった椅子に座る。
「ゼン、何やってるのさ」
いつものポーチから、エアが飛び出してきた。
「あ?」
「あ?、じゃない!何やってるの!ここだけじゃなくて、他の家にも同じようなことをやって」
エアは明らかに動揺していた。オプトに引き続き、ゼンまでもがおかしくなってしまった。ゼンがどうなってしまったのか、エアには全くもって理解できなかった。
「大丈夫。俺は正気だ。
その証拠に、誰も殺していないだろ」
確かに、ゼンは誰一人として殺めていなかった。ゼンがその気なら、あの親子を殺すことなんて容易いはずなのに。エアの中でさらに疑問が深まる。
「残っている連中も一緒に連れて、逃げてもらえると幸いなんだがな」
独り言のような、小さい声がゼンの口から洩れた。ゼンの視線は真っすぐ、親子が逃げて行った窓に向いている。
しばらく、ゼンは椅子に座ったままであった。エアも大人しく、机の上で座っている。
「もしかして、この村で起きたことを自分がやったように見せかけているの?」
口を開いたのはエアの方だった。
「さあな」
ゼンは視線を変えないまま、返答する。窓からは心地よい風が吹き、太陽は昇り始めていた。
「少し寝て、この村を発つ」
ようやくゼンは重い腰を持ち上げた。さきほどまで、家族で寝ていたベッドを一人で占領し、大の字になって寝転がる。
「お前はどうする?」
ゼンは両眼を閉じたままで尋ねた。
「私もついていく」
「……そうか」
ゼンはそのまま浅い眠りに入った。