五話 其の三
突然、ゼンが上半身を起こした。ゼン自身が意識して行った動作ではない。咄嗟に、無意識の間にその動作が行われた。
「おや、起きていたのですか」
老婆がゼンの部屋に入ってきた。
「ええ。今起きました」
ゼンは返事をしつつ、エアを探した。エアは、ゼンのすぐ近くにいた。ゼンはシーツでエアを覆う。老婆もその様子を疑うことはなかった。
「朝ごはんができたので、起こしに来ました。が、その必要はなかったようですね」
それだけを言うと、老婆は部屋から出て行った。ゼンもベッドから離れ、大きく背を伸ばす。
「うーん」
体を伸ばしても、痛みはない。巻かれている包帯にも赤いしみはない。体も徐々にだが回復してきた、ゼンはそれを実感した。エアはまだシーツを上にかぶったままで呑気に寝ている。
このまま放っておいても問題はない、ゼンはそう判断した。エアをベッドに残したまま、ゼンは食卓に向かった。
食卓にオプトの姿はない。ゼンが座る前には、二皿分の食事が用意されていた。
「あの子は、まだ寝ているようなので、食べましょうか」
またしても、三人だけの食事になってしまった。ゼンは、出された二人分の食事すべてを平らげた。それだけでは足りず、追加で出されたものも食べた。
「こんなに頂いても、いいのですか?」
「いいんですよ。何かと村人たちが食材を持ってきてくれましてね。儂と婆さんだけでは、食べきれないのですよ。オプトもそれほど食べるわけではありませんし。
食材を無駄にするよりも、食べてもらったほうが儂らとしても有り難い」
ゼンは食事を終えると、自室に戻った。しばらくは部屋でゆっくりとしていた。何をすることもなく、ただただベッドで横になっている。
エアはそんなゼンの様子を不思議そうに見ていた。
「俺だって、偶にはゆっくりしたいさ」
エアの視線に気づいたゼンは、そう答えた。
「だが、ずっとこのままなのも暇だし、体にもよくないしな。
散歩に行ってくる。お前もオプトの部屋にでも行ってきていいぞ」
ゼンは刀も持たず、丸腰のまま部屋を出た。
食卓には老夫婦がいた。二人仲良く椅子に座り、談笑している。
「おや、お出かけですか?」
老婆の方が、ゼンに気づいた。
「ええ。また散歩に行ってきます」
「そうですか。お気を付けて」
二人も、村人が余所者に対し冷たいことは知っているようだ。少し心配そうな顔をゼンに見せた。ゼンはそれを気付いていないように装った。
外に出ると、容赦ない暑さがゼンを襲った。外套を着ていないが、それでも暑い。
ゼンは先日、アプトと歩いた道を辿った。歩けば歩くほど、人の数は少なくなり、雰囲気も暗くなってきた。影のあるところが多くなり、先ほどまでとは打って変わり昼でも少し肌寒いくらいだ。
「オイ。何の用だ?」
ゼンが立ち止まり、正面を向いたままそう言った。体は前を向いているが、声は後ろの方に飛んだ。先程から、嫌な視線があったのはわかっていたが、ここまで付いてくるのは意外だった。よほど、嫌われているのだろう。
木陰から、三人出てきた。二人は似たような背格好で、それほど背丈は高くない。肉付きもいいとは言えず、どちらかといえばやせ型である。二人ともニタニタと笑い、どこか人を馬鹿にするかのような感じである。
もう一人は、二人とは対照だった。背も高く、体も大きい。腹に蓄えられた脂肪が前へ横へと突き出ている。腕も太く、成人男性の太ももほどの大きさだ。だが、下半身は細く、不格好な体であった。
口も開けたままで、涎が垂れている。目もどこか虚ろで、焦点も定まっていない様子だ。
「お前はいつこの村から出ていくんだ?」
二人組の一人が言った。
「さあな。傷が治るまでか、出て行けと言われるまでか」
ゼンは振り返り、三人の姿を確認した。よく見ると、巨漢の一人は、手に丸太を持っている。横にいる二人と同じかそれ以上に大きい丸太であった。しかも、持ち手と逆の先端の方は形が歪で、赤黒くなっている。
「まあ、いいさ。お前は今日で、この村からもこの世からもオサラバすることになるんだからな
オイ!アイツがお前のこと、悪く言ってたぞ」
真ん中にいる巨漢に目を向けて男は言った。
「あー。お前―、俺の悪口言ったー。お前―、嫌いー」
巨漢は間延びした声で、ゼンに対し敵意を向ける。太い腕で、丸太を小枝の様に振り回す。丸太は目にも止まらないスピードで振り回されている。
残りの二人は丸太に当たらぬよう、後ろに下がっている。二人の顔は、まだ腹の立つ笑みが残っていた。これまでも何人もの旅人が、望まぬ結果を迎えたのだろう。
ゼンも今までと同じような結果になると、信じて疑っていない様子だ。
「怪我もしている、刀もない。今までと同じように、丸太の染みになること間違いなしだな」
「ああ、そうだな。死体はいつも通り川に流せば問題ないな」
後ろでそんな会話が繰り広げられている。その間にも、ゼンと巨漢の距離は縮まっていく。丸太を振り回して発生した風圧が、ゼンの体にもたどり着いた。
一方、ゼンはその場に立ったままだ。ポケットに手を突っ込み、大きな欠伸をしている。
「お前―。消えろー」
ついに丸太がゼンに届くところまで辿り着いた。
ズドンー。
何かが倒れる音がした。
倒れているのは、巨漢だった。後ろにいる二人組は、その光景を真顔で見ていた。今度は、二人組の方の口が開いている。目の前の現実が受け入れられていない様子だ。
巨漢が丸太をゼンめがけて振り下ろす、その瞬間だった。
丸太を持ち上げたせいで、顔面が無防備の状態になる。その隙をゼンは見逃さなかった。
ゼンは右足を高く上げ、巨漢の顎に蹴りを入れる。蹴りは巨漢の顎に入った。剥き出しの顎に入った蹴りは、巨漢を気絶させるのには十分であった。
巨漢は一言も発することなく、地に落ちていく。自身に何が起きたのもわからないまま、気を失った。
気が付いた時には、倒れているはずの人物が倒れておらず、逆にそこにいるべき人物が地に伏していた。血は流れておらず、倒れている巨漢も体をピクピクト震わせている。死んではいない。
「どういうことなんだよ!オイ!」
「俺が知るか!そんなことより、どうすんだ」
後ろにいる二人は、自分たちとは関係がないかのように話している。だが、ゼンは二人のもとに歩み寄っていく。
一歩一歩と、段々と距離は近くなっていく。二人は顔を見合わせ、互いに相手が何とかしてくれると甘く見ていた。逃げ出そうとするものの、足は動かない。
「よお。誰がこの村からも、この世からも消えるんだ?」
ゼンと二人組は、相手の拳が届く所まで近づいている。ゼンの腰に刀があれば、たやすく二人の命を奪えるであろう。
「そ、それは……」
「冗談だよ、冗談。なあ」
男たちの顔から笑顔が消え去った。顔に残っているのは、恐怖だけである。
「わっ!」
ゼンが、突如叫んだ。
二人はその突然のことに驚いた。驚きのあまり、地面に座り込んでいる。互いに手を握り、何とも仲の良いことだ。
「じゃーな」
それだけを言うと、ゼンはその場を立ち去った。振り向くこともなく、手だけを振り、来た道を戻っていく。
ゼンがオプトの家に戻ってきても、まだ暑さは去ってはいなかった。赤く燃えているような空が見える。
家の外では、オプトが小さな子供と遊んでいた。子供はもちろん、オプトも楽しそうに遊んでいる。オプトとは短い付き合いだが、初めて心の底から笑っている姿を見た気がする。
「楽しそうだな。もう体調はいいのか?」
オプトに声をかけたことで、ゼンが返ってきたことに気づいたようだ。今までも外で遊んでいたのだろう、オプトの額からは汗が流れている。
「ええ。ゆっくり寝たので、今は調子がいいんですよ」
「オプトの兄ちゃんは、こうやって遊んでくれるんだ」
「そうなんだ。毎日は遊べないけど、それでもよくこうやっていろいろと遊んでくれんだ」
オプトの周りにいる子供たちが、口をそろえてオプトのことを誉めている。オプトに対しては皆、距離が近いが、ゼンに対しては目に見えて距離があった。それに言葉の端に棘が感じられる。
オプトのことを誉めると同時に、ゼンに対し“出ていけ”と言っているように。
一人の小さな少女は、オプトの足にしがみついている。ゼンを陰からチラリと見ているが、決してゼンと目を合わせようとしない。
「お前は早く出て行けよ!よそ者は、村から出ていけ!」
一人の子供が怒鳴るように言う。最初からゼンに対し、敵意のある視線を投げかけていた子どもだ。
周りにいる子供たちも、段々とゼンに対し、敵意をむき出しにする。
「そうだ、そうだ。出てけ、出てけ」
「お前なんか怖くないぞ」
子供たちからの言葉は止まらない。誰もがゼンのことを恐れている。
「み、みんな。この人はいい人だよ。倒れて私を家まで運んでくれてんだし」
オプトがすぐにゼンのフォローに回る。だが、オプトの支援もその場の流れの前では無意味であった。
「何で、こんな奴の味方するんだよ?」
「それでも、この村で一番、偉いのかよ」
子供たちの標的が変わった。オプトも自分たちと同じく、あのよそ者を攻撃してくれる、子供たちはそう考えていた。だが、オプトは子供たちの擁護をしなかった。それは、子供たちにとっては裏切りに等しいものであった。
本来、率先してよそ者を追い出すべき人間が、逆によそ者と仲良くしている。怒りの矛先はゼンから、オプトに変わった。
「何で、そんなこと言うんだよ!」
「早く、この村からアイツを追い出してよ」
「そんなんだから、オプトは体が弱いままなんだよ」
「ウチの母ちゃんも言ってたぞ。オプトは貧弱すぎるって。オプトのお父さんはもっと偉くて、強かったって」
子供たちはオプトに対し、思いのたけをぶちまけると、家に帰って行く。誰もが、オプトゼンのことを。鋭い目で見ていた。
オプトは明らかに落ち込んでいた。背を丸くし、ただでさえ貧弱なオプトがより一層、弱々しく見える。
「大丈夫か?」
ゼンがオプトに声をかける。
「大丈夫です……。今日は、もう寝ます」
明らかに大丈夫な雰囲気ではなかった。だが、ゼンはそれ以上踏み込むことができなかった。これ以上踏み込んでも、傷口を大きくするだけだとゼンは判断した。
オプトが家に入ってから、ゼンはしばらく外にいた。先ほどまで、オプトと子供たちが遊んでいたところで、地面に座っていた。
大きく深呼吸をし、肩を伸ばすと、ゼンは立ち上がる。立ち上がったゼンは、飛んだり跳ねたりの動作を繰り返した。そこに蹴りや殴るなどの動作を加えた、目の前に相手がいるかのように。
「もう大丈夫か」
それなりに動いたが、傷は痛まない。これならばもう、この村を出ても大丈夫だろう、ゼンの決断は早かった。
体を動かした後、ゼンはオプトの家に入っていく。家に入ると、老夫婦がオプトの部屋の前で、心配そうに佇んでいた。
「どうかしたんですか?」
ゼンは何も知らないように振舞った。
「あの子が、帰るなり、直ぐに部屋に行ってしまって。いえ、それ自体は珍しくないのですが。
今日は何というか、その、いつもより更に体調が悪そうに見えて。子供たちと遊ぶといって外に出たときは、あんなにも元気だったのに。
なあ、婆さん」
「そうですね。なにかあったんでしょうか」
老夫婦は互いに顔を合わせ、オプトのことを心から心配していた。
「今日で、この家を出ます。お世話になりました」
オプトのことに加え、ゼンがこの家を出ると聞き、老夫婦は驚いた。
「そ、そんなに急がなくとも。まだ傷も治っていないでしょうに」
「傷は治りました。それに、この家にいると、あなた方にも迷惑をかける」
そう言われると、老夫婦は何も返せなかった。実際、ゼンが受け入れられていないことも老夫婦は知っていた。ゼンが家にいることで、二人も、村人から白い目で見られることもあった。
オプトの世話係ということもあり、老夫婦に直接的な攻撃はなかった。だが、それでも老夫婦に心理的な負担は存在している。
「すぐに出るので、荷物をまとめます。それでは」
ゼンはそう言うと、自身の部屋に戻る。
部屋に戻ると、そこにエアはいなかった。ベッドや机なども探したが、どこにもエアはいない。ゼンは諦めて、自身の荷物をまとめ始めた。
すると、エアが窓から侵入してきた。
「ゼン!オプト、どうしたの?」
入ってくるなり、ゼンに質問を投げかけてきた。エア自身も落ち着きがない。オプトの様子に戸惑っているのだろう。
エアから聞いた話によれば、オプトが部屋にいるときは、エアもオプトの部屋にいたらしい。オプトが養生している間、いい話し相手になっているらしく、エアもその関係を嫌がってはいなかった。
むしろ、その関係を喜んでいるようにゼンには見えた。何処にも行っても、戦いと騒動に巻き込まれる旅に嫌気がさしている処もあるのだろう。
「エア。
俺はこの村を出る。お前はここに残りたければ残ってもいいぞ」
突然の宣言にエアは口を開けたままだ。
「えっ?どういうこと?」
ゼンの口から出た言葉を理解するのに、エアはしばしの時間を要した。それでも、自分の中で合点がいかず、ゼンに質問を返す。
「この村を発つ。
エア、お前はついてきてもいいし、ここに残ってもいい。それを決めるのはおまえ自身だ」
少しの沈黙の後、エアは口を開いた・
「私は……」




