十八話 其の六
「も、も、も、もう、勘弁してくれ……。
これ以上知っていることは何もないんだ。さ、さ、寒くて死んじまう」
男は未だに椅子に縛られたままだ。ただ、椅子は倒され、男も地面に横たわっている。男の周辺には水溜りができていた。柔らかい土が吸収できる量以上の水が散布されている。
男の体に新しい傷はない。しかし、男の精神は今にも折れそうな程に消耗していた。
「こんなモノか」
倒れている男の前で、ゼンは椅子に座ったまま小さく呟いた。彼自身は至って平常運転の様である。
「もう終わり?」
「ああ、終わりだ」
後ろから声を掛けてきたのはヴェーラである。
「お、終わりなのか。
これで、本当に俺を解放してくれるのか」
“終わり”という言葉に一番反応したのは男である。今まで暗い闇の中にいた眼が光を取り戻しつつあった。
「約束通り、これ以上は何も危害を加えない」
「ちょっと、ゼン。
本当にコイツをこのまま開放するの?」
「そういう約束だからな。
不服か?」
「ええ。全くもって不服よ。
コイツは、私の親を、村の皆を殺した奴らの仲間なのよ。そんな奴を殺す絶好の機会をみすみす見逃せと」
「そういうことだ。
俺はコイツを連れて行くから、お前は先に帰っていろ」
背後から突き刺す様な視線を感じつつ、ゼンは男を椅子ごと持ち上げる。
「オイ、起きろ。
待ちに待った時だ」
「は、はやく……」
ゼンは片手で男と一体になっている椅子を引きずりながら、馬小屋を出た。
「さむ、さむ、さ、寒い
早く、服を着せてくれ」
「そんだけ騒げるなら大丈夫だ。
服を着るよりも大声を出して体を温める方が早いんじゃないか」
「ふざけるなぁぁぁぁ!
はやく俺を解放しろぉぉ」
男の悲痛な叫び声が響く。その声も続いたのは僅かの間だけであった。男の体が熱を持つことはなく、ただただ冷えていく一方である。残っている貴重な体力もゼンの尋問と叫びのせいで底を尽きかけていた。
「ここでいいか」
ゼンが足を止めた場所は、村から少し離れた坂の上であった。彼は額に汗を浮かべている。
「約束通り、何もしないでやるよ。
それっ」
ゼンは椅子に縛られたままの男を坂から落とした。男は坂を転がり落ちていく。
男の悲鳴が雪原に広がっていく。ゼンの耳は意識的に、その声を遮断していた。男の悲鳴は彼にとっては、自然の音と変わらない。音があっても気付かない程度のものだった。
「約束通り、何もしなかったぞ」
ゼンはその場を後にする。男の死は確実といっても過言ではないだろう。そのまま放っておいても凍死は免れない。仮に、男が坂から転がり落ちた後で仲間から助けてもらった所で、男の体力は底を尽きかけていた。死ぬのは時間の問題だ。それが遅いか、早いかだけかの違いである。
「アイツはどうしたの?」
「約束通り放してやった」
帰ってきたゼンを待ち受けていたのは、彼を突き刺す様な鋭い視線であった。
「早速で悪いが、しばらくしたらここを離れるぞ」
今までは寒波や雪などで身動きが取れないためこの村に滞在し続けていたが、そろそろ潮時だとゼンは考えていた。
そう考えていた矢先にこの襲撃だ。ゼンは考えを固めた。こうなる前からヴェーラにも伝えるかどうか悩んでいたが、最早猶予は残されていない。
「また何かの冗談?」
「本気だ。
今回も含めて、相手方の刺客を2回も破ったんだ。このまま黙っているはずがない。
今度は数人じゃきかないぞ、もっと大勢で来るはずだ。その前にここを立ち去る」
「相手が何人こようとも、全員、倒せばいいだけじゃない」
「俺一人なら、そうしていたかもな。
だが、これは俺の戦いじゃない。あくまでも、お前の戦いだ。そして、お前じゃ次の襲撃には耐えられん。
奴らがここに来る前に、俺たちはこの村から去る。
不服か?」
「ええ、不服よ。
私達にとっての仇が、この村に来ようとしているのに、ここから逃げるなんて。
何のためにあの苦しい訓練を耐えてきたの」
「生き延びるためだ。
何度だっていうが、お前の本当の仇は誰なんだ?この村にやってくる下っ端を殺してお前の心が晴れるならそれでもいい。
だが、お前の本当に討ちたいのは、当主だろ。それを絶対に忘れるな。
むしろ、これを好機と思え。
奴らが次の追手が放つということは、それだけ本拠地の戦力が少なくなるということだ」
「正直に言うと、これから来る奴をそのまま見逃すことになるのは、腹が立つ。
だけど、元凶を叩けるなら我慢できる。
それで、具体的にはいつ出るの?」
ヴェーラは真っ直ぐな目でゼンのことを見つめる。先程まで怒りを露わにしていた彼女はどこにいったのかという程の変りようだ。冷静に物事を客観視できている。
「早ければ早い程、俺たちにとっては有利になる」
「じゃあ、明日ね。
私、明日に備えて寝るわ」
「ああ、それがいい
また明日な」
その日の晩、ゼンは恐ろしい程よく眠ることができた。悪夢にうなされることも、途中で睡眠を妨害されることもなかった。かと言って、感覚が鈍っている訳ではない。むしろ、彼の五感は鋭さを増している。ヴェーラとの訓練では決して取り戻すことのできなかった、彼が持つ本来の勘を取り戻していた。
次の日の朝、ゼンは自然と目を覚ました。普段と変わらない位の睡眠時間だが、体に疲れは残っていない。体の調子もすこぶる良い。眠気も感じていなかった。
「おはよう」
ヴェーラはゼンよりも先に目を覚ましていた。その目は赤く充血している。昨晩は眠ったふりをしていただけで、実際はあまり眠ってはいないのだろう。
「飯を食ったらすぐに準備に取り掛かるぞ」
まずは腹を満たすことが先決だ。何をするにしても、食べなければ体も脳も動かない。今までの様に村の備蓄食の量を気にする必要も今の彼らにはなかった。持っていけそうな物だけを詰めて、それ以外の物はここで全て胃に詰め込んでいく。
いつもよりも量も味も豪勢な朝食を平らげると、ゼンは準備に取り掛かる。これでもいつもよりも時間は早い位だ。対する、ヴェーラは瞼が重くなりかけている。空腹が満たされたことにより、眠気が出てきたのだ。
幸いにも準備にもそう時間はかからなかった。元より、必要な分だけしか荷物を持っていないことに加え、前々から最低限の準備だけは用意していたのである。
「そっちは準備できたか」
「――うん」
ヴェーラの眠気は体を動かしても取れなかったようだ。帰って来た声もいつもの様な元気がない。
「悪いが、少しの間だけ待っていてくれ。
セロの様子を見てくる」
ゼンの発した言葉は決して嘘ではなかった。当然の話だが、この旅にはセロも連れて行く。万が一の場合も考えて、セロの様子を確認しておきたかったのだ。
「その間は、ここでゆっくりしておけ。
しばらくは固く冷たい床が寝床になるから覚悟しておけ」
十数人の男が雪原の上で立っていた。全員が武器を持っている。武器の種類は様々だが、共通しているのは手入れが行き届いていることだ。
「ここか」
集団の中で、最後尾にいる男が口を開いた。男は周囲の者と比べ、特段背が高い訳でも、体が大きい訳でもない。むしろ、周囲の者と比べると線が細い位だ。だが、その背にある長い刀と鋭い目つきは、彼が只者でないことを雄弁に物語っている。
「ウォルドさん、どうします?
すぐに突入しますか?」
“ウォルド”と呼ばれた男は顔に薄ら笑みを浮かべていた。この村で何が起きたのかを、顔も知らないゼンが何を引き起こしたのかを悟っているかのようである。
「すぐに突入しようが、後から突入しようが、結果は変わらんさ。既に終わっている」
ウォルドの言葉をきっかけに、残りの者たちが村の中に入って行く。
「駄目です。どこにも誰も居ません」
「こっちもです。人どころか、動物だっていやしねえ。
ただ単に逃げただけじゃないんですか」
「こっちも、っつつ。何だ、足元に何か」
「おい、どうした?」
男の足元に転がっていたのは、死体であった。それも、自分たちの知っている者の死体である。
「ふむ、やはりか」
いつの間にか、ウォルドが背後に立っていた。
「そいつを起こしてやれ」
「俺がですが?」
足をつまずいた男が自身の方を指さす。
「お前以外に誰がいる」
男は嫌な顔をしつつ、死体を雪の中から持ち上げる。死体は完全に雪に埋まっており、まずは雪を解かすところから始まった。結局、他の数人の手助けも借りて、ようやく死体を掘り起こす。
「ふむ、ふむ。
もういいぞ」
ウォルドは、ほんの僅かの間だけ死体をじっくりと眺めるとそう言い放つ。もはや、彼の興味は完全に失せていた。
「何か分かったのですか」
「ああ。
こいつを殺したのは手練れだ。この村の住民の可能性はかなり低いだろうな」
「どうしてですか」
「傷口の数だ。
こいつの傷口の数は一つだけだ。しかも、致命傷の部分にな。こんな芸当は素人が狙ってできるものじゃない」
「こっちにも死体がありました!
ですが、様子がおかしくて」
「どうおかしいんだ?」
「椅子に縛られています。それも、ほぼ裸の状態で」
「捕まって情報を引き出されたな。
ん、待て椅子に縛られて、とお前は言ったな。そいつには外傷があったか」
「外傷ですか?特に目立ったものは無かったはずです。それが何か?」
「すぐに戻るぞ」
「えっ」
「聞こえなかったのか。すぐに戻ると言ったんだ。今、残っている者を全員集めろ。
と言っても、何人かはもう手遅れだろうがな」
「それはどういう意味」
男の声はかき消された。声をかき消したのは、別の者の悲鳴である。
「どうした?」
「あ、脚がっ」
「脚がどうした?」
「あ、脚がぁぁぁ。脚がぁぁぁ」
悲鳴に引き寄せられるかの様に、残った者たちが一点に集結していく。
「遅かったか」
「おいっ、どうし……」
悲鳴の聞こえた場所は狭い通路の方だ。家と家の間にある、人一人がやっと通れるほどの空間である。そこだけが、台風が通り過ぎた後の様な惨状になっていた。両隣の家の瓦礫は崩れ、通路を埋め尽くしていた。それも少量ではない。大の大人が抜け出すことができない程の量だ。
助けを求めている男も、膝から先の足が完全に瓦礫の下に埋まっていた。
「おい、しっかりしろ」
「引き抜くぞ!
誰か手を貸せ」
「俺はこっちを、お前はそっちを持て。
一の二の三でいくぞ」
「ああぁあぁああ」
埋もれている男を引き抜こうと力を入れた途端に、再び男は悲鳴を上げた。男は目からは涙を、口からは血を流しながら声を上げ続ける。
「どうする?」
「どうするって言ったって」
「どけ、邪魔だ」
そこにはウォルドがいた。男は背中から自身の背丈と同じ程の刃を抜いていた。
「何を」
ウォルドは、瓦礫の下敷きになった男の首を切り裂いた。男は刀に付いた血を払うと、刀身を鞘に納める。
「こうなってはもう助からん。後は死ぬのが早いか、遅いかだけかの違いだ。
瓦礫の下に埋まっている他の連中も同じだ。
今、動くことのできる者だけを全員すぐに集めろ。すぐに屋敷の方へ戻るぞ」
「屋敷の方へ?逃げた奴を追いかけるのでは」
「追いかけるからこそ戻るんだ。
よく考えてみろ、逃げる奴がわざわざ人を生け捕りにするか。こんな罠を張り巡らせるか。
そんなことをする時間があるなら、少しでも遠くに逃げるはずだ。」
「目の前のこれも罠だと。俺たちを狙ってこんな罠を仕掛けたと……」
「そうだ。
敵ながら効果的な方法だ。よほどこういった戦いに慣れていると見た」
そう言いつつも、ウォルドはうっすらと笑みを浮かべていた。




