十八話 其の四
周り一面が銀世界であった。太陽は昇っているが、気温は低いままだである。吐く息が白い。呼吸をする際に吸い込む空気で、肺が冷えそうな程の気温だ。
その中で、人影が二つあった。ゼンとヴェーラである。彼女はナイフを手に持ち、彼に向けている。対する彼は素手のままだ。二人の距離はさほど離れていない。二人がともに近づけば、すぐに武器が届く範囲だ。
「約束だよ。
私が一撃でもゼンに攻撃を加えたら、私に武器の扱い方を教えてくれる」
「ああ。
御託はいいから、さっさとかかって来い」
ヴェーラは真剣そのものであるのに、ゼンは欠伸をし、気が抜けているようにしか見えない。それが、彼女の機嫌を更に悪化させていた。
「それじゃあ、早速」
ヴェーラは前に出た。彼女の全速力でゼンに近づいた。
「これでッ」
ヴェーラの視界が反転した。空が下に、地面が上にある。彼女は自身に何が起きたか理解できなかった。理解する前に、彼女の体に衝撃が走った。
「っっっっ」
ヴェーラの視界に写ったのは、満天の青空だった。未だに彼女は自身の身に何が起こったかを理解していなかった。
「どうする、終わりにするか?」
視界の外からゼンの声がする。ヴェーラは起き上がろうとし、そこで初めて自身の状況を把握した。彼女は雪の上で倒れているのである。そして、彼女を倒した当の本人は目の前にいる。
ヴェーラはすぐさま立ち上がる。立ち上がり、手にしたナイフを握りしめる。そこで気付いたのは、先程まで自身の手に握られていたナイフが無いことだ。
「遅い」
ヴェーラの喉元にナイフが突きつけられる。突き付けられたナイフは、彼女が先程まで握っていたものだ。
「ほら、返してやるよ」
突き付けたナイフを喉元から離し、ゼンはヴェーラにナイフを投げて返す。彼女の視線はナイフに釘付けになっている。その隙に、彼は再度自身のナイフを喉元に突き付けた。
「隙だらけだ。
俺がその気なら、既に四回は殺せたぞ。一度目はお前を投げた時。二回目はお前が地面に倒れている間。残りの二回は、言わずともわかるな」
ゼンの声は低い。決して冗談で言っている訳ではないのが感じ取れる。彼は愛用のナイフを元の位置に戻すと、改めてヴェーラに尋ねる。
「まだやるか?」
「一撃与えるまでやる」
ヴェーラは手にしたナイフを振り回し、ゼンを引き離す。彼女はすぐさま、ゼンに向かって突進してきた。
向かって来るヴェーラに対し、ゼンはその場から動こうともしない。彼の刀が届く範囲になって、ようやく彼は動いた。が、動かしたのは片足である。
ゼンは左足で雪を掻くようにして、前に飛ばす。空を飛んだ雪はヴェーラの顔面に当たった。当たった所で殺傷能力はないもの、数秒間の間、彼女の視界を遮ることができる。
ゼンは目の前にある伸びた腕を掴むと、そのまま一気に投げ下ろした。地面が雪で覆われているからできた芸当である。荒れた土の上や岩の上であれば、絶命することも有り得る。
「ィッッッ」
「これで五回目だ。いや、六回だな」
「うるさいッ!」
それからというもの、ゼンは向かって来るヴェーラをひたすらいなし、躱し、受け流していった。彼に一撃を加えられないまま、時間だけが過ぎていく。
ようやくヴェーラの体力が尽きた頃には、太陽が沈みかけていた。彼女の意志は固く、まだ闘志を抱えている。だが、体が彼女の意志に追いつかなかった。
雪上には大量の足跡が残されている。その内の大多数がヴェーラによるものだ。ゼンは彼の周りに僅かな数しか、足跡が残っていない。
「ま、まだ」
ヴェーラは起き上がろうとするが、途中で力尽き雪上に倒れてしまった。
「いい加減、諦めたらどうだ。
お前の死んだ数も、指じゃ数えられない程になっているぞ」
「あなたに一撃加えるまでは……」
まだヴェーラは諦めていない様子だ。このままでは陽が落ちるのが先になりそうである。
ヴェーラが大きく息を乱して汗を流している一方で、ゼンは何事も起きていない様にその場に立っていた。大きく動いている訳ではないので、寒さすら感じる程だ。
「何にせよ、これでわかっただろう。
今のお前じゃ、俺すら殺せないってことを。お前が相手にするのは、俺以上に手強い相手だ。
それに、今は一対一で戦ってこのザマだ。仇を討つ場が、一対一になると思うか。」
ゼンはヴェーラに近づき、上から覗くようにして彼女を見下ろしている。
「おっと、その手に持っているナイフを振っても無駄だぞ」
ゼンはヴェーラが構えているナイフを見落としてはいなかった。彼の言葉が終わらない内に、彼女はナイフを振っていた。
当然、ヴェーラの一撃はゼンに掠りすらしない。彼は必要最小限の動きだけでナイフの軌道から外れる。彼は足で彼女の右手を押さえた。あくまで痛くならない様に、あまり体重を掛け過ぎないように細心の注意を払う。
「参った」
ついにヴェーラが折れた。
「これからは、あなたの指示通りにやる。
まずは、走り込みからでしょう」
「――そうだな」
ゼンはゆっくりと、足を上げる。足を上げたことにより、ヴェーラの体は自由が利くようになった。その瞬間に、彼女は最後の一撃に打って出た。
体力的にもこれが繰り出すことのできる最後の攻撃だ。嘘をついたという罪悪感は彼女にはない。それ故に出せた速度だ。
「悪いが、それもお見通し済みだっ」
ゼンは彼女の手からナイフを取り上げ、体を起こしてやる。
「なんでわかったの?
私が嘘を付いているって」
「目だ。
まあ、こればかりは経験の違いだな。今までも、お前みたいに降参しましたと言って、何度も奇襲を仕掛けられことがあったんだ。そいつらの目と、お前の目は同じだった。
あと二つほど根拠はあるが、聞きたいか?」
「聞きたい」
「一つは殺気だ。これも、結局は経験の違いとしか言いようがないがな。
二つ目は視線だ。お前の視線は俺を見ているようで、実はナイフに向いていた。
以上だ。参考になったか」
「身に染みてわかったわ」
ヴェーラは手を差し出す。ゼンは差し出された手を握り、今度こそ彼女を起こしてやる。
「ゼンみたいに強くなるには、どの位かかる?」
「生きるか死ぬかの戦いを嫌になるほど繰り返せば、強くなるさ」
「それだと、強くなる前に死んでしまうんじゃない」
「死なないために強くなるんだ。
今日はもう終わりだ。
よく体を休めておけ。あれだけ地面を転がっていたんだ、どこかしらに痣か傷ができているはずだ」
ゼンがヴェーラを転がした時は、できるだけ衝撃が少ない様には加減していた。だが、彼女の根気が彼の想像以上だったため、彼が考えていたよりも多く転んでいる。
幸いにも土は雪で覆われているたに、雪が緩衝材の役割を果たしてくれている。夏場であれば、彼女の肌は傷だらけになっていてもおかしくはない。
「うん。
大人しくそうさせてもらう。正直に言うと、もうヘトヘトなの。
立っているのも精一杯なくらい」
ヴェーラの表情からも余裕がないことが窺い知れる。今までは、ゼンに一撃を入れるという確固たる目標が彼女にはあった。その目標が消えた今となっては、彼女の精神を支える支柱は無くなったも同然だ。体力も底を尽きかけている今、彼女は立っているだけでも賞賛に値するほどである。
「俺は今日の分の薪を割ってから戻る」
「うん、それじゃあ」
ヴェーラは小屋へと戻って行く。彼女の姿が完全に見えなくなってから、エアはポーチから出現した。
「結局、こうなっちゃうのか~」
「仕方あるまい。
こうなれば、アイツが死なない様に鍛え上げるだけだ。
お前も戻っていていいぞ。このままここにいても寒い思いをするだけだ」
「いや、私はここにいるよ。このポーチの中なら多少は寒さも防げるし」
「まだ打ち解けられないか?」
「う~ん。
私としては仲良くなりたいんだけどね。まだ向こうが気を許してくれない感じかな」
「何とかうまいことやってくれ」
ゼンにしては弱気な発言だ。
「珍しいね。ゼンが弱音を吐くなんて」
「俺にだってどうしようもできないこともある。特に俺みたいな人間にはな。だからこそ、お前に託す」
「ま、何とかやってみるよ。
失敗しても、私に文句は言わないでよね」
「お前みたいに文句は言わないさ」
ゼンの心配をよそに、二人の距離は近づいて行った。ヴェーラは何かが吹っ切れたのか、エアとも積極的に交流するようになった。彼の課した訓練にも大人しく従っている。
だが、ゼンの課した走り込みはしばらく休止となった。ヴェーラが言った通り、寒波が襲来したのである。
ゼンも初めて経験する程の凄まじい寒波であった。これまでの人生で経験した、一番厳しいと確信を持って言える程のものであった。その寒波が到来している間は、外に出ることすらままならない状態である。
外に出ることができない間に、ようやくゼンはヴェーラに対し武器の扱い方を教えることとなった。彼が彼女に授けたのは、ナイフである。
ゼンがこの村に辿り着いた際に、対峙した兵士から拝借したものだ。ヴェーラの体格や筋力からして刀や槍を持って戦うことは現実的ではない。かといって、遠距離攻撃ができる弓では、扱うまでに長い年月を要してしまう。
ゼン自身も弓の扱いはあくまで人並みか少し上手い程度でしかない。それに弓で多人数を相手にするには相当の技量が必要だ。当の彼本人もそこまでの技量は持っていない。
対してナイフであれば、ゼンは自信を持って教えることができる。彼自身も刀と同等かそれ以上に扱いには慣れている。
ナイフの利点はいくつもある。まず、軽くて携帯に適していること。槍や斧であれば、持つだけでもかなりの体力を要してしまう。加えて、目立たないことも利点だ。大きい武器はそれだけで目を引く。それが有利に働き場合もあるが、彼女にとっては不利に働いてしまう。
次に習熟が容易なことが挙げられる。勿論、一朝一夕で達人の域に達することは不可能だ。しかし、達人の域には達しなくとも、戦うことのできる腕前に仕上げるのに長い時間は要しない。
取得の容易さも挙げることができる。大きな町に行かずとも、ナイフであれば武具屋で買うことができる。環境さえ整っていれば、自らで製作することも可能だ。そして、ナイフを変えても扱いに困ることもない。
そして人を殺めるのに強い力を要しないことである。人体の脆い個所を狙えば、女の非力な力でも十分だ。
寒波で小屋から出ることができない間、ゼンはヴェーラに対し、ナイフの扱い方に加え人体の急所を叩きこんだ。狭い小屋の中というのは、逆にナイフを教えるのは好都合である。小さい振りで致命傷を与える練習にもなった。
寒波が止んだ後は、外の出の走り込みとナイフの練習を繰り返す日々となった。




