五話 其の一
「ねぇ、ゼン。大丈夫?」
エアがゼンの少し前を飛びながら問う。
「大丈夫だ、と言いたい所だが、そういう訳にもいかんな」
ゼンの顔は青かった。原因は、背中の傷である。先日の一件で負った傷、その傷はゼンから体力や気力、その他あらゆるものを奪い取った。
ゼンたちが海辺の村を発って、数日が経っている。その間、ゼンたちは野宿で夜を過ごしていた。しっかりとした睡眠をとることができず、ゼンの体に疲労が蓄積されていた。疲労と共に背中の傷も、ゼンの気力を削いでいる。
「んっ。この先から、いい匂いがする。それに人の匂いも」
エアが目を閉じながら言う。
「何?本当か?」
「多分ね。人の匂いも一つだけじゃないし、いろんな匂いがする」
ゼンの気持ちが少し持ち直した。海辺の村を出て、北上していたゼンにとって朗報である。久し振りにベットで寝ることができるかもしれない、その可能性がゼンの気持ちを僅かにではあるが楽にした。
今、ゼンたちは森の中にいた。周りには木々や雑草が生い茂っている。上からの日光を防げるという点では良いのだが、温度と湿度が非常に高かった。ゼンの額からは汗が流れ落ちている。
汗は背中にも流れ、汗が傷に染みると痛みがゼンを襲った。一つ一つは取るに足りない痛みであっても、それが継続的に長い痛みになる。流石のゼンも肉体的にも精神的にも参っていた。
森の中は足場も安定しておらず、泥でぬかるんでいる場所もある。一歩一歩慎重に歩いているのが、ゼンの体力を余計に奪った。ゼンの履いているブーツも泥を絡め取り、その分だけ重みも増している。
ゼンはエアの言葉を信じ、ただ歩いた。エアはゼンの少し前を飛び、行き先を誘導している。ゼンは半信半疑ながらも、他にどうすることもできないので、エアの飛ぶ方へ従った。
「そろそろかな。大分、匂いが近くなってきた」
「本当か?」
ゼンが真剣に尋ねた。
「大丈夫だよ~。私を信じなさい!」
ゼンと違ってエアはどこか軽い。先日の一件以来、ゼンとエアの間に微妙な間が生まれていた。移動中、二人が喋ることは少なくなった。必要最低限の会話だけを交わし、それ以外は無言の状態である。
元々、ゼンは口数が多くないため苦ではなかったが、エアは違った。陽気で活発なエアにとって、この数日は辛い行程であった。
「わっ!」
ゼンは一気に駆けだした、勿論セロも引き連れて。エアが消えた木々の先へ。
ゼンを待ち受けていたものは、絶景だった。鬱蒼とした場所を抜けると、ゼンの視界の先村が見えた。ゼンたちは、その村を見下ろす形になっている。
「凄い!凄い」
エアは宙に跳びながら、見つけた村に興奮している。ゼンはエアを見て、どこにも怪我が無いことを確認すると一呼吸置いた。
「こんな所に村があったんだ!」
「あ、あぁ」
エアの確認をし、ようやくゼンも村の方に目をやった。こんな所に村があったのを、ゼンも驚いている。人が集まっていれば、そこには様々なものが必要になる。そうすれば他の村や都市と交流が不可欠だ。だから、誰にも知られない村などある筈がない、そうゼンは考えていた。
だが、目の前に現れたのは、聞いたことも見たこともない村である。規模としてはそれほど大きくは無いが、それでもそれなりの人が住んでそうである。
「何してるのー?早く行くよー」
ゼンの長考を他所に、エアは既に村に向かっている。ゼンは胸にわだかまりを抱えつつ、エアを追った。
道なき道を進み、ゼンたちは先程見つけた村に近づいていた。エアの顔は喜びに満ちているのに対し、ゼンは不安げな表情だ。こんな人知れないところにある村だ。何か事情があるに違いない。それに加え、自身の傷の事は勿論、村民がこちらに対しどのような対応を取るのか、ゼンの悩みは尽きない。
「今度は、何も起きないといいけど」
エアが小さな声で呟いた。疲労と心配で一杯になっているゼンの耳に、それは入らなかった。それだけを呟くと、エアはいつも通りゼンのポーチの中に入った。
ゼンたちが上から村を見たときも、それ程大きくはなかった。実際、ゼンたちが村を目の前にしても、その考えは変わらなかった。先日の村よりも、小さい位である。
村の入口には、若い男が二人立っていた。男たちは槍を持ち、身構えていた。
その奥には弓矢を持った数人の村人がいる。どうやら、訪問客は歓迎していないようだ。
「何の用だ?」
入口にいる男の片方が言った。言った男はゼンよりも背が小さく、華奢な感じがする。もう一人の男もそうだ。奥にいる弓矢を構えている人もそうであった。
「何泊かさせて貰いたい。怪我を負っていて、それが治るまででいい。金なら払う」
ゼンは端的に自身の状態と要求を伝えた。普段なら、もう少し物腰軟らかく接することもできたが、今のゼンにその余裕はない。
門番たちは相変わらず、ゼンを不審な目で見ている。よく見ると、槍を持っている手が震えている。二人とも互いに顔を見合わせて、どうするかを協議している。いや、協議とは言えない様子だ。互いにどちらがゼンにぶつかるか、それで揉めている。
後方に控えている弓矢を構えた者も、似たような感じであった。誰かがゼンに攻撃してくれるのを、全員が待っていた。
「待ちなさい」
掻き消えそうな程、細く弱い声であった。ゼンと村民たちの間に静寂がなければ、聞こえなかったであろう。
村の入口の奥から、一人の若者がやってきた。若者は、他の者と比べ長身だ。だが、体が細く、色も青白い。更に、他の者の肩を借りている。体調が優れていないのが、一目見ただけでわかった。
「私の名前はオプトといいます。この村の、まとめ役をやっています。
ゴフッ。この村に何の用ですか?」
咳き込みながら、ゆっくりと尋ねてきた。
「オプト、こんな奴のいうことなんか」
「そうだ!こいつを生かして返したら、この村の事が周知される。そうしたら、どうなるかわかっているだろう」
周りの村民たちから、ゼンに対する否定的な意見ばかりが集まってくる。ゼンは、セロに跨り逃げることを考え出していた。誰にも当たらないようにクロスボウを打ち、相手が怯んでいる間に一気に駆ける。ゼンはいつでもそれができるように、心構えをしていた。
「判断は、僕が下す。黙っていてください」
村人たちがヒートアップしている中で、オプトだけが冷静だった。
オプトの周りにいる村民たちは、一斉に大人しくなる。当のオプトは、自分の足で立ち、ゼンの目の前までやってきた。門番たちは、オプトを止めようと腕を伸ばしたものの、オプトの前進を止めることはできなかった。
「あなたの目的を聞かせて貰えますか?」
オプトの体は震えていた。恐怖か身体的なものか、どちらかは分からない。だが、ゼンを見る目はしっかりしていた。視線を外そうとしない。
「この村でしばらく休ませて貰いたい。金は払う」
「本当にそれだけですか?」
オプトがすぐに訊き返してきた。ゼンを見つめる目が緩むことはない。
「ああ、そうだ」
両者が黙ったまま、少しの時が経った。突然、オプトが倒れた。何の前触れもなく、一瞬の出来事だった。
「ッ」
ゼンは考えるよりも先に、体が動いた。倒れたオプトを抱える。その後になって、村人たちが動き始めた。
ゼンはオプトが呼吸をしていることを確認した。静かな弱い呼吸だか、オプトは死んでいない。
「コイツの家はどこだ?」
自身の傷もお構いなしに、オプトを肩に抱える。オプトの体は非常に軽かった。本当に成人男性なのか、ゼンはそう思った。それ程に軽く細い体だった。
駆け寄った村人たちは、まだ互いにどうするかを悩んでいた。誰もオプトを助けようとせず、誰かが動くのを待っている。ゼンがいなければ、誰かが動いていたかもしれない。だが、彼がオプトを抱えていることで、誰もその一歩を踏み出すことができない。
「急げっ。こいつがどうなってもいいのか!」
困惑している村人たちに檄を飛ばすように、ゼンは言い放った。
「こ、こちらです」
ようやく、村人の一人が動いた。オプトの家の方向をを指で指す。
「あっちだな。誰か付いてきてもっと細かく教えてくれ」
村人の指示に従い、ゼンはオプトの家まで急いだ。
オプトの家は村の奥にあった。大きさは他の家よりも少し大きい位で、その他に変わったところはない。森の中は湿気が多く、家はその湿気を逃そうと創意工夫がなされている。
家の配置や窓の位置、その他あらゆるところに他の村では見られないようなものがある。
オプトの家には、老夫婦がいた。老夫婦はゼンに担がれたオプトを見ると、最初は驚いた。
「こちらに坊ちゃんをお願いします。すぐに用意をします」
老夫婦が驚いたのは最初の一瞬だけであった。すぐに落ち着きを取り戻し、オプトを寝かすようにゼンに指示を与えた。ゼンもその指示に従い、オプトをベッドに寝かせる。
ようやく落ち着いたかと一息を入れると、今度はゼンがその場に座り込んでしまった。足に力を入れようとしても踏ん張りは効かず、動けなくなってしまった。
「あれっ?」
ゼンの間の抜けた声が発せられた。ベッドの縁を掴み、精一杯立ち上がろうとするものの、肉体と意思が一致しない。
その姿を老夫婦も見ていた。その様子のおかしさに、老夫婦も気付いたようだ。
「こりゃ、大変だ。あなたもすぐに休んで下さい。
おい!そこの若いの!この方を隣の部屋に」
ゼンの道案内で付いてきていた若い男が、老人に指さされた。男は一瞬、躊躇った。一つは、ゼンを信じてもいいのか。もう一つは、自分が指名されたことに。
「早くせい!」
老人のお叱りを受けて、男はようやく動く。ゼンに肩を貸す。
「す、すまん」
ゼンの掻き消えそうな声で感謝の言葉を言う。
男の想像以上に、ゼンの体は重かった。ゼンの体重に加え、武器の重さ物しか買っているのだ。重くて当然である。それを見た老人も力を貸し、二人がかりでゼンは部屋へと運ばれた。ゼンは直ぐにベッドに寝かされた。
「すまんが、止血をやってくれ。でかい傷が背中にあるんだ」
ゼンの上着は脱がされ、俯せ状態になった。背中には血が大量に滲んだ包帯が巻かれていた。
「こりゃ、酷い……」
手当に来た老婆が呟いた。背中の傷以外にも、大量の傷跡があり老夫婦にとっては刺激の強いものであった。
老夫婦がゼンの傷を手当をしている一方で、若い男は何もせずにただ部屋の隅っこにいた。自分が何をしていいのかわからずに、視線だけ左へ右へと動いている。
「お湯!」
「へっ?」
「さっさと動く!お湯!」
男は老人に引き続き、老婆にまでキツイ言葉を食らった。それでも、黙って言うことを聞く。ゼンの事を信じたわけではないが、この状況では指示に従うしかなかった。
ゼンの治療が終わったのは、それからしばらくしてからの頃である。ゼンは疲労から、すぐに眠ってしまった。




