十七話 其の八
「ハッ、ハッ」
ゼンはまだ走っていた。走ることを止めれば、そこに待っているのは死だ。心臓からは彼自身の心臓の鼓動が聞こえてくる。足が止まる前に、何としてもある場所に逃げ込まねば。その僅かな希望を抱き、彼は全力で疾走する。
「見えたっ!」
ゼンの視界の先に見えたのは、彼がこの村での大半を過ごしたあの家だ。結論だけを言えば、彼は元の場所に戻ったことになる。無論、何の策もなしに家の周りを回っただけではない。
彼の頭の中に浮かんだ策は決して最善の選択ではないが、この際四の五のいう余裕はない。
ゼンは扉を蹴飛ばすほどの勢いで家の中へと突入した。目指すべき場所は把握している。梁の上である。本来は、この上から投石を加え、落とし穴に嵌める予定だったのだ。それがまさかこんなことになるとは、だれも予想題していなかった。
ゼンは右足を思いっきり踏み込み、上に飛ぶ。何とか梁に右手が届いた。両手で柱を掴むと、一気に自身の体を引き上げる。
「ガァァァ」
ゼンが自身の体を引き上げるとほとんど同時に、モンスターの爪が振り下ろされた。ゼンの体に被害はなかったものの、彼の上着に大きな穴が開いてしまった。背中の部分が中央から切り裂かれ、通気性が格段に良くなっている。
「クソッ!
折角の一張羅を」
口を開きつつも、体は動かし続けている。梁に昇った後は、天井にある穴に向かって梁の上を移動する。
この先に、ゼンが探している物がある。最後の手段にと置いていた秘策が。
未だモンスターは火に焼かれつつも、死んではいない。ゼンを最後の獲物に定めてからは、彼だけを追い続けている。勢いだけならば火に包まれる前よりも増していた。
「これで終いだ」
ゼンが手にしていたのは松明であった。モンスターを仕留めきれなかった場合に用意していた別の松明である。彼は手にした松明を下に落とした。
松明は家の床に落下し、そこから火が広がる。火の勢いが更に増した。元々、モンスターが家屋に浸入してきた時点で、家に火が回り始めていた。そこに追加の火種を追加したことで、火の勢いは止められないほどになっている。
最早、床の辺りは火の海になっている。モンスターの姿も視認が難しくなっていた。
ゼンは松明を落とした時点で、移動を開始していた。モンスターの最後を見届ける時間は彼にはない。もたもたしていると、煙が上昇し彼自身が焼死体となってしまう。
エアから聞いていた天井に開いている穴を見つけ出し、何とか天井まで上り詰めた。既に家屋はほとんどが火に包まれている。下から上昇してくる熱気だけでも勢いの強さがうかがい知れる。天井から地上まではそれなりの高さがある。そのまま飛び降りれば、骨の一本だけでは済まないだろう。
「悩んでいる時間はないか」
ゼンは助走をつけ、屋根から飛んだ。距離はあるが、決して飛べない距離ではない。助走も付けた。
唯一、彼が計算違いをしていたのは、屋根の脆さであった。天井に穴が開いていたことから、他の部分も損傷していても不思議ではない。もっと時間があれば、損傷個所も調べることができたのだが、時は既に遅かった。
「がっ」
ゼンが飛ぶ直前、右足の瓦が崩れた。彼は姿勢を崩すことはなかったが、跳躍には大きな影響が出た。右足が沈み、彼が想定していた以上に、飛ぶことができなかった。
「まずい」
ゼンは別の屋根へと飛び移れなかった。彼の体は目指していた家の壁に激突する。衝突時に何とか受け身はとったものの、衝撃は彼の体を走った。
ゼンはそのまま地上へと落ちていく。背中から地面に激突し、しばらく身動きがない。
「――あぁぁ」
まだ声は出る。意識も明確ではないが、確かに感じることができる。体も動かすことができる。ゼンは力を振り絞り、指の一本から動かし始めた。指が動けば次は腕を、腕が動けば足を。足が動けば、全身を少しずつ動かしてく。
「オイ、兄ちゃん大丈夫か?」
落下音を聞きつけ、村人が駆けつけてくる。大半の村人は燃えている家に釘付けになっていた。ゼンのことを気に掛けてくれたのは、極少数の者のみである。その中には、彼のことを気に掛けてくれていた男もいた。
「兄ちゃん」
「――急に動かさないでくれ。
体が、痛む」
ゼンが何とか捻りだした声は小さなものだった。
「何だって?」
「ゆっくり動かしてくれ。
余計に痛みが酷くなる」
「そいつは悪かった。
ほら、肩を貸すから」
「すまんな」
ゼンは男の肩を借り、ようやく立ち上がることができた。倒れていた時には気付かなかったが、痛みは全身に走っていた。背中に、腕に、脚に、唯一痛みを感じないのは顔面だけである。
「兄ちゃんが、アレをやったのか?」
男の視線の先には、燃え盛っている家がある。
「ああ、悪いな。
結局、これしか手段がなかったんだ」
「それよりも、兄ちゃんの体は大丈夫なのか?何かすごい音が聞こえただけで、何が起こったんだ?」
「俺が屋根から落ちただけだ。
モンスターはまだあの中か?」
「えっ!あの中にモンスターがいるのか」
「ああ。落とし穴には掛かってくれたんだがな、地上に戻ってきやがった。
なす術がなくて、あの家と一緒に燃えてもらっている」
さしものモンスターといえども、あの炎の壁を突破することはできないようだ。そもそもまだ中で生きているのかすら、今となっては確認できない。
中にモンスターがいることを知らずに、家の周りにいる村民たちは消火活動に取り掛かっている。
「俺はそのことをみんなに伝えてくる」
ゼンの下に来てくれた内の一人が、彼の下から離れて行く。必死に消火した後にモンスターが出現しては元も子もない。幸いにも、燃えている家に隣接している建物はなかった。延焼する可能性は低いだろう。
仮に火の粉が他の家に移っても、村日が総出で消火すれば被害が出る前に収めることもできる。
「これで終わったのか?」
「恐らくな……」
闇夜を照らす月も隠れていたが、この瞬間に至っては月光も必要ないほどに明るかった。
その光源を、村人はただただ見つめていた。その光源が消えるまで。
翌朝を迎え、村の中には燃え尽きた一軒家が残っていた。僅かに残った柱も黒く炭化している。ほんの僅かでも力を入れれば、折れてしまいそうな程だ。
「そっちはどうだ」
「こっちも駄目だ」
「家と一緒に燃え尽きたんじゃないか」
村人たちは夜を寝ずに過ごした。村人たちの目の下にはクマができている。目も充血しており、眠たそうな表情をしていた。
「いた……」
燃え尽きた家の中にゼンもいた。体の痛みは随分とマシになっている。むしろ、体を動かしている方が痛みを感じずに過ごせていた。そのことに気付いてからというもの、できる限り動き続けることにしている。
ゼンは燃焼した家の中で、あのモンスターの死骸を探していた。あの火の中から生還したとは到底思っていないが、死骸を見つけるまでは確信できない。
ゼンが探しあてた遺体は、灰の下に埋もれていた。灰の上には黒焦げた柱の燃え殻が残っていたため、探し当てるのにも苦労した。
探し当てた遺体は全身が黒化している。毛皮を加工しようにも、触れた途端に崩れそうな予感がした。恐らくだが、このモンスターは最後の力を振り絞り、逃げ出そうとしたのかもしれない。そこに、燃え落ちた柱が直撃し、力尽きた、のかもしれない。事実はわからないが、このモンスターが息絶えたことだけは確実だ。
「ふーー」
ゼンは大きく息を吸い、吐き出す。ひとまずは、一安心できる状況になった。これで夜もぐっすりと眠ることができる。彼はその場から立ち上がり、体を伸ばす。
安心したせいか、今まで我慢していた疲労がゼンの体にのしかかってきた。それと同時に、眠気も彼を襲う。終いには、腹が鳴っている。
他の村人も同じような感じだ。ようやく悪夢が終わったのだ。自然と皆の顔も緩んでいる。
「よし!片付けも程ほどにして休もう。
あのモンスターも死んだんだ。ようやく家族を呼び戻せるぞ」
まだモンスターの死体を目にしたのはゼンだけであった。他の村人はその目で事実を確認はしていないが、既にモンスターの死を信じ切っている。
「家族を呼び戻す前に、宴だ!
飲むぞ!」
その一言に、村人は大歓声を上げた。ゼンがこの村に来てから、初めて聞くほどの大歓声だ。今まで眠たそうな顔をしていた村人が、一気に顔色を変えた。隣の村人と肩を組みあい、喜びを分かち合っている。
まだ問題は残っている。モンスターの死骸、焼け落ちた家の後処理、更には犠牲者の埋葬も残っている。火葬は予期せぬ形で済んでいるため、心配することはない。むしろ心配するべきは、犠牲者が判別の付く形で残っているか、ということだ。
だが、今は誰の頭にもその心配事はなかった。誰もが“宴”という言葉に酔いしれている。
そんな空気の中で、わざわざ残っている問題に言及する気力を、ゼンは持ち合わせていなかった。彼自身もかなりの疲労感を感じている。なにせ、昨晩はモンスターと命懸けの鬼ごっこを繰り広げたのだ。加えて、家の屋上付近から落下した痛みも残っている。
今、ゼンが行うべきは休息だ。それは空になった胃袋を食べ物で満たすことであり、瞳を閉じ睡眠を取ることである。
「何か手伝うことはあるか?」
ゼンはその場にいた村人を捕まえた。
「いや、兄ちゃんは休んでてくれ。
この村を救ってくれた人に、手伝いなんてさせられねえよ。
それに、体は大丈夫なのか?聞いたぞ。昨日、屋根から落っこちたって。
大人しく休んでいてくれ。寝ていたって、誰も文句なんて言わねえさ」
どうやら、昨晩のゼンの醜態は既に広がっているようだ。この分では、何を言っても手伝いはさせてもらえないだろう。
「じゃあ、大人しく休ませてもらうよ。
何処で休んでおけばいい?」
「そうだな……。
ここは焼けちまったしな。
オラの家で休んでいてくれ。家はこの道を真っすぐ行った所にある」
村人は指で自身の家の方角を指す。
「あの、玄関に鋤が立てかけている家か?」
「兄ちゃん、目がいいな。
そうだ。何もない小さな家だが、我慢してくれ」
「寝る場所があるだけで幸せなもんだ。
それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ」
「ああ。ゆっくり休んでくれ」
ゼンは男の家に向かう。彼自身が寝不足であることを一番自覚している。今まではするべきことがあった緊張感から眠気をある程度無視できていた。しかし、するべきこともなくなった今、彼の眠気を遮る物はない。
ゼンは家に着くなり、装備を外すと、すぐに眠りに入ってしまった。




