十七話 其の七
「ほら、たんと食え。
おい、そこ!横入りするんじゃんねえ。心配しなくても人数分あるから大人しく並んでいろ」
出来得る限りの準備を終えた後、村人たちは腹ごなしの時間を迎えていた。場合によってはこれが人生における最後の晩餐になるかもしれない。
そのことを誰もが口には出していないが、頭の中では理解していた。そのため振舞われる食事も、普段よりも量が多く、材料も豊富である。
配給を待つ列もいつも以上に長蛇の列ができていた。中には順番を無視する者もいる。
ゼンは大人しく最後尾に並んでいた。下手に前の方に並ぶと、下手な恨みを買うかもしれないからである。
「兄ちゃんで最後か。
しっかりと食ってくれ」
ゼンの杯に盛られた料理は最後の一杯ということもあり、他の者と比べると少し量が少なかった。中に入っている具材も端や小ぶりなものが多い。
「悪いな。
最後の一杯だから量も具材も半端になっちまって」
「なに、食い過ぎたら動けなくなるからな。
これ位で丁度いいさ」
ゼンは差し出された杯を受け取ると、定位置に戻る。そして一口、一口をゆっくりと丁寧に味わう様にして食事を終えた。
夜も更け、すっかりと周辺は暗くなってしまっている。今まであれば、見張りの当番以外の者は寝ていたが、この日は全員が起きていた。
といっても、この家屋に残っているのはゼンを含め五人だけである。その他大勢の村人は安全のために同じ村ではあるが、遠く離れた場所に隠れていた。
人手が多くなればその分だけ投擲できる量も増えるが、モンスターの犠牲になる可能性も増す。それに加え、ゼン達が隠れている家屋の問題もある。十何人もが梁や上に隠れた場合、モンスターよりも家屋の方が先に倒壊する恐れがあった。そんなことになれば、笑い話では済まない。そのため足の速い五人だけを残したのだ。
五人だけの家屋でゼンは目を瞑ってはいたが、警戒を緩めることはなかった。視覚を遮断している分、他の感覚を研ぎ澄ませ、モンスターの襲来に備えている。
ゼンの感覚が刺激された。昨晩と同じ感覚だ。肌を突き刺す様な刺激が彼の体に訪れる。
「来たか……」
ゼンは目を開け、刀を腰に差す。
「どうした?」
「何か感じたのか」
「ああ。
もうじき来るな。急いで、定位置に付いた方がいいぞ」
準備は完璧とはいえないが、出来得る限りのことはしたはずだ。投擲用の石や破片も投げ切れるかどうかという量がある。大きさも両手で投げる物から、片手で複数個投げることのできる物まであった。
「皆、急いで上にぼれ」
「来るのか?」
「来るらしいぞ」
今までの静寂が嘘の様に、周囲が騒々しくなる。突然の事態に何をすればよいかわからずに、その場に留まっている者もいた。
「こっちだ、こっち」
「よし、昇れ」
ゼンを除き、残る四人が上に昇った。
「よし、兄ちゃんで最後だ。
手を伸ばせ」
「いや、どうやら手遅れだ。
俺には当てるなよ」
ゼンは伸ばされた手を取ることはなかった。背後から気配を感じる。今にでも彼に襲い掛かってきそうな気配を隠そうともしない。完全に彼を餌と見なしている。
ゼンは振り返ることもなく、走り出した。長距離走になれば彼が逃げ切れることはできない。逃げ切る前に彼の体力が底を付いてしまう。短距離でも結末は同じだ。二本足と四本足では、圧倒的に彼の方が不利だ。
ゼンに今できることは、モンスターとの間にあった距離を少しでも保つことだ。長時間は知る必要はない。モンスターを穴に落とす、その僅かな距離だけ逃げ切ればいいのだ。
言うは易しだが、行うは難しだ。僅かな遅れが死に直結する。一秒たりとも気を抜くことはできない。今のゼンには、後ろを振り向く余裕すらない。
今はただ、前に走るだけである。相手の爪が当たらない様に少しでも、僅かな距離だろうが進むだけだ。
「今だっ!」
ゼンは滑り込むようにして前に飛んだ。彼の両足が地から離れ、モンスターが爪を振るった。幸い、爪は彼の肉体を裂くまでには至らなかった。爪の犠牲となったのは、彼の服と薄皮一枚だけに収まった。
「ガァァァアア」
ゼンは胴体から地面に着地した。何とか受け身はとったものの、体に衝撃が加わり、少し遅れてから痛みが走ってくる。俯せの状態のまま、彼は恐る恐る首だけを後ろ回す。
「ァォァオアォァ」
ゼンの目にあの恐ろしいモンスターの姿はなかった。ただ、モンスターの雄叫びだけが響いていた。
「――助かったか」
ゼンは体を回転させ、仰向けの状態になる。
「っ!」
あおむけの状態になり、初めてゼンは背中に傷があるのを知った。薄皮一枚に傷が付いただけだが、傷に石が引っ掛かり痛みが増幅されている。この程度の傷であれば、傷跡にもならないだろう。これ以上、傷を負わなければの話にはなるが。
「痛ってえな」
「兄ちゃん、大丈夫か」
ゼンから遅れて、残りの村人たちが彼の下に集まってきた。
「背中はどうなってる?
悪いが見てくれ」
「背中……は、大丈夫だ。
傷こそあるが、深くはねえ」
「そいつは何よりだ」
ゼンはゆっくりと落とし穴の方へ向かう。まだ穴の中からは雄叫びが聞こえてくる。
「そ、そうだ。
あのモンスターは」
穴の奥深くにモンスターはいた。まだ生きている。周りが暗いせいで正確には見えないが、確かに傷は負っている。僅かに血の匂いがした。
「おい、誰か!
光源を、火を持って来てくれ」
「ちょっと待っていろ。すぐ持って来る」
その言葉の少し後、一人の男が松明を持って来た。この時になって初めてゼンはモンスターの正確な姿を目にする。
穴の中にいたモンスターは顔が真っ赤に濡れていた。モンスター自身の血によって体毛が赤く染まっていたのだ。
改めてモンスターの全貌を見たことにより、村人は恐怖する。今、自分たちが対峙している相手の恐ろしさを目の当たりにしたのだ。本当に殺せるのか、そんな考えが脳裏に浮かぶ。
「や、やるぞ」
松明を持っている手が震えている。
「よし、投げるぞ」
未だに雄叫びは止んでいない。今のままでは命ある限り叫び続けるだろう。
村人の手から松明が離れた。火の光は穴の中へと落ちていく。
「ァアアアァァォォオ」
雄叫びの代わりに悲鳴が聞こえた。それと同時に、鼻に付く嫌な匂いが漂ってくる。
「酷い匂いだ」
「流石にキツくなってきた」
村人たちが顔をそむける中で、ゼン一人が穴の中のモンスターをじっと凝視していた。何をするでもない、ただ絶命する姿を凝視しているだけだ。
ゼンの経験上、死にかけの状態というのがモンスターも人間も一番恐ろしいのだ。火事場の馬鹿力とでもいうべきものを彼は何度も経験してきた。死にたくないという生物に共通するその欲求が、時には恐るべき事態を引き起こすことになり得るのだ。
「ガォァッァアッォ」
「オイッ、後ろに下がれ!」
油断していた、それ以外に表現の仕様がなかった。罠に落ち、全身火だるまの状態から反撃に移るとは、予想だにしていなかった。それはゼン以外の人間も同じである。
「えっ」
「どうし」
モンスターの爪が、男の腹を貫通した。
「そ、そん」
腹を刺された男は後ろに倒れていく。男の後ろには、落とし穴がある。男は自分達が掘った穴へと落ちていく。否、落とされたといった方が適切だ。
モンスターは男を同じ穴の中へと引きずり落とす。その反動を利用し、自身は地上へと舞い戻ってきた。
「そんな……」
「クソッ」
事態は一気に最悪な方へと転がっていく。今まで優勢に立っていたはずのゼンたちが、劣勢に立たされている。ただでさえモンスターと戦うのは避けたい所なのに、今のモンスターは全身が火で覆われている。
これでは戦うどころの話ではない。接触することすら今の状態では無理だ。今はただ逃げ回るだけしかない。あのモンスターの命が尽きるまで。自分が死ぬか、相手が死ぬかの鬼ごっこだ。
「ど、どうするんだ?」
「逃げるしかねえだろ。こんなの、倒すどころか触れることすら無理だぜ」
「それぞれ別の方向に逃げるぞ!」
声を上げたのはゼンである。この状況下ではそれしか選択肢はない。逃げつつ、相手の命が尽きるのを待つ。後は後ろからモンスターが追って来ないのを祈るのみだ。
ゼンの声で、他の村人も正気を取り戻した。
“逃げる”という言葉に村人は反応したのである。その言葉を聞き、各自一目散に逃げ始めた。事前に打ち合わせもしていないのに、逃げ道も重ならずに分散できた。
一番最後に逃げ始めたのはゼンである。彼は声を上げた後、クロスボウを構え始めていたのだ。狙いは付けなくとも、十分すぎる程に目立っている。
ボルトを一発、続けて二発目を発射する。通常のボルトでは効果があるのかが一目では判別できない。元の状態でも十分傷ついているためそう見えるのか。
仮に落とし穴に落ちずに火だるまになっていなかったとしても、只のボルトでは大した傷も与えられないだろうが。
モンスターに傷を与えられたかは不明だが、少なくとも敵意をゼンに向けることには成功した。
ゼンは自身に標的が固定されたことを肌で感じ取った。すぐさま、クロスボウを元の場所に戻し、背を向けて走り出す。ただ逃げ回るだけではすぐさま追いつかれる。平面上では逃げ場はない。逃げるならば相手の手が届かない上の方だ。
ゼンは可能な限り幅が広い道を選んで逃げていた。逃げるというだけであれば、あの巨体が通ることのできない狭い道を選ぶのが最善だ。
あのモンスターが素の状態であれば、ゼンは間違いなくその選択を選んでいた。しかし、今は訳が違う。何せ、今彼が対峙しているのはただのモンスターではないのだ。全身が火だるま状態なのである。
下手に狭い道を選べば、隣接する家屋に引火する恐れがある。一軒でも引火すれば、被害は一軒だけは済まない。
今はただただ走るだけだ。一刻でも早くあのモンスターが絶命することを祈るのみだ。敢えて広い道を選びながら走るというのも、中々の苦行だ。あの狭い家の中で無為に過ごしていた時間を、街中の観察に費やせば良かったと後悔する暇もない。
ゼン自身の心臓の鼓動がハッキリと分かる。それと同時に、背後から迫ってくる音の正体も。
「ハッ、ハッ」
一体いつまで走り続ければいいのか、徐々にゼンの息も切れ始めている。このまま走り続けられるわけではない。この状態を打破する、何か策が必要だ。しかし、今の彼にはその策を考える時間も余裕もない。
今の彼にできるのは、ただ体を動かすことだけだ。余計な思考を巡らせずに、ただただ足を手を動かす。
徐々にゼンの耳に入ってくる足音が大きくなってきた。後ろを振り向かずとも、現状は把握できる。このままでは、ゼンも犠牲者の一人に加わってしまう。




