四話 其の四
「ハァ、ハァ、ハァ」
海面から出てきたのは、ゼンであった。
「ゼン!」
エアは安堵する。出てきたのがゼンで本当に良かった。もし、出てきたのがゼンを襲った奴なら、エアはどうなっていただろうか。
「ハ~~、ハ~~」
ゼンの息は切れていた。海中に落ちた際、頭から落ちたことにより、海水を飲んでしまった。それに加え、思った以上に沈み、浮き上がるまでに時間がかかってしまったのだ。
呼吸を整えつつ、ゼンは船に上がる。船に上がったのち、ゼンは転ぶようにして、仰向けになる。腹が大きく膨らんだり、へこんだりしている。
「はー、はー」
「ゼン、傷は大丈夫!?」
「あ、ああ。肩の方は大丈夫だ。血袋だからな。魚の内臓を使った即席だったが、うまくいった」
ゼンの呼吸が落ち着き始めた。ゼンも立ち上がり、周囲を見渡す。先程の敵はどうなったのか。船の上には、ゼンが切った腕が横たわっている。
海面の一部に水泡が出現した。ゼンはそれを見ると、直ぐに迎撃態勢を取る。刀を構え、すぐに一撃を加えられるように。
何かは海面に浮上してきた後、ゼンに向かって飛んだ。だが、先程と比べ、その速度は著しく落ちている。ゼンは落ち着いて、相手の攻撃をかわし、一太刀を入れる。
今度は、ゼンの眼で相手の姿を捉えることができた。相手は、上半身は人型だが、下半身は大きなヒレを持っている。顔は人間と同じく、目・鼻・口・耳がある。耳は上向きに尖っており、口からは鋭い牙が見えた。体は固い鱗で覆われ、薄い緑色の皮膚であった。左腕はあるべき所になく、血だけが流れている。
モンスターはゼンの攻撃を受け、再び海中に落ちた。大きな物音と飛沫と共に海底へ沈んでいった。
「終わったの?」
エアが問いかける。
「いや、まだだ」
静かにゼンが答えた。それと同時に、再びモンスターが浮上してきた。今回は、一直線に飛んでくるのではなく、船の周りを泳いでいる。何周も何周も、モンスターは泳いだ。左腕から流れている血は、船の周りに大きな円を作った。
モンスターが三度、ゼンに向かって飛んできた。今度は大きく宙に跳び、半円の軌跡を描こうとしている。ゼンは、手元にある銛を、相手に向かって突き刺した。半円の軌跡の中央で、ゼンは銛を空高く掲げる。銛はモンスターの腹深くに刺さった。モンスターは必死に残った右手でゼンに襲い掛かろうとしている。
「シャァァァァ、コロス、コロス、コロス」
モンスターはまだあきらめていなかった。その眼は、ゼンを捉え続けていた。ゼンも相手の眼を見続けている。突然、モンスターの右腕がゼンの顔近くを掠った。
「うぉ」
腹に刺さっていた銛は、モンスターが動いたことで抜けていた。銛が刺さっていた所からは、左腕と同様、血が流れている。攻撃はゼンには当たらなかったものの、姿勢を崩すには十分だった。モンスターは、また海の中へと帰って行く。
趨勢は再び、以前の状況に戻った。だが、ゼンの方に勝利の女神は寄り添っている。
「まだやるか」
姿勢を戻したゼンに、モンスターは眼前から襲い掛かってきた。今度は、一直線に、ゼンめがけて飛んできた。流石のゼンも反撃に移ることはできなかった。寝転ぶようにして回避するだけで精一杯だった。
「マダダァァァ」
モンスターがゼンの背後から飛んできた。ゼンは右手に刀を持ちつつ、左手で銛の山を叩いた。叩かれた銛の数本は宙に浮かぶ。ゼンはそのうちの一本を手に取り、背後に向かって銛を突き刺した。
ズブリ、という感触がゼンの手に渡った。
「アアアア」
銛は、モンスターの体を貫いた。銛からは、赤い血が滴れている。
モンスターは、自身の右腕がまだゼンに届くと思っているのか、何度も動かしている。だが、その右腕はゼンに届くことはない。
「もういいでしょう!」
突如、エアが叫んだ。
「ゼンも、君も、もう決着はついたでしょ!もう、もういいでしょう」
エアは今にも泣きそうな声で叫んだ。
「まだだ、まだ終わっちゃいない。こいつが、まだ生きている限りは。」
「ソウダ。ヨケイナクチヲハサムナ。マダ、オワッテイナイ。カゾクノカタキヲ……」
ゼンは、右手の刀を置いた。両手で銛を持ち直し、持ち上げる。
「ガァァアアア」
ゼンは高く持ち上げた銛を海に向かって投げた。モンスターは槍と共に海中に落ちた。
「ゼン!相手はもう……」
エアはもう、あのモンスターが助からないことを悟った。人間ではない、モンスターとして、同胞が傷つく姿を見るのはエアにとって苦痛であった。
「黙っていろ」
ゼンはゆっくりと呼吸をし、刀を拾う。刀を鞘に納めると、居合の構えを取った。目を閉じ、視覚以外の全ての感覚を集中させる。
決着の時は近い。モンスターにはあと一撃しか繰り出す猶予は残っていない。その一撃でゼンの命を刈り取るか、自身の命が刈り取られるか。エアは固唾をのんで、その決着を見定めている。
「シャァァァァァァァ」
モンスターは、ゼンの眼前から現れた。一直線にゼンめがけて、残った右腕を前に突き出す。ゼンは一歩も動かず、その場に立ったままだ。
鮮血が宙に舞った。血は、船の上と海面に降り注いだ。それと同時に、モンスターが海中に落ちていく。今度は浮き上がる様子もなく、海底へと沈んでいく。
「終わったの?」
「ああ、終わった。帰るぞ」
ゼンは、刀を鞘に納めつつそう言った。エアは何も言わず、船に戻ってきた。
ゼンはオールを用い、北方向へと舵を取る。船を操舵している間、二人の間に会話はなかった。ただ、波音だけが耳に入ってくる。
「ねえ、」
最初に口を開いたのは、エアであった。
「さっきの奴、家族の仇とか言ってたけど」
「それがどうした?」
「それがって、可哀想とか悲惨とか、そういう感想はないの」
「ないな」
ゼンはそう言い切った。
「アイツに何があっても俺には関係ない。例え、俺が事情を知っていても、同じ結果になっただろうよ」
「何で、そう言い切るの?
もしかしたら、戦わずに済む結末もあったかもしれないじゃない!何でそう、すぐに戦うの?」
エアは大声で、涙ぐみながら言う。
「俺がそれしか知らんからだ。確かにお前の言う通り、戦わずに済む方法もあったかもしれん。
だが、俺はそこまで持って行く術を知らん。千の言葉より、一回の手合わせの方が俺には合っている」
ゼンがそう言ってから、両者の間に会話は無くなった。次に、会話が出てきたのは、ゼンたちが発った村が見えてからであった。
「そろそろ、いつもの所に戻っておけ」
エアは何も言うことなく、ゼンの指示に従う。ゼンたちが村に着いたのは、海面に月が出てくる頃であった。
村人たちは、夜ということもあり、それぞれの家に戻っていた。砂浜で待っていたのは、村長とナヲンだけであった。
「これで、いいですか?」
ゼンは自らが斬ったモンスターの手を、二人の前に差し出した。
「お、おおお、」
村長は言葉が出ないようだ。膝をついて、両手で斬り取った腕を持っている。体を震わせ、今にも泣きそうだ。
ゼンはその姿を見ると、黙ってナヲンの家に向かう。
「待ってください!っ、」
ナヲンがゼンの背中の傷に気付いた。背中一杯に広がる血の染みに気付いたナヲンは、手を口元にあてる。ナヲンからすれば、ゼンが今どうやって立っているのか見当もつかない。
急に、ナヲンは目の前の人物が、恐ろしくなった。
「すぐにこの村から出ます。いろいろとお世話になりました」
ゼンはそう言うと、再び足を進める。振り向きもせず、ただただ砂浜に足跡だけが増えていく。
「待って!」
ナヲンが叫んだ。叫び声は夜の砂浜に、虚しく響く。
「あなたは、私達のために、何でここまで?そんな大怪我までして」
ゼンはゆっくりと振り返る。
「ただの気まぐれですよ」
何事もなかったかのようにゼンは言った。
「ここまでしてくれたのですから、せめて一泊だけでも……。いえ、ずっとこの村にいてくれても」
ナヲンがそう言い切る前に、ゼンは上着を脱ぎ始めた。ナヲンが見たのは、傷だらけの上半身であった。背中の新しい傷は勿論、それ以外にも至る所に傷がある。
切り傷の跡や縫合の跡など、綺麗な箇所を探す方が難しい位だった。胸や腕の筋肉も発達しており、それが傷を余計に目立たせる。
「ハッ」
ナヲンは信じられないようなものを見た目をしていた。口は開いたままで、手もぶらりと下がっている。何も言えない状態で、少しの時がった。
「俺の居場所は、ここにはないんですよ」
ゼンはそう言うと、ナヲンの前から姿を消した。村の中に入っていっても、ゼンは一人だった。村の家々は光が点いている家もあったが、大半は消灯していた。
ナヲンの家まで来たゼンは、セロの方に向かう。セロにかけている袋の一つに手を突っ込み、ゼンは何かを取り出した。
ゼンが取り出したのは、包帯だった。
「ッ」
痛みに耐えながら、ゼンは包帯を体に力強く巻いた。白い包帯は、すぐに赤く染まったが、染みは一部だけで止まった。
ゼンはいつもの服装に戻り、セロの下に立った。
「夜中すまんが、また歩いてもらうぞ」
セロの眼は半開きであった。それでも、立ち上がりゼンの方を見る。
「じゃあ、行くか」
ゼンたちはゆっくりと歩き始めた。光のない闇の方へと、その後を追ってくるものは誰もいなかった。




