プロローグ
「いい、あなたはここに隠れて居なさい」
女性が子供に向かって強く言う。子供の肩に両手に乗せ、その眼からは強い意志が感じられる。
子供は馬車の奥深くにいた。何が起こったのか理解できない状況だ。涙ぐんだ目で目の前の女性、母親を見つめている。
「生きなさい、ゼン」
そう言うと女性はゼン、と呼ばれた子供の眼前から消えた。
ゼンは暗い馬車の奥隅で足をガクガク震わせている。耳を両手でふさぎ、体を丸めた。
見たくない、聞きたくない。先程の母親の発言で、子どもながらでも今後どうなるかは予想できた。
その予想は裏切らない。全力で耳を塞いでも、外からは声が聞こえた。
悲鳴と歓声が入り混じった音がゼンの耳に入る。
しばらくすると、悲鳴の音は聞こえなくなっていた。逆に歓声の声は大きくなる一方だ。
「オイ、これで全部か?」
「ヘイ。生きている奴は全員、旅立ちました」
「そうか、じゃあ行くぞ!」
外にいる山賊たちはキャラバンから奪取した物品を両手一杯に抱え歩き始める。
「ありがとよ!」
山賊の一人が馬車に蹴りを入れる。賊の襲撃で横倒しになっていた馬車から予想外の音が鳴る。
「ウワッ」
ゼンの声が漏れた。
「オイ、どういうことだ?」
「ま、まだ生き残りがいい多様です」
下っ端の一人が驚きつつも返答する。
賊たちがゼンのいる馬車を取り囲んだ。下っ端が馬車の奥に入り込む。
「ウッ!ううう……」
ゼンは乱暴に投げ捨てられ、外に放り出された。そこでゼンが見たものは、今まで寝食を共にしてきたキャラバン隊の無残な死体だった。
ある者は胸から血を出し、ある者は首から。中には血と涙が一緒くたになっている者もいた。緑の映える草原の一部が血まみれになっている。
視覚に加え嗅覚にも衝撃が走った。地の鉄臭い、独特の匂いがゼンの鼻腔を刺激する。
ゼンが口から食べたものを吐き出した。こんなにも食べたか、そう思う程の量が胃から逆流してくる。
「汚いな!」
ゼンの近くにいた賊が、腹を蹴り上げる。
ゼンの体は再び空を飛んだ。
「っぁあぁ」
腹を蹴り上げられたゼンは吹っ飛び、飛んだ先にはキャラバンの仲間がいた。
先程まで生きていた人間が今は人形のようになっている。
最早、ゼンを褒めてくれる者も叱ってくれる者もいなくなっていた。ゼンの周りにいるのは、命を狙う賊だ。
「ヘッヘッヘ」
賊の一人が、ゼンの髪を掴みその体を持ち上げた。
「ッァァァァ……」
ゼンの叫び声を聞き、賊たちは一斉に笑い始める。三度、ゼンはゴミの様に投げ捨てられた。
「あああ、」
宙を舞った後のゼンの目に飛び込んできたのは両親の変わり果てた姿だった。
あの優しい母親は乳房をさらけ出し、下の衣服も引き裂かれていた。服は上下ともに真っ赤に染まっている。母親は口を開け、その眼は虚空を見つめていた。
父親は母親以上に凄惨な状態だった。いつもゼンを見下ろしていた大きな体が、今はゼンがその大きな体を見下ろしている。体中に歪な穴が開き、そこから血が湧いて出ていた。その他にも至る所に傷口があり、綺麗に残っている部位の方が少なかった。
「えせ、返せよ!父さんと母さんを」
ゼンは立ち上がり、賊に向かって一心不乱に走り出す。
ゼンの突進を賊は易々と避け、足を引っかける。勢い余ったゼンはそのまま血のしみ込んだ草原に倒れこんだ。そのまま頭を誰かに踏みつけられ、身動きができなくなっている。
口の中に苦いものが入り込んでくる。この際、ゼンにとってそんなことはどうでもよかった。ただ、自身の無力さに打ちひしがれていた。
その憤懣は涙となり、ゼンの頬を流れて行く。
「じゃあな」
ゼンの頭を踏みつけていた賊が血まみれの剣を抜いた。剣に付着していた血は、ゼンの体に落ちていく。
「ウッ、ウッ」
ゼンは体を必死に動かそうとするものの、その努力は叶わなかった。頭上からは血と嘲笑だけが降り注ぐ。
もう、駄目だ……、ゼンはそう思った。どうせここを生き残っても、もう自分には誰もいない。ゼンは抵抗するのを諦め、自分の死を受け入れた。
自身の死を受け入れたゼンだが、一向に自分の命は絶たれない。それに今までゼンの頭を押さえていた重みが、気付けば消えていた。
ズダン。
賊の一人が倒れた。ゼンの頭に足を載せていたのは、今、倒れた奴だったのだ。解放されたゼンが振り返ると、そこにいたのは一人の男であった。
男は刀を抜いている。顔には無精ひげがあり、黒髪の中に白いものが混ざっていた。服装も綺麗とはお世辞にも言えず、一目見ただけでは山賊と区別がつかない、そんな野性味のある男だった。
「テメエ、何だ!」
そう言った賊は次の瞬間には膝から崩れ落ちていた。喉元がパックリ開いて、そこから赤いものがドクドクと滴り落ちている。
賊が口を開く前に男は動き出す。先程まで笑っていた賊たちは数を減らしていき、次第には片手で数えられるほどになった。それに伴い、表情も険しいものになってくる。ついさっきまで、一人の子供の命を笑いながら消し去ろうとしていた者たちが、今では自身の命が危うくなってきているのだ。
一人、一人と賊はキャラバン隊と同じように地に伏していく。草原がさらに赤く染まっていく。
その動きや景色を、口を閉じるのも忘れ、ゼンは見ていた。状況が二転三転して、ゼンはそれに対応できなかった。しかし、目の前で繰り広げられている光景から目を離すことができない。
「ビビるなお前ら!相手はたった一人だ。囲んでやっちまえ!」
狼狽していた賊たちが頭領の声で統制を取り戻す。賊たちは指示通りに、男の四方を囲った。
男は四方を囲まれ不利な状況なのに、落ち着いている。あれだけ動いたというのに、息も切れていない。
「野郎……」
そのあまりの落ち着きっぷりに仲間を殺された賊は顔を真っ赤にしている。剣先を震わせ、今にも襲い掛かりそうな雰囲気だ。
一方で、怒りとは逆に男に対し恐れを抱いている者もいた。目は泳ぎ、額からはねっとりとした汗が流れている。顔も青ざめていた。
賊の頭領が目を配る。それに気づいた配下は決意を固めた。
「うおおぉぉ」
四方から賊が男に襲い掛かった。男は手に持っている刃を横に一振りする。
男の刃は眼前の敵には届かなかった。しかし、刃に付いていた血が相手の目に入る。
「うっ」
その一言に他の賊もその勢いを削がれた。その隙を男は逃がさなかった。
「フンッ」
振り返りざまに、男は刀を振り下ろす。男の後ろにいた頭領は縦に二分化するような赤い線を、その体に残し倒れた。
続けざまに右の相手に向かい一閃を放つ。男の攻撃は止まらない。もう一度、振り返る。その反動を利用して相手の体を袈裟に斬る。
目にもとまらぬ素早さで、三人の賊を倒した。賊は自分が斬られたことも分からないまま膝をついていった。
「野郎ううう!」
まだ視界が戻っていない残りの一人が剣を振り回す。その剣は誰の体を捉えることもなく、虚しく空を舞う。
残りの一人もようやく視界が戻ってきた。目の前には刀を構えている男が一人に、仲間だったものが三つ転がっている。
その光景を見て、賊は剣を捨てると背中を見せ一心不乱に逃げだす。
だが、それを見逃す男ではない。賊の背中に一太刀を入れると、賊は俯せに倒れた。
緑の草が生い茂る平野は、血の海と死体の山に変わり果てていた。
息をしているのは、山賊と区別のつかないような男一人と、小さな子供だけである。
ゼンは途中から今の状況を理解するのを忘れ、ただ座っていた。目の焦点は何処にも合わせておらず、口もあけたままだ。
パン。
鋭いビンタがゼンを現実に戻した。ゼンの右頬は赤くなっている。
「おい、お前。生きたいか?」
男がゼンに向かって尋ねる。
「このまま親の死体と一緒に死ぬか、俺についてきて生を全うするか、どっちがいい?」
「お、俺は……」
突然の質問にゼンは戸惑う。視線を左右に動かし、誰かに答えを求めようとした。
再び、男のビンタがゼンの左頬をぶつ。ゼンの小さな体はビンタで吹っ飛ばされた。
「お前が頼りにしていた連中は死んだ!これからはお前が、一人で、決断するんだ!さあ、どうする?」
ゼンの脳裏に母親の最後の言葉が浮かんだ。。“生きなさい、ゼン”、その言葉が何度も何度も体の中から聞こえたような気がした。
「俺は、生きたい!生きる、それが俺の決断だ」
両眼から涙を流し、叫ぶようにゼンは応えた。
「いい眼だ。じゃあ、この連中に最後のお別れをしな。行くぞ」
男はそう言って歩き始める。
ゼンには十分なお別れの時間も与えられなかった。涙を、鼻水を流す。
「サヨナラ」
そう小さく呟くと、ゼンは男の後を追った。