こもれびの
不思議な英雄がこの国に流れついて早一ヶ月。色々なことが試され、様々な事実が発覚した。
まず、この少年は大昔の英雄と同一人物ではないということ。普通に考えて当たり前のことである。彼はこの世界についてさっぱり知らなかった。服の着方も、果物の種類も。
ただし逆にそれらは異世界の住人であることの証明でもあった。この世界のどこにも存在しない言語……彼はニホンゴと言った……で、話し、どこにも存在しない国で育ち、大雨で反乱した川に流されて溺れたと思ったら、何故かこの国の浜に流れ着いていたのだという。結局、一度はざわついた国内だが、それもすぐ彼が『英雄の後継者』であるなんて言葉で片付けられた。何がなんでも彼には英雄でいてもらわなくてはならなかったということだ。
この一ヶ月、俺は必死で彼に言葉を教え、また俺自身も彼の言語を理解することを一番に過ごした。しかし彼の言語はあまりに複雑で、王子としての難しい教養を根を上げず勉強してきた俺でさえ知恵熱を出すようだった。
なんとか、簡易的、日常的なやりとりだけは出来るようになった。それはアキヨシが非常に意欲的で、気になることはなんでも熱心に聞いて、大袈裟な身ぶり手振りをしながら必死になって言語習得に努めてくれたからである。
彼にカリスマ性がないと言ったことを、俺は撤回しなければならない。彼はとても明るくて、周りを巻き込んでいつの間にか輪の中心で笑っているような、人に好かれる男だった。王宮を駆けずり回って誰にでも話しかけ、あれはなんだこれはなんだと質問する姿をよく見かけた。聞かれた方も、面倒なことにも関わらず、彼には嫌な顔一つ向けなかった。それは彼がいつも屈託のない笑顔でいることが関係していると思う。笑顔とは万物に優るコミュニケーションツールだ。
ある時は気難しいヒゲ大臣と、ある時は新入りの召使い達と。誰とでも同じようにアキヨシは接した。
それが彼が人を引き付ける所以なのだろう。
当初、すぐにでも戦地へ赴き兵の指揮を取ってもらいたいと考えていた父王であるが、彼がこの世界について右も左も分からぬと分かれば、しばらくは王宮で過ごすようにと配慮してくださった。何分、ためしにアキヨシに剣を握らせてみればド素人剥き出しの素振りで翌日は両腕を筋肉痛にしたのだから無理もない。
というか、こんな状態で彼を戦場に出したら死ぬ。十中八九、いや十中十死ぬ。父王の判断は配慮というよりは、飽きれと慈悲だったのかもしれない。
なんでもアキヨシの世界では剣を持って戦う時代は彼の親が生まれるより前に終わっており、今は多少不穏な国際関係はあれども比較的平和な生活が続いているのだと言う。にわかには信じがたい。
かの世界ではそれで良くとも、この世界では剣を扱えないと困る。いざというとき頼りになるのは自分だけだ。剣は覚えてもらわなくてはならぬと、俺から一緒に稽古をつけないかと誘ったところ、彼はまたこれにも積極的に取り組んでくれた。
運動神経が良く、スポンジのように教えられたことを吸収していくその早さと言ったら恐ろしいまでだった。剣には沢山の型がある。俺とアキヨシは同じ先生に教えを乞うており、手合わせもいつも三人で回す。しかしどうもアキヨシは教えられた型以外の動きをするので、理由を尋ねてみれば、なんと近衛の騎士達が休憩中に相手をしてくれるのだとか。
なるほど、たしかに全国から忠誠心が高く腕の立つ者のみを選出して構成された近衛達と戦っているのなら、様々な型を知る良い機会になることだろう。王の盾のなる近衛の騎士団長殿が彼を気に入っているという話は、瞬く間に王宮に広まった。
「やっぱりアキヨシは異世界からの英雄なんだな」
剣の稽古の後、俺とアキヨシは中庭の隅に植えられた木の下に寝そべっていた。芝生は柔らかい。明るい緑が時折吹く風にさささと擦れる音を立てた。木漏れ日が顔にかかり、汗が一滴、落ちて土に染みる。
「皆そう言うよな。でも違うぜ、俺はただのコウコウセイだ」
アキヨシはカタコトでそう答えた。アキヨシはまだ会話の中でニホンゴとやらを頻繁に使う。コウコウセイ、という単語はたまに聞くが、意味は……なんだったか。
「そのコウコウセイ? は君の地位だっけかな」
「地位……地位? いや、地位っていうか……えーと、ショク……? 違うな、うーん。ガッコウ、そうだ、ガッコウ」
「ガッコウ?」
「この国にシュウダンで勉強するところはないのか?」
「シュウダン……は、ええと、人がいっぱい、か。シュウダンで勉強というのはつまり、家庭教師と勉強するのとは違うということだな。多くの学者が集まる場所なら、ガッコウとは研究施設のことか?」
「ごめん後半聞き取れなかった」
「ガッコウ、は、研究施設?」
「あー、近い。ニホンでは、庶民も貴族もカンケイナシに子供が集まって勉強するんだ。それがガッコウ。その一つにコウコウってのがあって、コウコウセイはそこに通う人」
「なるほど、アキヨシは研究者だったのか」
「……あー、コノバノセツメイッテ、ホンットムズカシイナ……。ちょっと違うけど、とりあえずそれでいいや」
「ならやっぱりアキヨシはすごいじゃないか」
「うん?」
「ただのなんて謙遜するけれど、学者なんだろう? どうりで物覚えが良いわけだ、そういう素質があるんだな」
「待って、今知らない単語ばかりだった」
俺とアキヨシはいつもこうして話しながら互いの言葉を学ぶ。良い友達になれたと思う。王都からロクに出たことがなく、有力貴族などの形式的な友人しかいなかった俺にとって、こうして心置きなく会話できる友達というのはとても新鮮で居心地の良いものだった。身分が高くなればなるほど、どんな場においても「気楽」であることは難しい。張り詰めた生活の中で、アキヨシとの交流は貴重な「休み時間」なのだ。
「フムフムナルホドナ……。ヤッパリガクセイトケンキュウシャノチガイハ、イツカシッカリセツメイスルベキダワ。…………さーて、午後は何すっかな。今日はもう予定ないだろ?」
「ない。ならそうだな、東塔の蔵書でも見に行かないか? あそこには学術書が沢山ある。最近の研究をまとめたものもあるし、研究者たる君を十分に満足させることができるだろう」
「ごめんもう少し易しく」
「あっちで本を読もう。君の好きそうな本がある」
「はは、マンガでもあるのか~?」
マンガの意味は分からないが、好きな本という意味だと解釈したので、頷いておく。するとアキヨシはぎょっとした。「マジで……?」とよろめく。その言葉は覚えたぞ、「本当?」という意味だ。また頷くと、雄叫びをあげて喜んだ。どうやら、本当に学術書が好きらしい。まったく、筋金入りの研究者だ。
そういえばこないだ、もっとこの国のことが知りたいからと、経済のことや政治のこと、または城下の様子など、彼は様々な難しいことの説明を求めてきた。どうしてもその手の話題は難しい言葉が付き物で、彼にはまだ早かったが、その意欲には舌を巻く。
「なんとなく会話はできるようになってきたけれど、君はまだ全然文字は読めないからね。俺が朗読しよう」
「助かる。俺からしたらこの世界の文字はモヨウにしか見えねぇよ。ハツオンもギりなのにヨミカキとかマジ無理」
「そうか? でも君は読めた方が良いだろう。急がなくてもいい、頑張れ」
「おう……」
二人は体を起こして伸びをすると、他愛ない会話と共に東塔へ向かった。間もなくして、「マンガジャネェジャンカヨォ!!」と、アキヨシのが膝をついて嘆くだろうとは、俺は思ってもみない。




