sub.06 甥っ子に癒されたい
気持ちが落ち込んだとき、歩羽はよく祖母の家で過ごす。
次女である歩羽には歳の離れた長姉がおり、すでに結婚して近くの一軒家で生活していた。元々、母方の祖父母のものである三階建ての家は、築三十年以上経ち傷みもあるが、よく手入れされた暮らしやすい住まいだった。
その家に、歩羽の姉とその夫、祖母、そして生まれたばかりの息子の優太――歩羽の甥っ子が生活していた。
姉夫婦は共働きで、日中は二人とも外出しているため、そのあいだ祖母が優太の面倒をみていた。歩羽はここ半年ほど、高校での授業が終わった後によく祖母の家に立ち寄り、その甥っ子をあやしていたのだった。
学校でいくら心がざらついても、赤ちゃんをみていると全て癒される。歩羽は優太と遊ぶ時間が大好きだった。
「おや、あゆはちゃん。しばらくこないからどうしたのかと思ったよ」
いつものように玄関先でむかえてくれた祖母に、歩羽は「ちょっとテストとかあって」とごまかし笑いをつくりながら、慣れた様子で家の中に入った。
女神から授かった不思議な力により、歩羽の体が三センチだけ空を飛び始めてから数日が経過していた。
その間、高校の授業をなんとかやり過ごし、家でも極力部屋から出ないようにすることでしのぐ生活が続いていた。
だが体育の授業をずっと休み続けるわけにもいかず、家でも半引きこもり状態のため母親から心配される始末で、歩羽は困り果てていた。
なんとか浮く力がなくならないかと、ベッドから飛び降りたり、力まかせに手を床に近づけたりといった抵抗を試みた。だが地面が近づくと重力が逆になるような力が働き、どうしても床に触れることができないのだった。
雲の上にいるようなふわふわした足元の感覚にもすっかり慣れてしまった歩羽は、その日、祖母と甥っ子のいる家に向かった。
当然、家に上がれば足が浮いてしまうため、歩羽はここ数日、立ち寄るのをためらっていた。しかしいつも祖母の家では多くの時間を甥っ子と過ごしており、祖母と顔を合わせる場面はほとんどないので、気づかれる可能性は低いだろうと、歩羽は希望的観測をたてたのだった。
気疲れしたいまの精神を、甥っ子に癒されたい――。
なにものにも代えがたい幸せに浸るため、歩羽は祖母の家をおとずれていた。
優太はリビングで赤ちゃん用のおもちゃをつかい、機嫌よさそうに遊んでいた。その光景をみて、歩羽はホッとするとともになぜか涙がこみあげてきた。
「どうしたんだい、あゆはちゃん。なにか悲しいことでもあったのかい?」
心配そうに顔をのぞきこんでくる祖母に、歩羽は「ううん、なんでもない」と笑顔をふりまきながらすぐに正座した。制服のときは足をたたんで座れば足元がスカートで隠れるため、祖母の目をごまかしやすい。この数日で歩羽が身につけた知恵だった。
歩羽はさっそく、ハイハイで歩く優太と目線の高さをあわせた。
「ゆうくん、おねえちゃんですよー」
「だーだー、ばー」
うれしそうにはしゃぎだす甥っ子に、歩羽の表情もゆるんだ。
それから歩羽は優太をあやし、ゆったりとした時間を過ごした。自宅では得られない、心から安心できる空間が、そこにはあった。
祖母が温かいまなざしで、歩羽と優太の様子をながめる。
「あゆはちゃんがいつも遊びにきてくれるから、あたしも助かるよ」
「ううん、大丈夫だよ。私も好きで来てるから」
そう言いながらも、歩羽は自分の存在価値を認められたようで、うれしく思った。
祖母の家は甥っ子に癒される場所であると同時に、歩羽自身が生きている実感を得られる場所でもあった。
自己嫌悪で自信をなくすばかりの学校より、妹と比べられる自宅より、この家のほうが落ち着ける。
歩羽にとって、祖母の家は素のままの自分でいられる、なくてはならない居場所だった。
「こーら、ゆうくん。それは危ないからダメだよ」
旧式の石油ストーブの上におかれたやかんに手を出そうとする甥っ子を、歩羽が微笑みながらとめる。
生まれて八か月になる優太は、ちかごろ壁やテーブルに寄りかかりながら両足で立つことを覚えたようで、すこし高いところにおいたものでもすぐ手にとろうとする。その好奇心旺盛な姿にも、歩羽は心がなごんだ。
「このストーブは熱いんだよ。ぜったいさわっちゃダメだからね。おえねちゃんとおやくそく」
「だーだ。うー」
わかっているのかいないのか、優太はあきらめてリビングの奥にある和室へ引き下がった。その先には、仏壇の前で手を合わせる祖母の姿があった。
歩羽も和室に入り、さきほどまでお経をとなえていた祖母の横に座る。
「おばあちゃん、夕方にもお経をあげるようにしたの?」
歩羽が話しかけると、祖母は金色の縁どりが映える黒い仏壇を見上げた。
「お昼は優太がぐずってねえ。ずっと面倒をみていたから、いま代わりにやっておるんよ」
一日三回。先祖へのお祈りを何十年も欠かしたことがないという祖母が、再び手を合わせてゆっくりと頭をさげる。
「ご先祖様は大事にせんとな。わしらを守ってくださるんじゃから。歩羽のこともじゃよ」
「私の、ことも?」
「もちろん。ご先祖さまはいつだってあたしらを温かく見守ってくださるんじゃ。あたしはいつもあゆはちゃんが健康で過ごせるようにお祈りしておるよ」
歩羽は祖母ほど宗教に対し敬けんではないが、それでも人並みに仏様のことは信じていた。なにより祖母が自分のためにも毎日祈ってくれていたことが素直にうれしかった。
やっぱり、この家が一番落ち着ける――。
歩羽が感慨にひたっていると、祖母がふと目を丸くして歩羽のほうをみた。
「――おや、それは手品かい」
「えっ」
祖母の視線は、歩羽の足先に向いている。歩羽はハッとした。
和室に座ったとき、スカートから足先がはみ出ていたことに、歩羽はいま初めて気がついた。
そこに見える白いソックスをはいた足は、畳から三センチ浮いていた。