sub.03 三センチ上空から見下ろす高校生活
篠崎歩羽は県立高校に通う、やや人見知りな性格の女子高生である。
郊外の分譲マンションに母と歩羽、妹の光里の三人暮らし。父は単身赴任中でふだん家にいないが、特になにごともなく平和な毎日を過ごしていた。
平和。
歩羽にとってそれは、自分という人間の存在を薄くするだけの、柔らかく生ぬるい表現だった。
高校での歩羽は、ひとことでいうと、影の薄い女子だった。
高くも低くもない身長。線は細いがスマートというよりはただやせているだけの体。肩まで伸びる黒髪はまとめることもなく自然に流すだけ。見た目にあまり気をつかっていない地味な容姿。成績は中の中。口ベタで周囲の人間と話すことはあまりなく、これといった友人もおらず、クラスでも存在感の薄い生徒。それが歩羽だった。
派手なことが嫌いで、ずっと目立つことを避けてきた歩羽の高校生活は平穏そのものであり、ある意味で彼女の理想といえた。昨日告白したことでさえ、相手はそれを言いふらすような人間ではないと知っていたから、結果がどちらに転んでも穏やかな日々を続けられると歩羽には思えたのだった。
そんな静かな生活が、このくだらない能力のせいで崩壊してしまうかもしれない。
歩羽は浴室までダッシュしてシャワーを浴びてからすばやく着替えをすませると、妹が先に家を出るのを見計らい、リビングに向かう。
朝食は母親の見ている前でだけうまく力を抜いて床に下りつつ、全速力でのどに押し込んだ。いつもは大好きな母のエッグトーストが、今日だけは緊張で味がしなかった。
なんとか朝食をやり過ごすと、歩羽はそのまま学生カバンをもち、玄関へ向かう。待ち受ける最初の難関が、歩羽を悩ませていた。
登校。
学校までは徒歩で、人通りの多い道も歩く。そのため、だれからも見られずに学校までたどり着くことはほぼ不可能だった。
力を抜いて地面に降りたまま歩こうとしても学校までとても続かない。かといって、浮いたまま街中を堂々と歩くわけにもいかない。社長令嬢よろしくタクシーをつかって登校できればベストだが、着いたときに目立つうえ、そもそもそんなことを母親が許してくれる可能性は限りなく低い。
どうしようかと思案した結果、歩羽が考えついたのは、父親のクツを拝借することだった。
父は足が大きく、かなり大きな革グツも履く。歩羽はそれをクツ棚から引っぱりだして足を入れた。いつもならぶかぶかのクツが、三センチ浮いていることにより高さだけがちょうどピッタリになった。
たまに赴任先から帰ってくるたび「もっと自分から友だちをつくらなきゃダメだ。光里を見習いなさい。歩羽よりずっと社交的だぞ」と小言をいわれるため、ちかごろの歩羽は父に反発しがちだったが、このときだけは父に心から感謝した。
幅に余裕があるぶん、クツひもでガチガチにしめあげ、歩羽はようやく高校に向かうことができた。
校内ではどうなるだろうと不安を感じていた歩羽だったが、ぶかぶかの革グツを履いているおかげで、心配していたほどの制限はなかった。
立っている分には問題なく、イスに座るとわずかに座面から体が浮いたが、それはスカートで隠せた。字を書こうとすると手が机につかないという思わぬ事態も発生したが、シャーペンをいつもより長めにもつことで対処できた。
(思っていたよりなんとかなりそう……)
大きな革靴が多少目立ちはするものの、もともと影の薄い存在だった歩羽のちょっとした変化に目をとめるクラスメートはいなかった。自分の存在感のなさがいい方向に働いたことに、歩羽は心のどこかでやや寂しい思いを感じつつも、安どしていた。
午前中の授業を終え、昼食、掃除、昼休みといつもの通りこなし、気がつけば五時間目も終了しようとしている。
校内での生活は大丈夫そうだ。自信を深めた歩羽は、教室の掲示板にある今週の予定表で、本日最後となる授業の科目を確かめた。
六時間目、体育。
種目、バドミントン。
(最大の難問キタ( ゜Д゜)ーーーーーー!!)
心の中で絶叫する歩羽の耳に、担当教諭からの「体育館シューズに履き替えてください」という無情の声が響く。
よりにもよって体育館での授業という不幸に、歩羽は崖から突き落とされたような絶望感を覚えた。
「ど、どうしよう……。って、どうしようもないよ……」
ひとりつぶやきながら頭を抱える歩羽。
クツを履き替えてしまえば、確実に浮いているのがバレる。それに運動しながら力を抜き続けるなんて不可能だ。
もう、この方法しかない――。
すべてをあきらめた歩羽は、ひとつの決断を下した。
「……あ、あの」
席を立ち、体育の担当教諭に向かって右手をおずおずとあげる。同級生らの視線が集まる。
歩羽はためらいながら、自分なりに精いっぱいの声を張り上げた。
「い、いたた……いたいいたい! あ、あの、お腹が、き、急に、いたくなったので、保健室にいってきます!」
人生で初めて仮病を演じた歩羽は、「え、篠崎?」と戸惑いをみせる教諭の声を無視して保健室へ駆けだした。そうしなければ、恥ずかしさで顔がまっ赤になってしまうと思ったからだった。
廊下を走りつつ、先ほどの場面をひとり思い出す歩羽。やはり恥ずかしくなり、顔が自然と火照ってくる。
(さすがに、さっきの演技は浮いてたかもしれない……)
(って、いま実際に浮いてるよね)
(ふふっ)
歩羽はひとり廊下で吹きだした。それから急に泣けてきた。
保健室についた歩羽は、先生の許しを得てベッドで休ませてもらうことができた。
どっと疲れた表情で横になると、今朝味わった「羽毛布団の上で寝ているような感覚」になり、自分は三センチ浮いていることを改めて実感させられた。
歩羽の中で、理不尽な能力に対するやるせない怒りが渦を巻く。
なんでこんな目にあわなくちゃいけないの――。
空を飛びたいと願ったら三センチ浮いただけで、わけもわからず苦労させられている現状に、歩羽はうんざりしていた。
あれは女神の形をした、私を苦しめるための悪魔だったのでは――。
そう考えながら、ひどく気疲れしていた歩羽は、いつしか眠りに落ちていた。