sub.02 って、こんだけ?
宙に浮いている状態。それは、とてもやわらかな羽毛布団の上に横たわっている感覚に似ていた。
薄いマットにスプリング音ばかりが耳ざわりないつものベッドとは違う。
体験したことのない感触に、歩羽は思わず両手をついて上半身を起こした。だがその手もベッドには直接つかず、わずかに浮いていることでふわふわした手触りになり、歩羽の違和感はさらに高まった。
改めて自分の体をたしかめてみると、やはり全身が余すところなくベッドから浮いている。
「なに、これ……?」
ようやく驚きの感情が芽生えるまでに目が覚めてきた歩羽は、掛けぶとんをはねのけ、その場で少しはねてみた。だがどうやってもベッドに三センチほどの空間が残り、それ以上は足が沈まない。
歩羽はベッドから降りた。直立しても、両足がフローリングの床から少し浮く。歩くとふわふわした雲の上を進んでいるような奇妙な感覚が足裏から伝わってくる。
空を、飛びたい。
そう言った。たしかにそう言った。
歩羽は夢の中の記憶をたどってみた。自分の望みを伝えると、「わかったわ。その願い、かなえてあげましょう。目が覚めたら、あなたはもう空を飛べるようになっているはずよ」と女神さまから告げられた。それからほどなくして目が覚めたはずだ。
空を飛べるようになりました。
――いや、こんだけ?
歩羽は心の中で、体が浮いているという超常現象への驚きと、夢をみただけでそんな能力が手に入ったことへの戸惑いと、女神へのふつふつとわきあがる怒りがまざりあう複雑な感情に襲われた。
「……もしかして、ここからがんばればもっと浮くことができるとか」
歩羽は肩や腹や足や腕に力を入れてみるが、自分が思い描いていた「大空を自由に飛び回りどこまでも逃げていける力」が発揮される様子はみじんもない。
全身をこわばらせてみたり、ひたすらその場でジャンプしてみたり、無意味に「はっ!」などと声をはり上げたりしても、一向に浮く高さの変わる気配がない。
逆に発見したのは、体の力をうまく抜けば足が地面につくということだった。だがこれも長くは続かなかった。感覚としてはずっとまばたきをせずに目を開け続けるようなもので、十秒ほどしかもたない。その場しのぎにしか使えなさそうだった。
つねに体が浮いているという常識では考えられない能力を手に入れたはずなのに、力が弱すぎて少しもうれしくない。このままではむしろ隠す方が大変だ。
「女神さま……!!」
もはや恩恵というより理不尽な仕打ちと呼んでいい状況に、ひとり女神への怒りをつのらせる歩羽。
そのとき、ドアの外から歩羽に似た、少しいら立ちを含む声がした。
「お姉ちゃん。そろそろ起きないと遅刻するよ」
妹の光里だった。
歩羽はその声を聞いた瞬間、昨日の告白を思い出してしまった。
(光里の彼氏って、やっぱり……)
気分が落ちこんでしまいそうになるのを、歩羽は必死に立て直す。
いまはとにかく、この格好をだれにもみられないようにしないと――。
「お姉ちゃん、寝てるの? 起きてるんだったら返事してよ」
「あ、ダメダメ! 開けちゃダメ!」
「なんだ、起きてるんじゃん。早く出てこないと遅刻するよ」
「あ、うん。急ぐ……。もうすぐ降りるからってお母さんに言っておいて」
「早くしてよ。ったく、なんで私が……」
ブツブツと文句を言いながら階段を降りる妹の足音がし、ホッとする歩羽。
部屋の壁に掛けられたアナログ式の時計をみる。針は午前七時三十七分を指している。
(……マズい)
歩羽の心に冷や汗がたれる。
さしあたり、この三センチほど足が浮いた状態で日常生活をやり過ごさなければならなかった。
歩羽の送る、高校生活という日常を。