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王子、ホノカを助ける

 王都パードュライの南に百キロほどのところにある沼地、その名もデスクラブの毒沼。ゲーム時代には近くに寝泊まりできる村があり、王都からも比較的近いという事で初心者がよくレベル上げに使う場所だった。特徴はぽこぽこと体に悪そうな何かが浮かび上がり触れたものに微ダメージを与える毒の沼と、その毒沼から何匹も何匹も現れてくる犬ほどの大きさの蟹、デスクラブ。背中に浮かぶ髑髏の様な模様を持ち、口からは毒泡を吹き出す。基本毒頼りのモンスターであるため、毒対策をしていれば倒しやすく、湧いて出てくるので経験値も稼げるのである。

 そんな毒沼をホノカは突っ切ろうとしていた。

 時速何十キロという速さで走っていたホノカは、この毒沼に来る間に様々なモンスターとエンカウントしていた。

 ある時は雑魚モンスターの定番ゴブリンを、十匹の群れごと鎧袖一触と吹き飛ばした。あまりの速さにゴブリン達はホノカに気付くことも無かった。

 また野盗とかして村を襲っていたリザードマンと人との混成チームを、偶然目に入ったからと言って乱入。尻尾を持つモンスターにしか掛けることが出来ない尻尾固めなどの関節技を笑顔で極め、村人からの感謝の言葉もおざなりに再出発した。

 それからも比較的弱いモンスターと戦闘を繰り返していたホノカだったが、次第に一体にかかる戦闘時間が増え、ダメージを食らう様になっていた。

 毒沼につくころには走る速さは最初の時速何十キロのレベルから遠のいていた。

「これがジョブ【王太子妃候補】のマイナススキルか。たかだか百キロで俺のステータスが初期値近くまでダウンされちまった」

 ホノカは拳を握りしめて構える。一息吐くと同時に本気で拳を突きだす。

 まるで空気を斬るような音がした。しかし、それだけだった。

「技術はともかく、パワーがほとんどないせいで拳圧すら作れないか。こりゃ、スキルのあらかたは使えなさそうだな」

 ホノカは一旦休憩しようと沼の前に座り込んだ。

 ぐ、ぱ、ぐ、ぱと手を握ったり開いたりする。手の動作や感覚が変わったという訳ではない。しかし、握った拳を全力で地面に叩きつけると、

「痛ぇ。俺の拳が地面に負けるとは……」

 地面を陥没させるどころか、自分の手の方が痛くて傷つく様だった。

「甘く見てたな。てっきり決まった分だけのダウンだと思ってたんだが、距離に比例してダウンする量が増えやがるのか。これ以上のダウンは流石にないと思うが、この状態では何もできないな。まるで一般人だ」

 ホノカが持つ技の大半は物理攻撃である。中には【魔拳士】などのジョブによる魔法攻撃もあるが、それが例外的である。そしてこの物理攻撃系のスキルを使う場合、そのスキルによって必要ステータスが設定されているのである。なので今のダウン状態ではホノカが使えるスキルは基本のパンチやキックといったものしかない。ある程度のレベルのモンスターに会ったら、簡単にやられてしまうだろう。

 ホノカもそれが分かっているからか、これ以上進むことを躊躇っていた。

 そして、躊躇うホノカを待ちきれなくなったのか一匹のデスクラブが現れた。口からは泡を吹き、右手の大鋏をカチカチと打ち鳴らせる。

「こっちは考え事してむしゃくしゃしてるんだ。いくら弱くなったって言ってもな、このホノカ様がデスクラブ一匹を恐れると思ったか。ほら、相手してやるよ。来な」

 立ち上がって自然体になるとそんな挑発の言葉をホノカは言った。

 その意味が分かったわけではないだろうが、デスクラブも殺気を高める。

 かたや格闘系ジョブを極めた女傑、かたやよくいる雑魚モンスター。本来ならあり得なかったタイマンがここに成立した。

 最初に動いたのはホノカ。背の低いデスクラブを攻撃するにはしゃがむか、下段蹴りといった方法しかない。ホノカが取ったのは後者だった。

「先手必勝!」

 その掛け声とともに右足を振り上げる。その時地面の土を飛ばしてデスクラブを牽制することも忘れない。振り上げられた足は重力に引かれるように一気に落ちる。それはまさしくかかと落とし。力はなくとも技術は一級品。デスクラブには避けることも敵わない。

「まずは一撃だ。喰らいやがれ」

 ホノカのかかとは完璧なラインを通ってデスクラブの頭頂に直撃し……デスクラブは爆散した。

 思ってもみなかった事態に、体中蟹まみれになりながらホノカは茫然と自分の蹴り足を見つめていた。そして一言つぶやく。

「……『落下崩』?」

 技スキル『落下崩』。【空手家】などのジョブで足技を多用していると獲得できる。基本はかかと落としだが、上から下への足攻撃で発動可能であり、威力上昇と共に攻撃した部位を爆発させることが出来る。ホノカも意外と重宝するスキルである。

 今も無意識で発動させたらしかった。

「『落下崩』を発動できるっていう事は、ステータスの数値とスキル使用に関連性がないという事か? それならなんとかなりそうだな」

 体についたデスクラブの体液をぬぐいながら、ホノカは沼を見つめた。ここを直線で抜けるのが最初の目的地に一番近い。

 ホノカは迷うことなく沼へと一歩を踏み出した。


「これは予想外だった」

 ホノカは今巨大蟹と闘っていた。デスクラブではなく、ドンクラブである。

 文字通りこの沼のボスモンスター。ある程度デスクラブを倒すことで覚醒してくるモンスターである。ただ見た目的にはデスクラブを十倍にしただけである。ボスモンスターとしてそれほど強いものではない。

 沼の間をつなぐ橋と浮島の上に立ちながら、ホノカはドンクラブを見上げていた。

 ホノカは窮地に立たされていた。

「くそっ、今のままじゃ攻撃力が足りねぇ」

 右から来た大バサミを軽く後ろに跳んでホノカはぎりぎりで避ける。そして一気に懐に入ると拳と蹴りを二発ぶちこむ。

「はっ!」

 気合もむなしく、拳も蹴りも固い体に弾かれる。ドンクラブに攻撃が効いた様子はない。全く意に介した様子もなく振り切った大バサミで再度ホノカを狙う。

 しかしそれも紙一重でホノカは避けた。

 ステータスダウンによりホノカは素早い動きも強い攻撃も封じられている。一瞬のずれが生死を分けるその状態でもホノカは相手の攻撃を完璧に、それも紙一重の距離で避けきっていた。

 しかし、それは同時に紙一重でしか避けられないという事を表していた。

(やばい。自分の体なのに自分の体じゃないみたいだ。足も遅いし、パワーもない。特に体力がなさすぎる)

 一旦距離を取って大きく息を吸って体力を回復させる。

 戦い始めてからまだ十分。それなのに何時間かけてボス戦しても疲れずにいたホノカが、体中に重い疲労を感じていた。スタミナもダウンしているようだった。

 額に浮かんだ汗をぬぐう。視線は一度も敵から離さない。

 一発当たったらやられる。そこまでホノカが追い詰められているには理由があった。

 ドンクラブ。通称毒沼の初心者殺し。初心者殺しと呼ばれるモンスターは何体もいるが、ドンクラブがそう言われるのは二つの特性による。一つはその物理防御力。格闘系プレイヤーからすれば、どの攻撃も弾く戦いにくい相手である。そしてもう一つが、元々のデスクラブにはない特殊スキルである。

 ホノカにドンクラブは背中を向けようとする。

「今だ!」

 ホノカはその瞬間を見のがさず、一気に間合いを詰める。

 そしてホノカの攻撃が甲羅に当たるという所で、ドンデスクラブの背中の甲羅に描かれた髑髏マークが光りながら甲羅から飛び出した。それは攻撃しようとしていたホノカを直撃する。

 ドンデスクラブの特殊スキル『死の紋』。その光を当てた相手に確率で即死効果。中堅どころなら必ず持つ『即死耐性』というスキルでレジスト可能だが、初心者には高確率で即死が降ってくる。しかも効果範囲が広いというのも初心者殺しと呼ばれる理由である。

 しかし当たり前のことながらホノカは『即死耐性』どころか『即死無効化』を持っているので、全く意味がない攻撃である。ホノカからすればわざわざ攻撃する隙を作ってくれたという程度だ。だからこのタイミングでホノカは距離を詰める。

「これは効いてくれよ」

 ホノカは光による目くらましの中で、ぶれることなく敵を拳で貫くように打ち出した。

『鎧通し』

 その名の通り鎧などの上から攻撃し、中身にダメージを与える技。あの固い装甲を壊すことを諦めたホノカは、内部に攻撃を仕掛けた。

「駄目かっ。これじゃ倒せねぇぞ」

 確かに『鎧通し』は成功していた。蟹の内部に伝わった衝撃は、そのまま貫くようにダメージを与えていた。しかし如何せん攻撃力が低い。たった一撃では揺らぎもしない。

 根本的なパワー不足。いくら技スキルで威力を上げようと、元がしれていてはどうしようもない。

 それからまた数分たった。攻撃を避けながら、隙を見て『鎧通し』を仕掛けるという作戦をやっているものの結果は芳しくなかった。

 完全に膠着状態になっていたその時、一匹のデスクラブが沼から現れた。それはちょうど後ろに跳んで避けていたホノカの着地点であり、運悪くホノカはデスクラブを踏んでしまった。

 バランスを崩して倒れ込むホノカ。しかも運悪く沼に片腕が呑みこまれてしまい体の動きが封じられる。

 ホノカは冷たいものを一瞬感じ取った。思考する前にガードの体勢を取る。

「ぐはっ!」

 ドンクラブの大バサミがホノカの体を吹き飛ばした。

 運よく浮島の上で体が止まって、沼で溺れ死ぬという事はなかった。

 しかし体はすぐには動かせない。

「くそ野郎が」

 何とか立ち上がるがそれまでだった。

 無慈悲にもドンクラブの体が近づき、その大バサミが振り下ろされた。

 死んだ、ホノカがそう思った瞬間、叫びと共に雷光が走った。

「ホノカッ!」

 感情のこもった熱い声を聞いた瞬間、ホノカは意識が飛ぶのを感じた。

 体が後ろに倒れていく。背後には毒沼があるから危ないという思考さえ浮かんでこなかった。

 倒れきるところで体が止まった。誰かに優しく支えられているという事を、背中に感じた温かさで気がついた。

「大丈夫か」

 目の前にきれいな金髪が見える。いつもの無表情はなく、焦って崩れた顔だった。

「また……助けられちゃった」

 それを言ってホノカは意識を手放した。


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