09 1994/11/27 sun 出雲学園校門:一人称マジック?
二葉がリュックを下ろし、中からタオルを手渡してきた。
「風邪引かないように汗拭いて」
ふぃ~、滝の様に流れ出ている汗を拭う。
デブだから汗かきなのか、ジョギングのせいなのか。
きっと両方だろう。
吸い込む息は尖り、吐きだす息は白い。
周囲の空気は冷え切っているはずなのに、暖まった体がそれを感じさせない。
続いて二葉はステンレスボトル、いわゆる魔法瓶タイプの水筒を取り出す。
差し出してきた蓋からは湯気が立っている。
「はい、お疲れ様」
タオルを首にかけてから「ありがとう」と受け取る。
ずずっと啜るとぬるめのお茶。
ああ、たった一口のお茶がこんなに美味しいなんて。
二葉は水筒をリュックに戻すと腰縄を持ち直す。
そして軽くスキップする様な足取りで歩を進め始めた。
二葉の足が跳ね上がる度にカサ、カササと枯葉の砕け散る音がする。
晴れ渡る空に響く寂しげなその音は、秋の終わりと冬の到来を感じさせる。
しかし刻まれるテンポは実に心地よい。
もう顔を見なくとも、楽しげに落葉を踏み鳴らしているのが伝わってくる。
二葉が振り返る、やっぱりその顔は笑っていた。
「ねえアニキ」
「ん?」
「『上級生』の主人公って誰なの? すっごく気になるんだけど」
そういえばまだ話してなかったな。
「気になるって?」
「だってあたしも一応ヒロインなんでしょ。もしかしたら彼氏になるかもしれない人なんだもの」
興味を持って当然か。
相変わらず落ち葉踏みに興じてる様子からすると、そこまで本気で考えてるわけでもないのだろうけど。
「足柄金之助、一樹と同じクラスの」
二葉の足が止まった。
「えーっ! 金ちゃん!?」
「うん。確か二葉って金之助と中等部では一年から三年までずっと同じクラスだよな」
「そうね、もう腐れ縁と言っていいかも。最近あまり見ないけど仲はいいよ」
まさにゲームの設定そのままだ。
二葉が再び足踏みを始める。
「でも金ちゃんならわかるなあ。顔は上半分を髪で隠してるけどかなり格好いいし、性格も一見して女好きの脳天気な変態っぽいけど根は優しくて正義感強くて明るくて頼もしくて、背も高くて、遊びには長けてるし、喧嘩は強いし──」
「ちょっと待て!」
しかし二葉は無視して話し続ける。
「──学校の成績は悪いけど嫌いだからしないだけで中等部時代はずっとトップだったし、肩壊して諦めちゃったけど中学時代は野球部のエースの四番で全国大会優勝したし、父親は世界的に有名な登山家兼小説家だし、すごく美人な義理のお姉さんはいるし」
「金之助はいつからそんな設定になった!」
「いつからって、中等部で知り合ってから」
真顔で言われても。
「そんなわけない。俺の知ってる金之助は『顔は普通、性格は女好きで脳天気な変態、勉強は嫌い、運動は面倒だからやらない、父親は山歩きが好きな物書きという名のろくでなし』だぞ。ぴったり合致しているのは喧嘩が強いのと美人な義姉さんがいるくらいだ」
もっとも性格については、設定というよりシナリオから、二葉の述べた通りなのは明らかだけど。
「そう言ったのは誰?」
「本人」
二葉が頭を抱え、呆れ果てた様に溜息をつく。
「はあ……それって典型的な一人称マジックじゃん」
「一人称マジック?」
「言い換えると『自称ほにゃらら』ってやつ。普通に考えてみようよ、あたしのさっき話した事が本人の口から出てきたらどう思う?」
「すごいイヤミなヤツ、さもなくばバカ、もしくはナルシスト」
「だから小説なんかだと他の登場人物に本人の客観的評価をさせるのよ。でも、もし、それが無ければ本人は嘘を吐き放題になる。それが一人称マジック」
「なるほど」
「あたしだって本人に面と向かってカッコいいなんて言わないもの。そして金ちゃんは嘘を吐いてるわけじゃないけど、自分の良さを鼻にかけないどころか自覚してないから──」
嫌な予感がするので、息継ぎのタイミングをみて台詞に割り込む。
「その先を言うのはやめてくれないか」
しかし二葉は構わずきっぱり言い放った。
「──本人の言葉だけだと平々凡々に聞こえてしまう。つまり、アニキ達プレイヤーはゲーム会社に騙されてたってこと」
「わざわざ耳を塞いで聞こえない振りしてまで、男の夢をぶち壊すんじゃねえ!」
プレイ後一〇年経過して気づいた真実。
世の中には知らない方がいいこともあると実感させられてしまった。
主人公は俺の仲間だと思ってたのに……だからこそ感情移入できたのに……。
「大体さ、金ちゃんってたった一ヶ月で……何人とも……その……エッチしちゃったりするんでしょ。そういう男性でもなければ、そんな上手くいくわけないじゃん」
「もじもじしながら顔を赤らめてまで、とどめを刺すんじゃねえ!」
「叫びたいのはこっちだよ。なんであたしが金ちゃんに攻略されないといけないのさ。現時点では金ちゃんにまったく欠片も興味ないのに」
二葉に照れなどの様子は見受けられない。
完全に素。
「そうなの? ゲームでは初めて見た時からツンデレに通じるものがあったんだけど」
「つんでれ?」
また発音がおかしい。
そうか、この頃はまだツンデレという言葉がないんだ。
「ツンしてデレる。つまり昨日お前が俺にやったやつ」
「はい?」
よく飲み込めないのか声がひっくり返っている。
でもこれならわかるはずだ。
「最初は罵詈雑言浴びせてたくせに、夜には一緒に風呂入りに来た挙げ句おしっ──」
「その先を続けたら本気で殺すからね」
その台詞が耳に入った時には既に、二葉が懐に飛び込んで肩のタオルを交差させ、鬼の形相で首を締め落とそうとしていた。
いつの間に。どれだけ鋭いステップインワーク。
こいつ……マジ怖い。
「えーと、要は『嫌よ嫌よも好きのうち』。二葉と金之助だと、なまじ腐れ縁だから素直な気持ちが伝えられないって感じ」
「最初からそう言えばいいのに」
二葉がタオルから手を放して踵を返す。
そして腰縄を手にし直してからピョンと一歩跳ねたところで、再び口を開いた。
「素直になれないどころか、仮に告白されても即断るよ。もちろんエッチするなんてとんでもない」
「どうしてさ、あれだけ褒めちぎってたのに」
「浮気されるとわかってて付き合う女がどこにいるのさ。金ちゃんが女たらしなのはあたしだって知ってるし、『上級生』の話聞いた後じゃ尚更だよ」
「それが普通の感覚なんだろうな」
当のヒロインからこんな現実味のある台詞を聞かされると、ギャルゲーの世界なぞゲームの中ですらありえないとまで思えてしまう。
それがプレイする段になると絶妙なリアリティを感じさせられるのだから不思議なものだ。
「あたしだって彼氏は欲しい、だけど誰でもいいわけじゃない。金ちゃんみたいな女たらしより、カッコ悪くてもキモくてもいいから自分だけ見てくれる人を選びたい」
「キモくてもって……」
「地上最強と言っても言い過ぎじゃないくらいにキモイアニキがいるんだもの。キモ耐性に関しては誰にも負けない自信あるよ」
自嘲する二葉がこの上なく不憫に思える。
そしてそんな男になってしまった自分がもっと不憫に思える。
いずれにしても返す言葉がなくなってしまった。
すると二葉が気まずい空気をなぎ払う様に、落ちてくる枯葉をぱしぱし掴み始めた。
いわゆるシャドーボクシング。
吹き始めた木枯らしに短い髪が流される。
「うまいな」
広げられた左手の平から、砕けた枯葉が舞い散っていく。
「マンガで憶えたのよ。アニキのなんだけど、主人公が元いじめられっ子だから共感できるんだってさ。あたしも好きだからお金半分出して単行本二五冊全巻揃えてる」
そのボクシングマンガは二五巻どころか一〇〇巻を越えた現在も続いていたりする。
主人公はひたすら練習練習練習の超がつく努力家。
共感するなら、見倣って日頃のトレーニングに励めと言いたい。
どうして俺がそのツケを払わないといけないんだ。
「揃えてるって、一樹の部屋? そんなのあったっけ」
「本棚の三段目に紙カバー掛けて並べてるよ」
「一樹にしてはマメだな」
「ううん、掛けたのはあたし。一樹ってマンガ読んだら床に投げっぱなしだから、カバー掛けないと痛んじゃうんだ」
性格なのか共有の品だからなのか。
面倒見いいというか細かいというか。
──坂を登り切り、赤煉瓦造りの瀟洒な洋風建築に突き当たる。
「ここが高等部の建物、見かけは古くさいけど内部は新しいよ」
古くさいというよりは歴史的、伝統的といった形容の方が相応しい。
例えれば東京駅……いや法務省の旧庁舎か。それを一回り大きくした様な建物だ。
しかし現実に目の当たりにすると荘厳だなあ。
下手に真新しい近代的な建物よりも、いかにもギャルゲーのそれらしく見える。
二葉が説明を続ける。
「上の階から三年、二年、一年。一階が職員室や保健室。クラス名は表札が出てるからすぐわかる。売店や食堂とかは別棟。出入り口は中央のあそこね」
二葉の指さす方向を見る。
なるほど、ちょうど詰め襟の学生服を着た男子生徒が出てきたところだ。
──二葉の大声が耳をつんざいた。
「金ちゃん!?」
前髪で目を隠した男が、片手を上げながら歩いてくる。
こいつが「上級生」の主人公、足柄金之助?
「よお、お二人さん。珍しい組合せじゃねえか」