08 1994/11/27 sun 出雲町内:毛糸のパンツは?
「おっそ~い、もっと足を上げて」
「はあはあ、どうして朝っぱらから出雲町をジョギングしないといけないんだよ」
朝起こされたと思いきや、すぐさま外へ連れ出された。
せめてもの救いは、着せられたジャージが普通のブラックであること。
今日だけはニンフトレーナーを着なくて済む。
二葉は鮮やかなブルーを基調にしたウィンドブレーカーの上下姿。
【IZUMO】と大きなロゴが入り、チームデザインが施されている。
部活で使っているユニフォームらしい。
背中にはリュックを背負っている。
「アニキはこれから動き詰めになるんだから、その全力に怠けきった体を鍛えないと」
「そら、まあ……」
生返事が気に入らなかったのか。
それこそ全力で目を釣り上げ、捲し立ててきた。
「町内の地理だって頭に入れないといけない。前もって学園も案内しておきたい。今日中にやるべき事は他にもいっぱいあるんだから」
実際、俺の手には出雲町の地図がある。
ジョギングを始める前、二葉から「これを見ながら案内する」と渡されたものだ。
アバウトながらも町内の主立ったポイントは全て記されている。
手書きながらも過去にゲーム内で見たマップと比べても遜色ないくらいの出来。
そして二葉の目は真っ赤に充血している。
もう俺の答えはこれしかあるまい。
「ごめんなさい。頑張ります」
「素直でよろしい」
二葉は弾むような足取りで再び走り始めた。
まさにゲーム設定通りの元気っ子だ。
しかし「動き詰め」か。
二葉も意識せず口にしたのだろうけど、恐らく思っている事は俺と同じだ。
生返事になってしまったのは、それもある。
ここが本当に「上級生」の世界ならば自然な推測ではある。
だけど、あまり向き合いたくない憂鬱な推測でもある。
それこそ頭の中ですら口にしたくないくらいに。
──あたっ。
足がもつれた。
体育会系ヒロインの二葉とキモオタキャラな俺が同じペースで走れるわけなんてない。
しかし囚人がごとく腰に巻かれた縄に無茶振り対応を強いられてしまっている。
「この腰縄外してくれよ」
「だーめ、アニキ休んじゃうでしょ? それだけじゃなく友達への言い訳用なんだから」
「言い訳?」
「あたし、学校では一樹を避けてるからさ。一緒のところを友達に見られるとまずいんだ」
それはわかる。
そもそも「友達」を口にする前に、こんなろくでもない兄がいれば、二葉もあわせて村八分されていたっておかしくない。
だけどゲーム内の二葉は、チア部で部長を務めるなど人望があって友達に囲まれているという設定だった。
もしかすると一樹が兄というハンデの分だけコミュ力が磨かれたのかもな。
ぜひぜひ息を切らせていると二葉が話しかけてきた。
「ねえねえ、晴海さんってアニキの妹さん?」
へっ!?
「どうして妹の名前を知っている」
「やっぱりそうなんだ。起こした時、寝言で言ってたからさ」
そういえば風呂に入った時、久々に思い出したからな。
もしかしたら夢に出てきたのかも。
「普通は『彼女さん?』って聞かないか」
「お風呂で動揺しまくってた人の口から、そういう台詞を聞けるとは思わなかったなあ」
もう見なくてもどんな顔してやがるか容易に想像がつく。
だけど、もう負けない。
「二葉だって彼氏いないだろうが」
「……なぜそれを」
会話のリズムが不自然に乱れた。
やはりこれが急所だったか。
「何故も何もない。この世界がゲームそのままならお前に彼氏がいるはずもない」
そういう設定なんだから。
「この世界がゲームそのままかは置いておくとしてさ──」
二葉が立ち止まり、肩をぷるぷると振るわせ始めた。
その場にしゃがみ込み、膝上に顔を突っ伏せる。
「──あたしだって、一樹さえいなければ……こんな変態兄がもれなくおまけに付いてくる女を、どこの誰が彼女にしてくれるのよ……」
やば、完全に地雷踏んだ。
いや、あえて踏んだんだけど踏みすぎた。
上ずる声、そして「してくれる」という卑屈な物言いが全てを物語っている。
「すまん、悪かった。そんな女はどんなにかわいくても絶対に嫌だ、断固断る」
「全然フォローになってませんけどっ!」
二葉は怒鳴るとともにすっくと立ち上がって走り出す。
しかし俺はその後ろ姿を見ながら妙な既視感を憶えた。
……これって主人公と二葉の「上級生」における最初の会話の一部じゃないか。
本来は主人公に吐き出すはずの怒りを俺がぶつけられたのか。
自業自得とは言え、何だかとばっちりを受けた気分だ。
前方から、まだ怒気の篭もる声が聞こえてくる。
「『妹さん?』って聞いた理由を説明するよ」
「うん」
「アニキってさ、『アニキ』という呼び名に反応いいんだよ。一樹と同じくらいに。だったら同じ呼び方をしてた人がいるって思うのが自然でしょ」
お前怖いよ、どこまで観察してるんだよ。
これでまだ一六歳と思うと末恐ろしい。
「確かに晴海からも『アニキ』って呼ばれてたけどさ」
「いくつ下なの?」
「一つ下」
「かわいい?」
「そりゃあもう」
「あたしとどっちがかわいい?」
「比べようないな、晴海は死んじゃったし」
──あれ、足が楽になった。
腰縄がたるんでいく。
頭を上げると、立ち止まる二葉が顔を俯けていた。
「立ち入った事を聞いてごめんなさい。調子に乗ってしまいました」
「いや、何年も前の話だし……えーと、『どちらもかわいい』?」
二葉にしてみればこの程度の答えを望んで、軽い気持で聞いたのだろう。
しまったな。
敬語で堅苦しい物言いに本音が読み取れる。
まず、俺のことは年上と判断している。
そして本気でアニキと思っているわけでもない。
恐らく今の姿が二葉の素。
他人相手なんだから、それが本来当たり前なのだ。
だけど、たった今まで俺はそう思っていなかった。
それはきっと二葉が必死で妹を演じてくれていたから。
つまり……俺の身をそれだけ案じてくれている証に他ならない。
二葉は黙りこくって突っ立ったまま。
ふむ。
二葉の頭の上に手を置いてみる。
「ほら、さっさと走れ。俺の体が冷えたらどうするんだよ」
「やめて! そんな脂ぎった手で触られたら髪の毛べたべたになるじゃない!」
二葉は俺の手を払う。
そしてすぐさま俺の背を思い切りひっぱたいた。
「何しやがる! 痛いだろうが!」
背中のひりひりする痛みを吐き出す様に叫んだ時、二葉は既に駆け出していた。
腰縄がピンと張る。
それと同時に二葉は再び立ち止まって振り向いた。
両手を膝に置きながら、笑顔で見上げてくる。
「もう一度『どっちもかわいい』って言ってもらえる様に、あたしも頑張るからさ」
ああ、なるほどな。
二葉の意を汲んで、俺も続ける。
「じゃあ俺も一樹に負けない様に頑張るよ」
……あれ? 何か変な事言ったか?
相対する二葉の表情は苦笑いに変わっていた。
「頑張って欲しいのはそっちじゃなくて。一樹に負けたら兄どころか人間としてお終いだよ……」
──再び走り出す。
ひたすら家並みが続く。
もうかれこれ二〇分は走ってる様に思う。
体を鍛えるのも兼ねてという意図はわかる。
前を行く二葉が、通常人にとっては速歩程度の速度に抑えてくれているのもわかる。
しかしこれだけ時間をとるなら、さすがに効率を優先すべきだ。
「自転車使った方がよかったんじゃないか?」
まさか自転車を持ってないわけじゃないだろう。
しかし二葉の答えは、まさに斜め上だった。
「出雲学園は自転車通学禁止だから。風紀が乱れるって理由で」
自転車通学禁止の学校も珍しいとは思うけど、理由に至っては全く理解できない。
「事故防止とかじゃなく?」
「制服のスカート短いからさ。自転車に乗るとめくれあがっちゃうでしょ」
「詰めてたり折り上げてたりなんじゃないの?」
「あの長さが元々。短い方が身だしなみに気をつけるからって」
それって普通は逆じゃないのか。
「下にスパッツなり短パンなり履けばいいだろう」
「それも禁止。股を広げたりして振る舞いがガサツになるからって。そうじゃなければ一樹が学園で女の子達のパンツを盗撮できるわけないじゃん」
それって学校側は幇助の罪に問われないのか。
そう言えば上級生に限らずマンガやゲームで、自転車通学をしている場面は殆ど見かけない気がする。
主人公がヒロインと歩いて帰る場面はいくらでも思いつくのだが……ああ、そうか。
パンツもそうだけど、これがいわゆる作者の都合ってやつか。
「バイク通学はどうなの?」
「スクーター以外ならおっけー。スクーターは手軽に運転ができる分、事故が起きやすいって理由で禁止されてる」
一見もっともらしい。
だけどバイクでパンツ見える分にはいいのか。
バイク乗りのヒロインがいるから、これも作者の都合なんだろうけど。
ついでだ、これも聞いてみよう。
「毛糸のパンツは?」
「『気品ある女性の育成は気品ある下着を身に着けさせる事から始まる』って理由で禁止されてる」
まさか本当に禁止されているとは。
スカートが風で捲れあがって毛糸のパンツじゃがっくりだから一応聞いてみたのだが……。
でも、毛糸のパンツから気品を感じ取れないのは間違いない。
こじつけだろうに、もっともらしく聞こえてしまうのが恐ろしい。
腰縄が緩くなった。
立ち止まった二葉が右手を指さす。
「着いたよ」
ふあっ!
ゲームで知っているから声を上げたりはしない。
しかしそれでも驚くに値した。
簡単に表現すれば、でかくて広くて豪華。
いかにもギャルゲーに出てくる学園だ。
赤煉瓦の高い門柱によって贅沢な幅が確保された正門。
本日は日曜だからか閉まっているが、簡単に乗り越えられる高さではない。
左右の門柱には守衛が立っており、右手には通用口と守衛所。
これ見よがしに警備カメラも設置されている。
「随分と厳重な警備だな」
「生徒が財界、政界、官界を始めとする各方面の有力者の子息ばかりだからね。誘拐事件とか起きたらまずいもの」
そんな設定でもなければ、こんな学園が建てられるはずもないか。
「一樹の盗撮はいいのかよ」
「建前としては放任主義を謳ってるけど、実際は本人の成績か親次第ってとこ」
つまり学園側は見ない振りしているという事。
ゲームじゃなく現実でもそういう学校はままある。
交番の一件で予め見当がついてはいたが。
二葉の口調は淡々としているが、表情は曇っている。
それを見てほっとする。
そんな学園を当たり前と思う人種は好きになれないから。
門の向こうには銀杏の並木道が緩やかな上り坂となって延びている。
右手の支柱には黒地の板に金文字で【出雲学園】と看板が掲げられており、その下には【中等部、高等部】と併記されている。
「これだけ大きな学園なら大学が附設されていてもよさそうなものだけどな」
「大学生に制服着せるわけに行かないからでしょ」
「どういうこと?」
「この正門って平日はセンサーが張られてるんだよ。それで制服には認証タグが埋め込まれてる。つまり制服が正門を通過するための鍵代わりなわけ」
実際のところは、単に大学生を描きたくないだけだと思う。
やっぱりギャルゲーの女の子は制服を着ていてなんぼだ。
──二葉が通用門の守衛所を通り抜け、その後に続く。
「身分証明証の提示を願います」
パスケースから生徒証を取り出して手渡すと、守衛は読み取り機にカードを通す。
照合なのか、それとも入退室記録か。
この物々しさは半端じゃない。
出雲学園がどんな所なのか、ひしひしと伝わってくる。