07 1994/11/27 sun 自室:いんたあねっと?
「ちょっと待ってね。先にシーツとカバー替えるから」
部屋に来た二葉はパジャマに着替えていた。
淡いピンクに大きな赤色の水玉模様がかわいらしい。
生乾きの髪からは風呂上がりの芳香が漂ってくる。
「ありがとう」
「一樹のベッドをそのまま使うのは気持ち悪いでしょ?」
「一週間に一度しか風呂入らないと聞かされた後じゃ、さすがに。でも清潔に無頓着なヤツの部屋にしては片付いてるよな」
「あたしが片付けてるんだよ」
「二葉が? いくら兄妹でも甘やかしすぎじゃないか?」
「仕方なくだよ。夏にゴキブリが大量発生して、あたしの部屋にまで傾れ込んだからさ」
淡々と吐き捨てると、二葉はベッドに座り両腕を伸ばす。
「んーんん……で、質問ってなぁに?」
もう眠いのだろう、欠伸を噛み殺している。
口調も気怠げ、早く解放してあげないと。
「インターネット見たいんだけどどうすればいい?」
二葉が閉じかけていた目を開き、きょとんとする。
「いんたあねっと?」
「その発音はなんだよ。インターネット、略してネット」
「ごめん、本気でわからない」
この世界じゃ言葉が違うのか?
でもOS名は元の世界と同じだったしな。
具体的に説明してみよう。
「えーと、パソコンから回線通じてアクセスして……あー、何というか、そこで色んな記事を読んだり調べたりできて……色んな人達が集まっているというか……」
二葉がパンと柏手を打った。わかってもらえたか。
「もしかしてパソコン通信?」
「ぱそこんつーしん?」
聞き慣れない言葉につい声がひっくり返ってしまった。
「その発音は何よ。パソコン通信、略してパソ通」
人の台詞を真似するんじゃないよ。
「それってインターネットと同じ?」
「同じなのかなあ? 別の言い方だと『ニフチャイサーヴ』、略してニフ」
元の名前はわかる、プロバイダの一つだ。
だったらインターネットとパソコン通信は同じなのかも。
「それって今繋げられる?」
「うん、その方が早いね」
二葉が席につき、98を起動させる。
動作の端々に使い慣れているのが窺える。
「手慣れてるな」
「この98はあたしと共用だから」
「共用? パソコンって家族に一人一台じゃないの?」
「この世界だと一家に一台それ以下だよ。三〇万円以上するし使い途ないから。我が家にしても主な用途はアレだもの」
二葉が壁の美少女ポスターを指差す。
三〇万円と聞いた途端、エロゲーが高尚で贅沢な趣味に思えてきた。
「アニキ、ここからは早口で喋るからよく聞いておいて」
なぜ早口?
そう問う間もなく、二葉が何やらソフトを立ち上げる。
同時に異音が鳴り始めた。
〈ピー……ピーヒョロロロ……ガーヒョロロ……ガガガガガガ……ガガッ〉
「このファックス音みたいなのは?」
「通信してる音。つながった。これがログイン画面。これが『フォーラム』。色んな分野のが一杯ある。入会して『電子会議』を覗けば会員同士が情報交換してるの見られる。これは『リアルタイム会議』。『チャット』って言い換えればわかる?」
見てる感じだと完全匿名ではなく、参加者全員がコテハンを名乗る掲示板っぽい。
「ふぅ~、以上」
二葉が【bye】と入力、息を大きく吐き出す。
気怠げだった口調はすっかり元に戻っていた。
「たったこれだけ?」
ただのクチコミ掲示板じゃないか。
「通信料金が高いのよ。ニフに一分一〇円、電話会社に三分一〇円。油断してると一ヶ月一〇万とかすぐにいっちゃう、というかいっちゃった」
「はいいいいいいいい?」
「一樹がさ、女の振りしてチャットするのにハマっちゃったのよ」
「ああ、ネカマね。ネットワークオカマ」
「ネカマっていうんだ。女性でパソ通やってる人少ないから、女の振りすればみんなが構ってくれるらしくてさ。聞いた話では女性会員の九割がネカマみたい──」
その理屈はわかる、現在でもネカマする人はいる。
しかし九割は盛っているにしても多すぎだ。
「──それがきっかけで一樹からパスワードを取り上げたんだ。親の手前あるから、悪いけどアニキにパスは教えられない。使う時はあたしに言ってね」
つまり「基本的に使ってはダメ」ってこと。
よほどの調べ物に限られそうだな。
二葉が「ちょっと待ってて」と部屋から出て、戻ってきた。
手には一冊のムック本、表紙は【よくわかるニフチャイサーヴ】。
「もし、よかったら。詳しい説明載ってるから」
ぱらぱらと冒頭からめくる。
すると、それこそ信じられないし信じたくない一節が目に入った。
【ネットワーク機能の充実が図られた次世代OSが発売される来年には、いよいよ本格的なインターネット時代が幕を開けようと……】
──来年?
と言うことは……この時代にインターネットはない!?
う、嘘だろ。
スパイは情報が命。
こんな状態でどうやって生きていけばいいんだ。
「うがあああああああああああああ!」
「ど、どうしたの? 顔が真っ青だよ」
「……あ、ああ、すまない」
気づくと二葉に両肩を掴まれ、ガクガクと揺さぶられていた。
どうやら卒倒しかけてたらしい。
落ち着け、落ち着け俺。
あるのが当たり前だから取り乱したけど、よくよく考えればネットなぞなくても人間生きていける。別にネットが炭水化物やタンパク質を与えてくれるわけではない。
それにとりあえず、いざとなればパソ通とやらはあるではないか。
それ以前に現在の俺はもうスパイではない!
「そうそうアニキ、ニフやる時は電話使えないから気をつけてね」
電話……そうだ! これも聞かないと。
「一樹ってケータイ持ってないの?」
「けーたい?」
もう嫌な予感しかしない。
「携帯電話」
「携帯電話はわかる。でも、この世界では高校生が気軽に持てる代物じゃないんだ。父さんの古いのならあるけど……見る?」
「お願いします」
二葉が再び部屋を出て、すぐ戻ってきた。
ゴトリ、と黒い物体を机に置く。
「これ」
「こんなのケータイとは言わねえ! ただの鈍器だ!」
わかっていても叫んでしまう。
きっと業務用なんだろうけどスマホの五倍は厚くて重い。
これで頭を殴れば瞬殺できそうだ。
しかし申し訳なさそうな目をしている二葉に気付く。
そうだ、こういう時こそどっしり構えないでどうする。
例えかりそめだろうとアニキはアニキだ。
二葉がふっと微笑み、別の物体を差し出してきた。
「リアクションは予想できたから、ついでに持ってきたよ」
これは俺にもわかった。
「ポケベルか」
「うん、あたし達はこれでやりとりしてる」
そう言えば、昔のマンガでは女子高生達がポケベルでやりとりしてたな……。
ようやく状況が飲み込めた。
一九九四年はちょうどケータイとインターネットが普及する直前なんだ。
恐らく翌年を境に、世の中が大きく変わっていくのだろう。
「じゃあ当然メールもないよな」
「ニフのメールはあるよ。でも周りは誰も使ってない」
「つまり送る相手がいなければ、あって無きがごとしか」
ネットもケータイもメールもない。
もうまるで石器時代に突き落とされた様な気分だ。
何かを知りたければ足で稼ぐしかないわけか。
あっ! 自らの着ているトレーナーを摘む。
「もう一つ聞きたい。一樹の服ってこれ以外にないの?」
「ない」
非常にあっさりと簡潔で、きっぱりとした答えが返ってきた。
二葉が続ける。
「そのニンフちゃん、っていうの? 一樹の彼女さんらしいから。『二四時間ずっと一緒にいたい』って、その服以外は買ってきても全部捨てちゃうんだ」
「つまり……」
「他の服を買って着ることは周囲にバレちゃうから許されない。寝間着だけは明日中に何とかするからさ……あふ……ちょうど眠くなっちゃった」
二葉は手の甲で口を隠しながら立ち上がる。
「じゃ、また明日ね。おやすみ」
扉が閉まる……まだだ。
足音が遠のく、隣室のドアが開く音がする、ぱたんと閉まる。
今だ。
ベッドに倒れ、枕に顔を押し当てる。
(むむむむむむむむむむむむむむむむむ!)
無理矢理に声を押し殺す。
隣室の二葉に気づかれない様に。
ネットもいい、ケータイもメールもこの際いい。
ロゴが彼女というなら、そこも譲ろう。
でも、このトレーナーだけは何とかして欲しかった。
やることなくなったし、このまま寝よう。
……眠れない。
疲れ果ててるのに、頭だけが変に冴えてしまっている。
仕方ない、眠くなるまで本日の行動をまとめよう。
こうしてベッドで一日の総括をするなんて、ますますギャルゲーじみてきた。
プレイしていた時は「コントロールキー長押し」でテキスト早送りしてたけど。
風呂場ではどうなるかと思ったけど、結果的には最高の展開となった。
二葉というサポーターを得る事ができたのは大きい。
これで家にいる間は素でいられるし、情報収集だって捗る。
それに、なんだかんだ言っても……楽しかった。
置かれた状況をすっかり忘れていた。
一緒に住むのが二葉でよかった、出会ったばかりですらそれくらいは言える。
ただ俺がプレイした時の二葉ってどんなキャラだったっけ。
お気に入りのヒロインではあったんだよな。
兄である俺にとって妹属性のヒロインは天敵と呼んでいい。
しかしゲームプレイ時の俺は一樹じゃなく主人公。
ただの腐れ縁的な属性だから心置きなく攻略できた。
まずチア部なのは人を応援するのが好きだからという理由だった。
応援と助ける、他人の力になる点では本質的に同じ。
設定通りだ。
ただ過去においては、二葉にもっと性的で即物的な魅力を感じた。
「かわいい」と表現してしまえば今と同じだが、意味合いは全然異なる。
妹代わりか攻略対象かという違いがあるから当然だが……プレイしたのは一〇年前だしなあ。
まあいい、その内思い出すだろう。
──よし、考え事はこれで終わり。
しかし目は冴えたまま、どうしよう。
仕方ない、本棚に並ぶ経済学の本でも読もう。
俺だってギャルゲーを楽しむくらいだし、エロは嫌いどころか大好きだ。
ただ節度というものがあるだけで。
この中だと気兼ねなく読めそうなのは「国際経済学」もとい「闘姉都市」か。
妹物、人妻物、母親物は受け付けない。
級友物は好きだけど、隣室の妹は同級生でもあるしな。
「上級生」の由来は「主人公がヒロインから見て上級生」という意味。
ヒロインの多くは後輩となる一年生、ついで同級生の二年生となる。
だから同級生の二葉は全体の中だとサブヒロイン的な位置づけだった。
ただし一部からはマニアックな人気を誇っていた。
確か「悲劇のヒロイン」と呼ばれて……あれ? そう言えばどうしてだ?
別に死ぬわけでもないし、病弱どころか超のつく健康優良児。
悲劇の要素なんかこれっぽっちもないのに。
まあいっか、「国際経済学」の勉強に励もう。
どれどれ……。
「闘姉都市」は実弟と結ばれたい姉達が繰り広げるバトル物。
しかし最初のページでいきなり秘奥義が炸裂するためバトルは一瞬で終わる。
戦闘装束は肌の露出した際どいデザインだが、秘奥義の際にヒロインも対戦相手も服が破れて全裸になるので意味がない。
さらにその次のページではすぐにエッチシーン。
……露骨すぎてつまらない。
女の裸は隠されているからこそ見たくなるもの。
おっぴろげにされても、かえって萎える。
むしろ見たいのは裸そのものではなく、それを恥じる心と言っても過言ではない。
そこに過程があり、必然性があり、葛藤があるからこそ、男は燃えるのだ。
正確には「燃え」ではなく「萌え」だな。
ん? 何かが頭の中でつながりかける……。
思い出した!
二葉が「悲劇のヒロイン」と呼ばれた理由!
やばい、聞かれた場合に備えて辻褄の合う話を考えないと。
ふぁあああああ……どうして考えるべきことができた途端に眠くなる……。
もうだめ……意識が……飛んでいく……。