03 1994/11/26 sat 出雲公園:いつから出雲学園は土曜日が休みになったのかね
臭気に耐えられないのでトイレを出る。
これ以上臭くなったらどうしよう。
そんな心配をするくらいには心の余裕ができた。
「現実は認めるためにある」、これはスパイの基本的な心構え。
どんな信じられない現象でも目の前にある以上は認めないといけない。
もし本当にここが上級生の世界なら、当時の攻略経験が役に立つかもしれない。
しかしプレイしたのは一〇年以上も昔。
記憶がおぼろげだから掘り起こさないと。
ひとまず時間と日付を確認しよう、腕時計を見る。
【1994/11/26 土 10:00】
およそ二〇年前か。
「上級生」の発売もそうだったな。
日付自体は俺が拉致された翌日。
一方で上級生のプレイ初日でもある。
「上級生」の攻略期間は「一一月二六日から一二月二五日まで」の一ヶ月間。
ただし最終日は告白するだけだから、実際の攻略期限は前日のクリスマスイヴまで。
まったく奇妙な一致もあったものだ。
土曜日なら学校は休みのはず。
それなのに学生服なのは、やはりギャルゲー世界だ。
改めて周囲を見渡す。
目線の高さに違和感はない。
一樹の身長は現実世界の俺と同じく一七五㎝くらいか。
所持品を確認しよう。
カバンは持っていないのでポケットをまさぐる。
パスケースの他にあったのは財布、キーケース、バタフライナイフ。
こんな凶器を日常的に持ち歩くとか、一樹は何を考えてるんだ。
財布の中にお札は一枚も無く小銭だけで、五百円玉すら無い。
いくら高校生でも普通はもっと持ってるだろう。
もちろんクレジットカードなども入ってない。
せめてスマートフォン、いわゆるスマホがあればおサイフケータイが使えるのだが。
そういえばスマホを持ってないな……当たり前か、スマホが普及したのはここ数年での話だし。
しかしガラケーもない。
恐らく家に忘れてしまったのだろうが、俺からすると信じられない。
一樹に電話を掛ける様な友達はいない。
あえて言うなら主人公が構っていたくらい。
だけど家族はいるはずだし、ケータイの機能は電話だけじゃない。
ポケットに入れてないと落ち着かないのが常人の感覚なはずだが。
ああ、でも一樹は常人じゃないからなあ。
金もない、ケータイもない、では何もできない。
何より混乱した頭で考え事をしても、ろくな結果になるまい。
なら、今できる事は……家に帰って寝ることだ。
結論が出たところで公園を出る。
さしあたって、出雲町のどこかにある自宅を探さないと。
電柱に貼ってある住所表示の表札が目に留まる。
【出雲町一丁目二二番三三号】
出雲町は「上級生」の舞台となる町。
もう腹を括るしかないな。
さて、一樹の自宅はどこだろう?
遠い記憶を頼りに、脳内へ出雲町のマップを描く。
マップ上で公園は左上、方角で言うと北西の外れ。
公園ではイベントが多かったから場所をはっきり覚えている。
──イベント?
そうだ、一樹が公園でヒロインのパンツを盗撮したイベントがあったぞ。
主人公が茂みに隠れた一樹に気づいて……二つのアイコンが一気にマップ下方へ移動して……右に折れたところで主人公が一樹をぼこぼこにして……。
つまり一樹の自宅は南方中程だ。
疑問の解答が舞い降りるとともに、その盗撮写真のパンツまでもが鮮明に蘇った。
ああ、俺はなんて恥ずかしい人間なんだ。
盗撮したのは一樹なのに、なぜか自分でやった様に思えてしまう。
それだけじゃない。
盗撮写真を食い入る様に見ていたのは、紛れもなく若かりし頃の俺なのだ。
きっと疲れてるんだ。
これ以上鬱になる前に早く帰ろう。
「君、ちょっといいかね?」
背後からの声に振り向くと警察官がいた。
めんどくさいなあ、ポケットからパスケースを取り出す。
身分証明証を提示してと。
「んじゃ、これで」
「待ちたまえ!」
去ろうとしたところで肩を掴まれてる。
「身分証明証は見せたでしょう」
俺は内調の職員だから極秘任務についてる可能性が高い。
だからいつもは身分証明証を見せるだけで事情を察して解放してくれるのに。
「だから君は出雲学園の生徒だろう、学校も行かずに何をしてるんだ」
へ!?
パスケースを見ると、入っていたのは出雲学園の生徒証……。
あー、そうだった。
今の俺は雨木紀貴ではない、渡会一樹なんだ。
つい、いつもの調子で振る舞ってしまった。
ここは高校生を装わないと。
「学校って、今日は土曜日でしょ?」
「訳のわからぬ事を。いつから出雲学園は土曜日が休みになったのかね」
へ?
土曜日は学校休みだろ?
特に今日は第四土曜日。
俺は小中高と公立通いだったけど、その全てにおいて休みだったぞ?
「怪しいな。最近この辺に変質者が出るという通報もあったし、交番まで同行してもらおうか」
その変質者とやらは本当に俺、もとい一樹な気がする。
いや、それだけじゃない。
ポケットの中にはバタフライナイフ、所持品検査をされたら一巻の終わりだ。
逃げなくては!
ダッシュする──も体が重くて走れない。
あの主人公から逃げる時の足の速さは火事場の何とかだったのか。
すぐさま腕を掴まれ、交番まで連行された。
──交番内には俺達二人だけ。
「そこの椅子にかけなさい」
逃げるか? しかし出口との間はカウンターで遮られている。
法律論でゴネるか? 俺が逃げる前に肩を掴んだ行為には違法の疑いがある。
いや、高校生が法律論なんて持ち出したって聞いてもらえるわけがない。
単に心象を悪くするだけだ。
アクションを考えあぐねていると、警官が眉間にシワを寄せつつ口を開いた。
「ちゃんと学校に行かないとだめだろう。たまにはさぼりたくなるだろうだけど……」
何やら説教をし始めた。
そんなの耳を傾ける気はないので警官を観察してみる。
五十歳くらいかな。
険しい目とエラの張った顎がいかにも厳格そう。
物言いは頭ごなしな物言いながら、口調自体は優しげで諭す感じ。
別段、不快に思わない。
これなら何とかなるかも……よし。
「……君はどうしてこの時間に公園にいたんだね」
「僕、学校でイジメられてるんです。みんなに無視されてて……だから行きたくなくて……気がついたら公園のブランコに乗っちゃってました」
目を伏せ、ゆっくりと言葉を溜めながら、ぼそっと呟く。
みんなからキモがられて友達がいないという設定だから、嘘ではない。
何もわからないまま学校に行くのを思うと気が重くなるから、ある意味真実。
嘘を吐く時はできるだけ真実をベースにする。
スパイの基本である。
最初に説教から始めるところからすると、本気で変質者と思っているわけじゃあるまい。
もしそうなら先に本題を切り出す。
推測を裏付ける様に、警官は調書をとっていない。
だったら適当に納得してくれる程度の言い訳を与えておけばいい。
警官が哀れんだような申し訳なさそうな表情で返事をする。
「事情はわかった。ただ私も仕事、学校には連絡させてもらうよ」
きっと優しい人なのだろう。
この状況でそれで済むなら俺としても十分、こくりと頷く。
「公園にいたという事実しか伝えないから安心しなさい。学年と組と名前を教えてくれるかな」
「二年B組 渡会一樹」
警官が出雲学園に電話する。
先方が出たらしい、俺の名前を告げている。
「はい、はい……ええっ……はいわかりました。そうさせていただきます」
警官は電話を切ると、揉み手をしながら薄ら笑いを浮かべて首を竦めた。
先程までと打って変わった卑屈な振る舞い。
この変貌ぶりはなんだ?
「人が悪いですね」
「は?」
いきなりの敬語使いに戸惑ってしまう。
「渡会K県警本部長のお坊ちゃんなら初めから言ってくれればいいのに」
何それ──釣られて驚きそうになるのを抑え込む。
俺はもう、渡会一樹なのだ。
もし誰かに中身が入れ替わったことを話しても信じてもらえるわけがない。
それどころか間違いなく精神病院送り。
そんなの冗談じゃない、絶対バレてはいけない。
幸い、俺はスパイ。
他人の演技をするのも仕事の内だ。
いかにも一樹らしい返答を考えて口を開く。
「いえ、父は父。僕は僕ですから」
「どうかお父様には本日の事を御内密に」
警官は米つきバッタのごとく頭を下げながら、俺を交番から送り出した。
──もやもやした思いを抱えながら、再び自宅探しの旅へ。
さっきのは何だったのか。
一樹の親が警察のお偉いさんなんて素っ頓狂な設定、ゲーム内になかったぞ?
でも納得はする。
なぜなら一樹は学園や街中の至るところで盗撮を行い、その準備として被写体のストーカーすらしていた。
しかも周囲はそれを知っている。
親がそういう立場の人間でもなければ、そんな犯罪者が逮捕されないわけがない。
また、肩書にK県と付け加えた以上、ここはK県ではない。
つまり一樹と父は別居ということ。
助かった。
そんな父親と一緒に住むのは絶対に嫌だ。
一樹が一六歳ということからすると、恐らく父親はアラフォー~五十代前半。
それで県警本部長ということは警察庁のキャリア様。
内調も室長から課長の大半に至るまでが警察庁のキャリア様。
キャリア様は傲慢で偉そうで上から目線だから大嫌いだ。
そしてノンキャリアの俺は役所でキャリア様に頭下げさせられてる身。
さっきの警官の態度が他人事とも思えない。
ああ、後味が悪い。