01 2013/11/25 Mon 内調オフィス:お前みたいな女と寝るほど安くない
ここは内閣府庁舎内の内閣情報調査室というお役所。
およそ二〇ほどの机が並んだ飾り気のないオフィスルーム。
壁時計を見やると二二時前を指そうかというところ。
他の職員達はとっくに退勤してしまっている。
俺だって本当は帰りたい、でも目の前に積まれたファイルが許してくれない。
なんせ明日からは長期研修。
仕事を投げたままで出かけるわけにはいかないから。
はあ、もっと人増やしてよ。偉そうな役所名のくせに職員が少なすぎるんだよ。
CIAもこんな日に情報寄越すんじゃないよ。
せめて日本語で渡してくれ。
でもあとちょっと……薬指で【。】をタイプ、その反動で右手を跳ね上げる。
テレビからニュースが流れてきた。
〈只今、衆院本会議で特定秘密保護法案が賛成多数をもって可決されました……〉
色々揉めたけど、遂に衆院を通過したか。
特定秘密保護法案はいわゆるスパイ防止法みたいなもの。
そして目の前に積まれたファイルはまさにその特定秘密と呼ばれる国家機密情報。
例えばあの国で有力者が失脚しそうだとか、この国のミサイル配備状況とか。
俺はそれを扱うケースオフィサー──俗に「スパイ」と呼ばれる人種である。
香水の香りがふわりと鼻孔を擽った。
甘く、大人っぽく、優しく、それでいながらすっきりと可愛らしい花束の様な香り。
少し遅れて、机の上にコーヒーが差し出された。
「雨木君、お疲れ様」
声と香りの方向には、同期の北条がいた。
軽くブラウンに染めたショートカット、細身の体型にフィットしたパンツスーツ。
小顔にぱっちりと見開かれた目は、化粧っ気が薄いのもあって嫌味を感じさせない。
もっとも、悪く言えば色気も感じない。あくまで同期の同僚。
俺……いや恐らく互いにとって、それ以上でも以下でもない存在である。
「お前、まだいたの?」
北条が頬をぷっくりと膨らませる。
「『まだいたの』の前に言うべき言葉があるんじゃないかな」
「ごめんなさい、そしてありがとう」
膨らんだ頬を元に戻し、代わりに笑窪を浮かび上がらせる。
「素直でよろしい。あたしは上への説明と決裁済ませて戻ってきたとこ」
「ああ、そっか。お前も俺と一緒に研修だもんな」
つまり事情は俺と同じだ。今までは別室にでもいたのだろう。
「雨木君も今終わったんでしょ」
「なぜわかる」
「右手をぱしーんと跳ね上げてたもの。相変わらず自分に酔ってるなあって」
斜目がちな視線を寄越しながら、けらけら笑う。
「酔ってるわけじゃねえよ。癖だ、癖」
「どっちでもいいけど少しは人目を気にした方がいいと思うよ」
「大きなお世話、とっとと帰るぞ」
──退庁、二人の住む永田町に足を進める。
傍から見れば羨ましいであろう超一等地の官舎。
しかしそれは休日だろうと呼出しがあれば三〇分以内に職場へ駆けつけないといけない身のため。
こんな半ば拘束されたも同然の生活で恋人探しなぞできるわけもない。
北条がフリーなのもきっと同じ事情だ。
俺の側は年齢イコール彼女無し歴、生活だけを理由にできないけどさ。
国会議事堂前にさしかかると、溢れかえる群衆がデモを行っていた。
拡声器でがなり立てるシュプレヒコールが耳をつんざく。
〈特定秘密保護法案はんたーい!〉〈はんたーい!〉
〈官僚の情報独裁を許すなー!〉〈許すなー!〉
〈日本の歴史に汚れた足跡を残すなー!〉〈残すなー!〉
群衆が叫ぶ通り、本日二〇一三年一一月二五日は日本史に残る日となるだろう。
太平洋戦争終戦以降、日本はスパイ大国と言われるくらいに敵国スパイが野放しにされている状況だった。二〇〇〇年代初頭まではそれに触れる事すらタブーとされてきた。
そんな日本が、ようやく敵国スパイに対して実効性ある武器を手にしたのだから。
とは言え、実務上は守秘義務が強化されただけ。
恐らく殆どこれまでと変わらない。
お偉いさんには大人の事情があるだろうが、俺達みたいなノンキャリアの下っ端には無縁な話。
情報独裁だなんて浮世離れして聞こえるのが本音だ。
北条はデモに見向きすらしていない。
「役所を一歩出れば仕事の事は全て忘れる」がこいつのポリシー。
ただ顔を強張らせ、歯をカチカチと鳴らしている。
口元がふっと緩んだ。
「ホントに冷えるよねえ、赤坂でラーメン食べて帰らない?」
男女二人の組合せで誘ってくるのがラーメン。
色気なんてあったものじゃない。
「いいよ、いこっか」
でも確かにこんな寒い夜はラーメンに限る。
俺達って気は合うんだよなあ。
北条はえへへと笑いながら体を起こし、小気味のいいヒール音を鳴らし始めた。
一見颯爽としているが、その顔はすっかり緩みきっている。
彼女の頭の中には既に暖かなスープがなみなみと注がれているだろう。
「寒い日に温かいラーメンを食べられる、そんな生活って最高だよね~」
「そう思えば、たまの残業も悪くないな」
北条がちらりと目線を寄越す、そして何やら吹き出した。
「なんて締まりのない顔してるのさ、みっともないよ」
「お前が言うな!」
※※※
ラーメンを食べ終わり、宿舎に到着。
店を出てからずっとにこやかな北条が声を掛けてくる。
「それじゃまた明日、研修でね」
「おう、おやすみ」
さてと、早く部屋に戻って明日のじゅん──。
「むむむ、むむむ!」
誰だ、放せ!
しかし背後から口を抑えられて言葉にならない。
腕を振り回し足を蹴り上げるも、羽交い締めにしている奴はびくともしない。
「んぐぐー、んぐー──げぶっ」
腹部に鉄球がのめり込む様な衝撃。
「──うぶっ、──おぶっ」
さらに二発、三発。
ラーメンが胃から逆流し口から漏れ出る。
痛い、息苦しい、俺は一体何をされてるんだ……。
※※※
目が醒めると、大の字に寝かされていた。
薄明かり一つ漏れてこない完全な暗室。
視界はただひたすらに続く闇に遮られている。
背中に直接触れるサラサラした布、そして妙な下半身の涼しさ。
どうやら全裸でベッドの上らしい。
腕と足を動かしてみる。カチャリという金属音とともに動きが遮られた。
生きてはいる、しかし囚われたのは間違いない。
「起きた様だな」
女性の声。
静かな物腰ながらもぶっきらぼうな物言い。
刺激してはまずい。
叫びたい衝動を抑え、相手のトーンに合わせて問いかける。
「誰だ」
「スパイのくせして、そんな陳腐な質問に答えてもらえると思うのか?」
思います。
スパイと言っても日本の場合は「ごっこ遊び」に等しい。
こんな風に拉致されて尋問される様な仕事は何一つしていない。
しかし胸中を見透かした様に、女性が言葉を繋げた。
「さっき特定秘密保護法案が可決されただろう。あれは世界各国が繰り広げる諜報戦争に日本が宣戦布告した事に他ならないんだよ」
「つまり?」
「あの瞬間、君はスパイもどきから本物のスパイになったということさ」
「そんなもんなりたくねえ!」
当たり前だ。
本物のスパイとしては待遇が悪すぎる。
給料は安い。
振るえる権力だってない。
ノンキャリアの俺は出世もできない。
挙げ句こんな危険な目にまで遭うのに!
「君の都合なぞ私達の知った事ではない。ようこそ、血も涙も無い、目的のためなら何ら手段を選ばない、人でなし達の集まる舞台へ」
くすくす笑ってやがる。
恐らく日本と敵対する国の情報部員か。
悪態の一つもつきたいが、ぐっと飲み込む。
「じゃあ何の用だ」
「今からわかるさ。雨木君、君の名前と年齢は?」
名前を言っておいて、敢えて聞く。
まさに「素性は調べ尽くした」という恫喝。
「雨木紀貴、二六歳、ついでに入局四年目のノンキャリア」
その後は住所、生年月日、所属や専門など簡単な質問が続く。
「置かれた立場は自覚している様だな。従順な態度には好感が持てるよ」
「お陰様で」
逆らえばその場で殺されるだろうからな。
例え逆らわなくても殺されるかもしれないがギリギリまで出方を伺いたい。
助かるチャンスを見出すんだ。
「雨木君、ここはもう一つ素直になってみないか」
「どういう意味だ」
「知れたこと、我が国の手足になれと言っている。我が国のために情報を集め、我が国のために工作を行い、我が国のために人生を費やせ」
事態を把握した、そういうことか。
現在の日本は秘密を漏らしても国家公務員法違反だけな上、現実に罰せられる事は殆どない。
だから政も官も警戒心なく簡単に転ぶ。
しかし特定秘密保護法が施行されれば最大懲役一〇年。
僅かな見返りで協力しようとする人はきっといなくなる。
だから今の内に、こんな荒事をしてまで協力者を増やそうとしているのだ。
そんなの考えるまでもない。
殺されるよりマシ、素直に国を売らせてもらおうじゃないか。
……と言っても、即答するのはさすがに間抜けだ。
少しは抵抗してみせてからだな。
わずかな沈黙が流れた後、女性が声を発した。
「もちろん『ただで』とは言わない。私もそれなりの見返りを用意してある」
パチンと指を鳴らす音がする──うっ、眩しい。
咄嗟に目を瞑る。
小さく鋭く尖った発光からすると単なるペンライトだろうが、暗闇に慣れた目にはきつい。
ヒールの音が近づいてくる……音が止んだ。
ベッドが軋む──のし掛かられた?
何者かが頭の後ろに手を回す。
蠱惑的な香水の強い匂いに吐き気がする。
胸に柔らかく生温かい物が押し潰される。
──唇を塞がれた。
「ん、んんー」
顔をねじり、唇を外す。
目を開く。
そこにいたのは悪戯っぽく笑う裸の女だった。
「あら、つれない」
「何のつもりだ!」
離れた位置から、最初の女の声が聞こえてくる。
「まずは愉しむがよい。その後で先程の返事をもらおう」
腹上の女がニヤリとしながらカメラを突きつけてきた。
「ただし貴方のイッた顔は撮らせてもらっちゃうけどね~」
ただの脅迫じゃないか。
「悪趣味な」
「サービスのつもりなんだけどな。その方が興奮しない?」
女が太腿に股間を擦りつけてくる。
腰の動きに合わせ、息遣いが荒くなる。
胸に置かれた手が腹まで這い下り、さらにその先へ進もうとする。
──もう、我慢できない!
「やめろ!」
「な、な、何よ!」
女が上半身を跳ね起こし、きょとんとした。
正面切って、静かに、低く、重く、言葉のハンマーを振り下ろす。
「どけ。そして下りろ。お前みたいな女と寝るほど安くない」
初めては自分が惚れた好きな女とやる。
それは俺が自らに誓った譲れない約束。
二六年間童貞を貫いてきたのは、こんなビッチに捧げるためじゃないんだ!
もう一人の女が所在なげな調子の声を発してきた。
「それは私と寝たいということか? 生憎と私にそういう経験はないから、君を悦ばせてやる自信がない」
誰がそんな事を言った、そして誰がそこまで聞いた。
いかに流暢な日本語を操ろうと、話が通じないところはやっぱり外国人だ。
「誰であろうとお断りと言ってるんだ」
「ほう……でも敢えて聞いてやろう、私達の申出に対する返事は?」
今度こそ間違いなく俺の意志を伝えてやるよ。
「お断りだ! ノー! ニェット! アニョ! 拒绝!」
「見上げたものだ。つまり『無慈悲な扱いを受けてもいい』と受け取って構わないのだな?」
「好きにしろ」
俺も意地だ。
男には死んでも守らなければいけないものがある。
「では私なりのプレイで、存分に愉悦を味合わせてもらうとしようか」
コツコツとヒールの音が近づいてくる。
仄かな灯りに体だけがぼんやりと浮かぶ。
白衣らしき上着に濃色のタイトスカート。
医者かその類の研究者に見える。
ヒールの音が止む……腕を掴まれる──チクっと痛み!?
「何をした!」
「だから、それを答えてもらえると思うのか?」
光の加減で顔は下半分しか見えない。
しかし、その口端は邪悪に吊り上がっていた。
喉が焼ける様に熱い。
動悸が激しい。
体が火照る。
頭が朦朧とする。
体がふわふわ浮きあがり、上下の感覚がないままぐるぐると回転を始める。
あれれ……何だか笑いがこみ上げてきたぞ。
「あは、あはは、あはは」
「いい表情をするじゃないか。そのまま安らかに旅立つがいい」
「はぁい」
「じゃあな、おやすみ」
──再び目を覚ました時、俺は全く見知らぬ公園のベンチで寝ていた。