優しい週末を
妻とぼくは野外劇を、観に行くことを楽しみにしていた。
過去形の思いを胸に、生きて行かないければならなくなったのは、今年のこと。
今、ぼくの傍らに妻はいない。
妻は死んだ。
ぼくは妻が、死ぬなんて思ってもいなかった。
だって、彼女はいなくなる前の日まで、ぼくの傍らにいて笑っていたのだから。
朝のまどろみの中で、妻はぼくに話しかける。
ぼくはそれが、夢だと分かっているのに懸命に答えようと、している。
それは、毎日の日課の様に繰り返された。そして喪失感を募らせる。
泣きたいのに涙が底をついて、出てこない。
様々な感覚が、少しずつ日々を重ねる中で、現実から離反していく。
そんな日々の中で、ぼくに一筋の光明となっていることが、あった。
それは週末に妻の弟と、過ごすことだった。
最初は弟からの静かなる誘いだった。
妻の弟は東樹英学舎という寄宿舎で学んでいた。齢は、妻よりも7つ下の二十歳。
将来は学舎の担任、羽凍 哉先生の様な教師になりたいと語ってくれたことがあった。
妻とぼくの結婚式では介添え役をしてくれた。
そして、ぼくの喪失感を敏感に感じ取ってくれた者も、彼であった。妻の父と母は、
「避けようの無い事故だったのだから、忘れてほしい」
と、ぼくに忘却を望むばかりだったし、ぼくの父と母も同じく忘れた方が新しい人生が開けると、言い放った。
けれど妻の弟だけは、違った。
最初の誘いは、夕食。妻が死んで、四十九日が経ったころ一通の手紙が手元に届いた。か細い字で、それは書かれてあった。
「前略 兄様。お元気ですか。こちらは皆、元気です。昨日。先生と学友と、四人で連れ立って央樹へ観劇に行ってきました出し物は『ハムレット』もう、何度も観ていますが、央樹芸術院附属歌劇団の新しい顔、『前苑 櫻』の初めての公演とあり違った感動を覚えました公演用の図録には、ハムレットの衣裳を着けた前苑 櫻が凛々しく、微笑んでいます。
その図録を兄様に見ていただきたいので、一緒に食事をしませんか。
無理は、言いません。
土曜日の午後一時、東樹の駅でお待ちしてます。では。お元気よう。桃李 草々」
弟は屈託の無い明るさをぼくに見せた。
ぼくは彼だって、亡くした人の大きさに泣きたくなる時だってあるだろうにと、感じた。会って話すだけなら大丈夫だと、自分に言い聞かせて弟に会うことにした。 弟に手紙を返して、それからの日々は、少しだけ楽に暮らせた。
何か一つ、手土産にと考えた。
彼は何が好きだったか、思い出してみた。
学舎では、クリケットのセンチュリー候補だった。
クリケットは、我が国を統制している統制本国が発祥で駆け引きのある運動だった。
弟が選手で出場した、試合を一度だけ妻と観戦しに出かけたことがあった。
その時。弟は随分、活躍した。そんなことを思うと、やはり妻の家とは縁が切れてはいけない気がした。手土産は、クリケットのバットにしようと、考えた。 前苑 櫻の『ハムレット』は、前評判が高かった。
ぼくの仕事は舞台美術屋だから、弟から話が出なくても、当然知っていた。
周囲は、やはり前苑 櫻の話題で持ちきりだった。
「前苑 櫻は、十年に一人出るか出ないかの逸材だって、批評家も話していますからね。ストレートプレーも、音楽つきも、舞踏も、全て兼ね備えている者なんて、そうざらにはいませからね。舞台美術屋の者も、やりがいを感じるはずですよ。彼と組めば」耳の裏側の方で、そんな言葉を聞きながら意識は次に受け持つ作品、『鳩の翼』に及んでいた。
主役をはるのは、往年の美男俳優。
古手川 壱之助だった。壱之助は、統制本国の作品を毛嫌いしていた。
「若手は、統制本国の圧しに弱い」
と発言し、随分仕事が減ったとも聞いていた。
我が国が、統制されているのは、我が国が先に仕掛けた、宣戦布告が戦争に拡大しないうちに処理するための統制と聞いた。
我が国が、宣戦布告したことを反省して、詫びる文書を残すなら統制は解除されるのだった。
そんな時に、発言する内容ではないと、非難を浴びた。壱之助は暫く抗っていたが、それは今の時代に相応しいことではないことを悟った様で、今回の出し物となった。
ぼくはそんな経緯の舞台を最高の出し物にしようと、検討を重ねた。
日々は、素早く動いて週末を連れて来た。
弟に指定された場所に出向くと、彼は葬式の時のままでぼくを待っていた。
「こんにちは。兄様。よく、おいで下さいました。ありがとうございます」
「こんにちは。今日はお招きありがとう。楽しみにして来たよ」
弟は微かに頷いた。
きっと、学舎の制服なのだろう。
身体に合った、寸分の狂いも無いジャケットに細めのボトム。
カラーの高いシャッツにレジメンタルのタイ。靴はよく履き込んだ黒い革の靴。
少し見ぬ間に大人になった様に見えた。
悲しみを昇華することは、出来たのだろうか?ぼくは、弟の顔を少しの間見つめた。
「兄様、行きましょう。今日は、東樹の郷土料理をたっぷり、堪能して下さい。今の時期だと、アスパラガスが最高に美味しいですよ。学舎の料理にも、よく出されます」
果樹格子垣の家並みが、開け放たれ駅の出口より、見えた。
白い壁の家々が道の先まで連なっていた。
「そう。アスパラガスは好物だよ」
「よかった。それと、羊の肉。そして、葡萄酒。スープが、今日のブランチです」
言いながら、駅の出口へと向かった。
駅舎の外へ出ると、白い家並みに光が反射して静かな佇まいがそこにあった。東樹は、花の街と言われていた。
その理由が一目瞭然だった。
花たちは、そこかしこに咲き乱れていた。
この景色に、言葉を交わすのがためらわれるのか、弟は無言で歩いていた。
ぼくも、花の健やかさに少しだけ、自分をあずけて歩いた。
「東樹は、花が綺麗だね」
。
「光栄です」
歩を進めて行くうちに東樹英学舎が、近くなって来た。
「兄様。教諭より、許可を頂いたので少しだけ、東樹英学舎の中を散歩しませんか?」
弟に頷いてみせた。
「では、学舎の科棟から続く林檎の木の遊歩道を通って、鈴川の堤を歩いて、パントに乗って、茶房へ行きましょう。兄様のお好きな風景が見つかるかもしれません」
。
「ありがとう」
。
「学舎のパントが借りられます。生徒が棹をさすのであれば、大丈夫です」
。学舎の門が見えた。
学舎の門より校内に入り、ぼくと弟は科棟の横を通り過ぎた。
林檎の木は、果をつけているらしく、果を紙の袋で覆ってあった。
弟の話によると、病害虫から果を守るための作業なのだそうだ。
弟は指をさして、一つ一つの風景をぼくに話していった。
それらは、妻と暮らした日々の中にも確かにあった。忘れ様としていた日々。
「綺麗だね」
ぼくと弟は、何気ない会話をした。
散歩というには早足すぎて、けれど逍遥というには足の運びが遅すぎた。
川の堤にたどり着くと、ぼくと弟は平底のパントに乗った。
欧風の建物が心の中のある思いを呼び覚ます。
それは、妻と式を執り行った、建物での、その日の一部始終だった。
妻の知人は、ぼくの介添えをしてくれる、弟をぼくのところへ連れて来た。
「おめでとうございます。いい、日和で何よりですね」
。「ありがとうございます。今日、よろしくお願いいたします」
。
「李々さんの弟さんが、介添えをして下さいます」
。
「兄様、おめでとうございます。今日は、立原家の親族代表として、介添えをさせていただきます」
。弟は、手巾に包んだ指環を出した。
「指環は、右外ポケット。花を一輪左ポケットに飾って下さい。左内ポケットに手巾を一枚入れておいて下さいね」
。
「李々さんを幸せにします」
。
「ありがとうございます」
。
「写真を撮ります。前庭の石段のところにどうぞ」
前庭の石段には、妻が笑顔で腰を下ろしていた。
妻の隣に腰を下ろし、妻の横顔を見つめた。
指環の交換。誓いの言葉。厳かな気持ちと、大切な人への愛。
全てが満ち溢れ、輝きを増していく。あの日のことを考えていた。
「兄様。着きました。ここから、歩いて行きます。今、何を思っていたのですか。ずっと、黙っていたから。姉のことなら悲しい」
ぼくは、弟にとっさに嘘をついていた。
「ぼくは、この風景の中で学んでいる、桃李くんが羨ましい」
。
「光栄です」
。微かに笑む、弟の顔を見つめた。舟は、目的地に着いた。ぼく等は、午後の光の中で舟を堤につけた。
『李々、きみの弟。桃李くんと二人でこうして、歩いているよ。きみをなくした悲しみと、闘っていたぼくに手を差し伸べてくれたんだ』。「兄様。どうして、ぼくのこと桃李って、呼び捨ててくださらないのですか?ぼくたち、家族になったのに」
。
「きみの家族とは、少し距離が遠くなってしまったからね。でも、こうして二人でいる時は、桃李と呼ぼう」
「だったら、今まで通りに」
返事はしなかった。それは、弟への気持ちではなく、妻の両親への配慮だった。
やがて、川からの道を上がって行くと、大通りに突き当たった。
大通りは石畳の通りになっており、革の靴で歩くとコツコツと、音がした。
ぼくと弟は、石畳に靴音を響かせて、中小路へと、入って行った。弟の選んだ店は、そこにあった。店の中に入り、弟は告げた。
「予約を入れてあった、立原ですが」
。
「いらっしゃいませ。立原様。お連れ様とお二人ですね。こちらへどうぞ」
。案内されたのは、奥まった席だった。静かな店内には、ピアノの音が流れていた。ぼくは、席に着くと弟に持参した、手土産を渡した。
「これ、クリケットのバット」
。弟は、手渡した紙の手提げ袋をあけた。「兄様。こんなにして頂いて、嬉しい限りです。本当にありがとうございます」
「ぼくの方こそ」
。店の彼方から、店員が食前酒の注文を取りに来た。
「こちらには、マルキーニ。そして、ぼくには蜂蜜とカモミールの薬草酒を」
。
「待って。ぼくにマルキーニは強すぎる」
。
「それじゃ、こちらにも同じ薬草酒を」
。
「かしこまりました」
。店員は退いた。
「酒豪だと、思ってたから」
。
「ごめんね。葡萄酒をたっぷり堪能したいから。食前酒は控えるよ」
。
「兄様。姉が柩で運ばれていく時、『ぼくも逝くよ』と、泣いていたのを思い出します。ぼくと二人で、姉の柩の前で酒を飲んだ時、兄様は本当に逝ってしまうのではと、思いました。葡萄酒を幾本も空けて、
『ごめんよ』。『ごめんよ』って。何度も、何度も。ぼくは胸がつまる思いでした」
。「今は、その話に触れたくはないんだ。これから、出される料理を堪能しよう。李々はもう、この世にはいない。桃李くん、そう呼んでも気にかけたりしないでおくれ。今日一日なすがままだよ」
。弟は返事をして、俯いた。食前酒と、軽く喰むものが出されると、
「さぁ、どうぞ」
と、すすめてくれた。ぼくは食事の前の祈りをした。
「食せることに感謝します」
。その後、
「桃李くん、乾杯」
と、ラフな乾杯をして食前酒を飲み干した。
「美味しい。薬酒なんて、小さな人の気付け薬くらいにしか考えていなかった。もう、一杯ほしい。いいかな」弟は、ぼくの顔をのぞいた。
どう仕様もない、悲しみを振り払うには酒と、女と、博打と、シネマトグラフで観た様な気がした。
だから、弟にもそんな風に言ってみた。けれど、弟は俯いてしまった。
「兄様。どうか、飲み過ぎませぬ様に。シャトーデェトウジュの葡萄酒を飲むための余力をどうか、お残しになって下さいね」
。
「そうだね、食前酒に酔いつぶれるなんて、関心しないな。自分としても」
。葡萄酒配膳人が、盆に幾本かの葡萄酒をのせて、
洋杯と共に卓に持参した。
「いらっしゃいませ。私どもの店では、シャトーデェトウジュの蔵より、厳選いたしました葡萄酒を当店の地下で保存しております。今日は、立原様の大切なお連れ様のために特に厳選させていただきました。こちら、1954年ものの赤でございます。そして、こちらは翌年1955年ものの赤でございます」
葡萄酒配膳人は、葡萄酒用の洋杯に葡萄酒を注ぐと、卓の傍らに立った。
「乾杯」
と、杯を合わせて、弟は話し出す。
「兄様。ぼくは兄様の弟になれて、この上もなき幸せです。姉が死んだ時は悲しくて、兄様を直視出来ませんでした。でも、大切な家族の一員だからこうして、会うことを決意したのです」
「ぼくを今でも、家族の一員だと思ってくれているの。何故だい。きみの父様も母様も、忘れてほしいとおっしゃるだけなのに」
。
「分かっています。兄様は、明日の御身がある方。ぼくもそう、思いました。でも、無性に会いたくなって。兄様は、伴侶をなくした喪失感。ぼくは、姉をなくした喪失感。立場は違っても喪失感は、一緒です」
ぼくは弟の目の中に粒になる前の涙をみた。「桃李くん、憶えているかな。きみとご両親と、李々。そして、父と母とぼくとで、会食したの」
「憶えています。あの日は、疾風山の山荘の庭で」
。
「そうだったね。あの日の料理は、格別に美味しいかった。愛しい人たちに囲まれて、幸せだった」
。料理配膳人が料理を運んで来た。弟は説明を求めた。
「いらっしゃいませ。本日の前菜に使用しました、白アスパラガスは、ここ東樹の地で採れました物でございます。今日は、マリネでお楽しみいただきます。そして、じゃがいものパイ包みです。こちらのじゃがいもは、秋に収穫した物を地中に貯蔵して、甘味を増した物を使用しております。パイ皮に使用した、バターは東樹英農場より、毎朝とどきます。小麦粉は、いずれの料理も、北都産で、根比の物を使用しております」
。料理配膳人は、葡萄酒配膳人と入れ替わり卓につく。無言でいると弟の思いの中に溺れていく。心の中で、妻にきく。
『李々、桃李くんに甘えていいかな。忘れなくていいのかな』。食事は、次々と、進み最後に林檎が出されたころには、外は夕刻の色を見せていた。食事を終えて、先ほど来た道を戻る時、弟は、告白をした。
「兄様。ぼくも、悲しい。優しい伴侶を見つけた。週末また、会って下さい」
。ぼくは、弟を抱いて涙を流した。夕刻の時が二人を包み、駅まで歩く足取りは、少しだけ軽くなっていた週末のささやかな、思いの確認は、続いた
終わり