毒見の聖女は追放されました ~辺境の村で、世界一怖い店主のごはんを食べています~
震える手でごはんを食べる私に、その人は黙って角砂糖をくれた
一
「地味なんだよ、お前」
勇者ゼロス・ディバインは、白すぎる歯を見せてそう言った。
городの大聖堂の裏、報道用の魔導カメラが回っていない場所で。表では今も、彼が魔獣の群れから村を救った英雄譚が語られている。実際にはあの村に魔獣を放したのが誰なのか、私は知っていたけれど。
「聖女って肩書きは悪くなかったよ。でもさ、絵面が持たないんだ。お前、光らないだろ。回復もできない、攻撃もできない。カメラの前で何ができる?」
厚底のブーツが石畳を鳴らす。私より頭ひとつ高く見える背丈は、その靴のおかげだ。
「毒見しかできない女なんて、聖女じゃなくてただの——」
そこから先は、言われなくてもわかった。
三年間。私は彼の食卓に並ぶすべてのものを、先に口へ運んできた。スープも、肉も、酒も、水も。喉が焼けたことが四回。三日間寝込んだことが二回。一度だけ、心臓が止まりかけた。
そのたびに彼は「よかった、俺じゃなくて」と笑った。
「装備も置いてけよ。教会からの支給品だから」
外套を剥がされた。ローブも。残ったのは、下に着ていた麻の服だけ。
「まあ、実家に帰れば? 男爵家だっけ。三女なら、まだ嫁ぎ先くらいはあるだろ」
ラングレー男爵家。私が聖女に選ばれた日、父は泣いて喜んだ。家の格が上がると。
その家に、役立たずになって帰る。何が起きるかは、想像がついた。
私は何も言わなかった。三年、何も言わずに飲み込んできた。今さら言葉の出し方がわからない。
門を出るとき、雨が降り始めた。
二
どこをどう歩いたのか、あまり覚えていない。
街道を外れ、名前も知らない村をいくつか越えた。四日目に金が尽きて、六日目に靴の底が抜けた。雨は降ったり止んだりを繰り返し、私の体は水を吸った布のように重くなっていった。
七日目の夕方。
視界の端に、灯りが見えた。
小さな村だった。石造りの家々と、畑と、なぜか二十四時間営業らしき明るすぎる食堂。その喧騒から少し離れた路地の奥に、その店はあった。
黒い暖簾。白い文字で「鬼龍」。
雨に打たれながら、私はその前に立っていた。中から出汁の匂いがする。
——ああ、だめだ。
匂いを嗅いだ瞬間に、体が理解してしまった。私は限界だ。ここで座ったら、たぶん二度と立てない。
暖簾を、くぐった。
「————」
顔を上げて、息が止まった。
カウンターの奥に、男が立っていた。
背が高い。異様に高い。天井に頭が触れそうなほどで、しかも肩幅がある。黒いシャツの腕がまくられ、その下の腕が、人間の腕の太さではない。
そして、目。
深い赤黒の瞳が、まっすぐにこちらを向いていた。
私は三年間、毒を口に運び続けてきた。それでも、この人ほど「死」の匂いがするものに触れたことはない。
——逃げろ。
体の奥で、何かがそう叫んだ。獣が捕食者に出会ったときのような、理屈のない警報。
でも、足が動かなかった。もう動かなかったのだ。
「……あ、の」
声が出ない。
「金は無いのか」
低い声だった。
「……はい」
「そうか」
男は、それだけ言った。
そして顎で、カウンターの一番端の席を示した。
「座れ。腹減ってんだろ」
三
出されたのは、四つだった。
白い飯。汁物。月見大根の煮物。それと、香の物が少し。
湯気が立っている。私はそれを、じっと見ていた。
——見えてしまう。
私のユニークスキルは、【完全味覚】という。
口にしたものの成分がわかる。産地も、収穫からの日数も、火の入れ方も。そして——作った人間が、そこに何を込めたのかも。
三年間、私はこれで生きてきた。
そして三年間、私はこれのせいで、何ひとつ美味しいと思えなかった。
差し出される皿には、いつも何かが混ざっていた。
毒。あるいは、毒ほどわかりやすくない何か。侮蔑とか、面倒とか、早く済ませたいという苛立ちとか。それを、味として全部受け取ってしまう。
だから私は、食べ物が怖い。
箸を持つ手が震えた。止められない。三年前からずっとそうだ。
男は何も言わなかった。私を見てもいなかった。布巾で器を拭きながら、ただそこに立っている。
私は、汁物の椀を持ち上げた。
一口。
——え。
「……っ」
椀を、取り落としそうになった。
何も、無い。
毒が無い、という意味じゃない。それは当たり前だ。そうじゃなくて。
打算が無い。侮蔑が無い。面倒くささが無い。苛立ちが無い。
出汁は、村で獲れたらしい小魚と昆布。塩は岩塩。豆味噌の熟成は二年と少し。大根は今朝掘られたもので、皮は厚めに剥かれて面取りまでされている。米は釜炊きで、水加減が完璧に近い。
そして、そこに込められていたのは。
——冷めないうちに食え。
たったそれだけだった。
それだけ、だった。
「……」
視界が滲んだ。
何を泣いているんだろう、と自分でも思った。飯が出てきただけだ。ただの、村の小料理屋の、何ということもない一膳の飯だ。
でも私は、三年ぶりに。
震えない手で、白い飯を口に運んだ。
咀嚼して、飲み込めた。
「うっ、……ぐ、うぅ」
しゃくり上げながら食べた。みっともなく、鼻水を垂らして、涙を落として、それでも箸が止まらなかった。
男は何も聞かなかった。
理由も、名前も、どこから来たのかも。
ただ黙って茶を置いて、暖簾をくぐって外へ出た。
しばらくして、店の外から、ライターを開ける金属音が聞こえた。煙草の匂いが、雨の匂いに混ざって、少しだけ流れてきた。
私は、泣きながら、全部食べた。
四
「あの」
空になった器を前に、私は言った。
「わたし、ここで、働かせてください」
戻ってきた男は、私をしばらく見下ろしていた。
「金は払えないんです。今は。でも、皿は洗えます。掃除もできます。あと」
言葉が、勝手に出てきた。三年間出てこなかったものが。
「……毒見なら、世界で一番できます」
我ながら、ひどい売り込みだと思った。
男は、少しだけ黙って。
それから、カウンターの内側を顎で示した。
「二階が空いてる。使え」
「……え」
「毒見はいらねぇ。皿だけ洗え」
それが、私と「鬼龍」の始まりだった。
五
ポポロ村というのが、この村の名前らしかった。
人口千人ほど。人間、獣人、魔族の三国が睨み合う国境の狭間にある緩衝地帯で、つまり「どこの国のものでもない」場所だった。そのわりに村人は妙にのんびりしていて、そのわりに自警団の装備が魔導バズーカだったりして、私はしばらく混乱した。
そして「鬼龍」は、昼は小料理屋、夜はBARになる。
店主のことを、村の人は「マスター」と呼んだ。
誰も、名前を呼ばなかった。
「嬢ちゃん、あの人に余計なこと聞くんじゃねぇぞ」
常連の農家のおじさんが、ある日そう言った。
「悪い人じゃねぇんだ。……悪い人じゃ、ねぇんだけどな」
その言い方が、ずっと引っかかっていた。
マスターは、朝が早い。
私が起きる頃には、もう畑から野菜を運び終えて、包丁を研いでいる。
砥石が三種類あった。粗いのと、中くらいのと、糸のように細かいの。柳刃と呼ばれる長い包丁の刃を、水を打ちながら一定のリズムで滑らせていく。
その手つきを、私は毎朝見ていた。
——この人、料理人じゃない。
いや、料理人ではあるのだけれど。刃物の扱いが、料理人のそれを明らかに超えていた。角度も、圧も、刃先の返し方も。あれは「切れ味を出す」ための研ぎ方じゃなくて、「絶対に失敗しない」ための研ぎ方だ。
そして彼は、研ぎながら、角砂糖を齧る。
「……甘いもの、お好きなんですか」
一度だけ聞いてみた。
「ああ」
それだけだった。
六
一週間もすると、私は店の顔になった。
というより、私が接客に立つようになってから、女性客が減った。
それまで「鬼龍」の昼は、村中の女性でほぼ満席だったらしい。理由は考えるまでもない。あの背丈と、あの腕と、あの寡黙さで、しかも料理が異常に上手いのだ。
本人は、まったく気づいていなかった。
「マスター、今日も奥様方がすごかったですね」
「ああ? そうか。大根が余ってたからな」
大根の話をしていない。
「あの、皆さんマスターに——」
「あ?」
「……いえ」
なんだかもやもやして、私は皿を洗った。
もやもやの正体には、あまり触れないでおくことにした。
七
村の子供たちが店に集まるようになったのは、夏に入る頃だった。
夕方、まだBARの時間には早い、あの中途半端な時刻。
マスターは、店の前の縁台に腰を下ろして、ハーモニカを吹く。
『家路』。それから『シャボン玉』。
驚いたのは、その姿勢だった。
あの巨体が、片膝をついて、子供と目線を合わせる。
「腹減ってねぇか」
「へってなーい!」
「そうか」
そして子供の頭に、ぽん、と手を置く。人間ひとりを片手で潰せそうな手を、羽根みたいに。
その光景を見ていると、胸のあたりが妙にあたたかくなった。
——ああ、この人は。
そう思いかけた、そのとき。
子供のひとりが、走ってきて転んだ。膝を擦りむいて、火のついたように泣き出した。
「うわあああん!」
——瞬間。
マスターの顔から、血の気が引いた。
見間違いじゃない。私は、彼のすぐ横にいた。
呼吸が浅くなり、瞳孔が開き、右手が小刻みに震え——そして、彼はそこにいなくなった。
体はある。目の前にある。でも、この人は今、まったく別の場所を見ている。
「マスター」
反応がない。
「マスターっ」
肩に触れた。
彼はゆっくりと、こちらを向いた。赤黒い瞳が、私を認識するまでに、数秒かかった。
「……悪ぃ」
低く、掠れた声だった。
「なんでもねぇ」
その日、彼は店を早く閉めた。
八
夜。
二階の窓から、ハーモニカの音が聞こえた。
昼間の曲じゃなかった。もっと静かで、もっと寂しい、聞いたことのない旋律。
私は、階段を降りなかった。
降りてはいけない気がした。
代わりに、布団の中で膝を抱えて、その音を聞いていた。
——あの人は、何かをなくしている。
私にはわかった。味でわかるのだ。
彼の作る料理は、いつも完璧で、いつも清潔で、いつも「冷めないうちに食え」しか入っていない。
でも、たった一度だけ。
汁物に、別の味が混ざっていた日があった。
言葉にすれば、たぶん。
——お前は、生きてろ。
そういう味だった。
その日、彼が誰のことを思って出汁を引いたのか。私は聞かなかった。聞けるはずが、なかった。
九
「今日、何が食いたい」
彼は、毎日そう聞いた。
賄いを作るときの、ただの確認だった。
でも私は、一度も答えられなかった。
「……マスターにお任せします」
「そうか」
三年間、私は出されたものを黙って飲み込む機械だった。
食べたいものを口にした瞬間、何かを取り上げられる。それが私の三年間だった。
だから「食べたい」という言葉の出し方を、私は忘れてしまっていた。
彼は、それでも毎日聞いた。
急かさなかった。呆れもしなかった。
ただ、毎日、同じことを聞いた。
十
秋口に、男たちが来た。
十二人。全員が武装していた。
村の入り口で、代表らしき男が紙束を掲げた。
「集金だ! この村は今月から、俺たちの『暴行しない券』の対象地区になった!」
村人がざわつく。自警団のマンミアさんが前に出ようとして、村長のキャルルさんが止めた。相手の後ろに、魔獣らしき影が見えたからだ。
「金貨五十枚。今すぐ出せば、誰も殴らない。出さなきゃ——」
そのとき。
避難しきれていなかった子供が、母親の手から離れて、道の真ん中に飛び出した。
「あ——」
男のひとりが、面倒くさそうに、その子を蹴り飛ばした。
子供が、道の端まで転がった。
そして。
「————ぅ、うわあああああああん!」
泣き声が、村に響いた。
その瞬間、私の背後の路地から。
カチ。
小さな、金属音が聞こえた。
カチ。
真鍮のライターを、開いて、閉じる音。
村人たちが、一斉に凍りついた。
農家のおじさんが、蒼白になって呟いた。
「……出た」
「え」
「逃げろ嬢ちゃん! 出ちまった!」
「何がですか!?」
おじさんは、私の腕を掴んで引きながら、震える声で言った。
「死を呼ぶ四番だ」
十一
私は、それを見た。
見てしまった。
彼は、走らなかった。
歩いていた。ただ、ゆっくりと、通りの真ん中を。
顔は蒼白で、目は開いているのに何も映していなくて。
そして、笑っていた。
「な、なんだテメェ——」
集金屋の男が銃を向けた。
引き金が引かれたかどうかも、わからなかった。
音がひとつ。それから、何かが折れる音がいくつか。
十二人が、地面に転がるまでに、五秒もかからなかった。
誰も、悲鳴すら上げられなかった。
魔獣が咆哮を上げて突進し——次の瞬間、原形を失って地面にぶちまけられた。
その中心に、彼が立っていた。
赤黒い何かが、陽炎のように彼の全身から立ち上っている。空気が歪んで、色が変わって見える。
「マスター……!」
私は、駆け出そうとした。
「やめろ嬢ちゃん!」
「行っちゃだめだ! あれはもう——!」
村人たちが止めた。マンミアさんが武器を構えたまま動けずにいる。あの豪胆な村長さんが、青ざめて後ずさっている。
誰も、彼に近づけない。
そして。
倒れたままの、泣いている子供の方へ。
彼が、振り向いた。
「————っ!!」
私は、腕を振りほどいた。
十二
走った。
戦えない。魔法もない。攻撃も回復もできない。
三年間、ずっとそう言われてきた。
役立たず。地味。絵にならない。
でも。
でも私は、この人の飯を食べた。
何ひとつ悪意の入っていない、あの一膳を、食べた。
「マスター!」
彼の前に、立った。
赤黒いものが渦を巻いて、私の髪を巻き上げた。皮膚が痛い。呼吸ができない。膝が笑って、立っているのがやっとだった。
赤黒い瞳が、私を見下ろした。
そこには、何もいなかった。
「……マス、ター」
震える手を、ポケットに入れた。
摘まみ出したのは、白い角砂糖がひとつ。
いつも、彼が齧っているもの。私が毎朝、瓶に補充しているもの。
それを、両手で差し出した。
「あの、」
声が、掠れた。
「お腹、空きました」
赤黒い風が、少しだけ緩んだ。
「わたし、ずっと言えなかったんです。何が食べたいか。三年間、ずっと」
涙が出た。止まらなかった。
「でも今、言います」
一歩、前に出た。
「わたし、あなたのごはんが食べたいです」
赤黒い瞳が、揺れた。
「毒も、嘘も、なんにも入ってない、あなたの作ったごはんが食べたい。だから」
差し出した手のひらの上で、角砂糖が、雨に濡れて少しずつ溶けていた。
「だから——帰りましょう」
十三
長い、長い数秒があった。
そして。
彼の手から、力が抜けた。
赤黒い陽炎が、ゆっくりと薄れていく。
彼は、私の手のひらの角砂糖を、じっと見ていた。
それから、大きな手を伸ばして、それを摘まみ上げた。
口に入れた。
「……ああ」
低い声だった。
いつもの、あの声だった。
「悪ぃ。冷める前に、帰るか」
私は、その場に座り込んで、わんわん泣いた。
彼は、少し困ったように立っていた。
それから、しゃがんで、子供と目線を合わせるときと同じ姿勢で、私の頭に手を置いた。
羽根みたいに、そっと。
十四
その日の夜、店は普通に開いた。
暖簾がかかって、湯気が立って、村の人たちが何食わぬ顔で入ってきて、おでんと芋酒を注文した。
誰も、昼間のことを口にしなかった。
たぶんこの村では、それが優しさなのだと思う。
閉店後、カウンターに私だけが残った。
彼は、いつものように、包丁を研いでいた。
「マスター」
「あ?」
「あなたの名前を、教えてください」
砥石の音が、止まった。
長い沈黙があった。
「……龍魔呂」
「え」
「鬼神龍魔呂だ」
私は、その名前を、口の中で繰り返した。
「たつまろさん」
「マスターでいい」
「いやです」
彼は、少し笑ったように見えた。たぶん、初めて見た。
それから、包丁を布で拭って、鞘に納めて、いつもの問いを口にした。
「——今日、何が食いたい」
私は、顔を上げた。
窓の外には、月が出ていた。国境の村の、静かな夜だった。
明日もきっと厄介ごとは来るし、私はまだ何も持っていないし、いつか私を捨てた男が、白すぎる歯を光らせてこの村に現れる日も来るのだろう。
でも、今夜は。
私は、笑って言った。
「全部です」
「……全部か」
「全部です」
彼は、鼻から息を吐いて、袖をまくった。
「じゃあ、座って待ってろ」
了
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