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もう走れない君と、走るのをやめた僕

掲載日:2026/05/17

「……重っ」


夕暮れの坂道で、朝霧陸(あさぎり りく)は息を漏らした。


「だからアシスト切るなって言っただろ」


車椅子に乗った夏川澪(なつかわ みお)が、前を向いたままいたずらに笑う。


「でも押してほしかったし」


「意味わかんねえ……」


春の風が吹く。

住宅街の長い坂道。

電動アシストを切った車椅子は、思っていたよりずっと重い。


陸はグリップを握り直した。

リハビリを終えたばかりの脚が鈍く痛む。


傷ついた脚で、重い車椅子を押して坂を登る。

客観的に見れば、それはとても非効率で、無謀な行為だった。


でも、止まりたくなかった。

彼女にだけは、情けない顔を見られたくなかったから。


「ねえ」


澪が不意に、背中に向かって声をかける。


「今日、何歩?」


陸はポケットからスマホを取り出し、画面の歩数計を見た。


『2143歩』


数秒、黙る。

気まずさに視線を泳がせる陸に、澪が少し笑った。


「増えてるじゃん」


「……昨日よりはな」


「えらいえらい」


「子供扱いすんな」


「してないって」


夕陽が、二人の進む坂道を赤く染めていた。


⸻


朝霧陸は、高校三年生だった。

学校へはほとんど行っていない。


部屋のカーテンは閉めっぱなし。

コンビニへ行くだけで息が切れ、人混みに入れば足がすくんだ。

だから最近は、スマホの画面に表示される歩数計の数字だけを見ていた。


百歩。

二百歩。

ゼロの日もある。

そんな、世界の端っこに取り残されたような生活。


昔は違った。

中学の頃までは、誰より速く走れた。

サッカー部のエース。陸上部からも熱烈に声をかけられていた。

運動会ではいつもアンカー。

地を蹴る音、歓声、風を切る感覚。

そのすべてが、自分の世界のすべてだった。


事故に遭ったのは、中学二年の冬。

スポーツクラブからの帰り道だった。

運転していた母親は即死。陸もまた、助手席で大怪我を負った。


「もう走れないかもしれない」

医師にそう告げられた時、病院の白い天井がぐにゃりと歪んだのを覚えている。


そこから始まったリハビリは、地獄のような日々だった。

立ち上がるだけで吐き気がした。何度も転び、何度も畳に涙を落とした。

「もうやめたい」と何回思ったか分からない。


それでも頑張れたのは、また走りたかったから。

走ることで、母親が好きだった「輝いている自分」を取り戻したかったからだ。


父親は毎日、病院へ来た。

仕事帰りの疲れたスーツ姿のまま、コンビニのおにぎりを口に押し込みながら、陸がよたよたと歩く練習をじっと見守っていた。

リハビリの先生も、陸の小さな一歩を本気で喜んでくれた。

「今の歩き方、良かったぞ!」


陸は信じていた。

頑張れば、いつかあの風の中に戻れる、と。


けれど、高校へ復学した時の現実はおそろしく残酷だった。

クラスメイトたちは優しかった。優しすぎた。

「無理すんなよ」

「戻ってこれて良かったな」

その腫れ物に触るような優しさが、陸の胸をチクチクと刺した。


二年生の体育祭の日。

陸は周囲の制止を振り切って、徒競走に出た。

見学席で哀れみの目を向けられるくらいなら、走りたかった。普通に戻りたかった。


しかし、鳴り響いたピストルの音に対して、身体は全く追いつかなかった。

脚が遅れる。脳の命令が伝わらない。フォームは無惨に崩れた。

結果は、圧倒的な最下位だった。


ゴールした瞬間、静まり返ったグラウンドの空気が耐えられなかった。

陸は逃げるようにトイレの個室に駆け込み、鍵を閉めて声を殺して泣いた。


その時、外の手洗い場から笑い声が聞こえてきた。


『さっきの朝霧の走り方、ヤバかったよな』

『あー、ロボットみたいだったわ』

『中学の時めっちゃ速かったのに、なんか落ちぶれたな』


悪意のない、ただの退屈しのぎの雑談。

けれどその言葉は、陸の心に致命的な傷をつけた。


毎日スーツを汚して病院に来てくれた父親を、笑われた気がした。

小さな一歩を一緒に喜んでくれた先生を、笑われた気がした。

何より、泣きながら泥を編むようにして取り戻そうとした自分の人生そのものを、「変だった」の一言で踏みにじられた気がした。


それから、学校へ行けなくなった。


スマホの画面だけが、陸の唯一の世界になった。

SNSの向こうでは、かつての仲間たちが眩しい青春を送っている。

文化祭、恋愛、部活の引退、そして進路。

みんなが前を向いて走っている中、自分だけが暗い部屋で止まっていた。


⸻


夏川澪が陸の家を訪れたのは、そんなある春の日だった。

学校のプリントを届けに来たという彼女は、陸の部屋に入るなり、こう言った。


「部屋暗っ。陰気臭いね」


失礼な奴だ、と陸は不快感を隠さなかった。

けれど澪は、陸を「かわいそうな元天才」としては扱わなかった。


「ゲーム何やってんの? あ、それ私も持ってる」

「せっかくの春なんだからさ、カーテン開けなよ」


ズカズカと土足で踏み込んでくる。

一番苦手なタイプだった。明るくて、うるさくて、太陽のようで。

かつて自分が持っていて、今は失ってしまった眩しさを持つ人間。見ているだけで胸が苦しくなった。


帰り際、玄関で靴を履きながら、澪が不意に振り返った。


「ねえ、陸」

「……何だよ」

「本当に覚えてない? 中学の時の体育祭」


陸は怪訝そうに眉をひそめた。澪は少し寂しそうに、でも愛おしそうに目を細める。


「私、中学の時さ、ずっと根暗で走るのも大嫌いだったんだ。運動音痴だし、何やってもダメだし。……でもあの日、派手に転んだ私に、別のクラスの君が突然肩を貸してくれたの」

「……」

「『大丈夫、俺がいれば勝てる!』って。すっごい自信満々に笑って、ゴールまで一緒に走ってくれた。……私ね、その時から君の後ろ姿ばっかり見てたんだよ。あんな風に、前を向いて強く走れるようになりたいって。私の今の明るさはね、君に憧れて作ったものなんだよ」


陸はバツが悪そうに顔をしかめた。

「……そんな恥ずいこと、言うわけねえだろ」

「言ってたってば」


澪はくすくすと笑い、

「じゃあ、また来るね」

と言って、静かにドアを閉めた。


――その帰り道だった。

澪が、トラックに跳ねられたのは。


病名は脊髄損傷。

彼女は、二度と歩けない身体になった。


⸻


陸は病院へ行けなかった。

怖かった。

自分のせいで彼女が外に出ることになり、そして、また「壊れてしまった人間」を見るのが、狂いそうなほど怖かった。


スマホを開くと、通知欄の一番上に、今も澪の名前が残っている。

『また来るね!』

陸はその文字に、どうしても既読をつけることができなかった。


暗い部屋。自分の浅い呼吸音だけが、不気味に響いていた。


澪の事故以来、陸は完全に殻に閉じこもった。

父親も、陸を責めるようなことは一言も言わなかった。

朝、無言で枕元に食事を置く。

夜、無言でコンビニの袋を机に置く。

お互いに、これ以上触れたら粉々に砕け散ってしまう硝子細工を扱うように、腫れ物に触るような距離を保っていた。


ある深夜。

水を飲みにリビングへ降りると、父親がテレビもつけず、暗闇の中でぽつんと座っていた。


「……夏川さんのところ、どうなんだ」


父親の低い声に、陸は足を止めた。

答えない。答えられるはずがなかった。


長い、重苦しい沈黙。

やがて父親は、絞り出すような小さな声で言った。


「お前……会いに行かなくていいのか」


責めるような響きは一切なかった。本当に、ただ陸を心配して、問いかけただけだった。

しかし、それが陸の限界を崩した。


「……無理だよ!」

陸の声が、暗いリビングに鋭く響く。

「無理なんだよ……! また壊れるのを見るのなんて、もう嫌なんだ。頑張ってもどうにもならないところなんて、見たくないんだよ……!」


父親は何も言わなかった。

ただ、小さく「……そうか」とだけ呟き、深く息を吐いた。


部屋に戻ろうとした陸だったが、ふと足を止め、リビングの奥にある仏壇に目を向けた。

父親が、静かに母親の写真の前に座り直していた。

いつの間にか、随分と小さくなってしまった父親の背中。


「……俺じゃ、あいつを助けられないな」


父親が、ぽつりと独り言のように呟いた。

その声は、泣いているように震えていた。


陸はその時、初めて気づいた。

止まっていたのは自分だけじゃない。

母親を亡くし、走れなくなった息子を前に、父親もまた、あの冬の日からずっと時間を止めたまま、暗闇の中で立ち尽くしていたのだと。


「……親父」


陸の口から、掠れた声が出た。

父親が、驚いたように振り返る。


陸は、ぎゅっと拳を握りしめた。自分の脚は震えていたけれど、今、歩かなければならない理由が分かったような気がした。


「俺……明日、病院行ってくる」


父親の目が見開かれ、それから、ゆっくりと、本当に久しぶりに、小さく頷いた。

「……ああ。気をつけてな」


⸻


次の日、陸は数ヶ月ぶりに外へ出た。

駅のホームで何度も足がすくみ、人混みで息が詰まりそうになった。それでも、一歩ずつ病室へと向かった。


ドアを開ける。

白い病室の窓辺、澪は車椅子に座っていた。脚には薄い毛布がかけられている。

陸の姿を見た彼女は、驚いたように目を見開き、それから、いつものように無理に作ったような笑顔を浮かべた。


「……来たんだ」

「……遅くなって、ごめん」


それから、陸は毎日のように病院へ通った。

澪は懸命にリハビリをしていた。かつての陸がそうだったように、必死だった。


けれどある日の夕方、窓の外を現役の陸上部らしき高校生たちが走り抜けていくのを見た瞬間、澪の糸が切れた。

車椅子の手すりを掴み、彼女はボロボロと涙をこぼした。


「返してよ……」

夕陽が、病室の白い床を血のように赤く染めていく。

「走りたい……。ねえ陸、私、もう一回走りたいよ……!」


陸は、何も言えなかった。

かつての自分が味わった絶望が、目の前で再生されている。

長い沈黙の後、陸は震える声で言った。


「……俺さ。もう頑張るの、怖いんだよね」

澪は窓の外を見つめたまま、動かない。

「頑張ったら戻れると思ってた。傷つく前と同じになれると思ってた。でも、戻れなかった。……もう、あんな風に誰かに笑われるのは、嫌なんだ」


その瞬間、澪が激しく振り返った。

「陸にはわかんないよ!」

拒絶するような、鋭い声。

「私はもう、歩くことさえできないんだよ!? 頑張るスタートラインにすら立てないんだよ!」


「……わかるよ」

「わかんないでしょ!!」

澪が叫ぶ。涙が溢れて止まらない。

「陸は歩けるじゃん! 走ろうと思えば走れるじゃん! 私の気持ちなんて、絶対にわかんない!!」


陸は何も言い返せなかった。

彼女の絶望の深さに圧倒され、ただ立ち尽くし、そのまま病室を逃げ出した。


その夜、スマホが震えた。

『ごめん』

澪からの、短い一文。

陸は画面を見つめたまま、文字を打っては消し、打っては消しを繰り返した。結局、返信はできなかった。


次の日、陸は吸い寄せられるように、また病院へ向かった。

気まずそうに病室のドアを開けると、澪はベッドの上で小さく俯いていた。


「……昨日、ごめん。酷いこと言った」

陸は静かに首を振った。


澪は膝の上に置いた自分の手をじっと見つめながら、消え入りそうな声で呟いた。

「怖いんだよ……。この先ずっと、周りから『かわいそう』って顔で見られるのが。……頑張って少し動かせるようになっただけで、『すごいね』って同情されるのが。それって、私がもう『普通じゃない』って言われてるみたいで、たまらなく惨気になるの」


陸はゆっくりと、彼女の隣の椅子に腰掛けた。

そして、今まで誰にも言えなかった、あの体育祭の日のことを話した。

トイレの個室で一人で泣いたこと。外から聞こえた、自分をロボットと笑う声。


途中で何度も言葉が詰まり、情けなくて涙が溢れた。それでも、隠さずに全部話した。


「……俺さ、めちゃくちゃ頑張ったんだよ。本当に、必死でリハビリしたんだよ……。なのに、あの一言で、全部無駄だった気がして……」


気がつけば、澪も一緒に泣いた。

憐れみのない、同情もない。ただ、同じ傷を持つ者同士の、静かな涙だった。

病室には、二人のすすり泣く音だけが優しく響いていた。


⸻


数ヶ月後、澪は退院した。

二人は、よく近くの河川敷を散歩するようになった。

陸が後ろから、車椅子を押す。


最初は電動アシストの力に頼りきりだった。けれど、澪は時々、悪戯っぽくアシストのスイッチを切る。

「なんで切るんだよ、重いだろ」

「頼りたいから」


最初は意味が分からなかった。けれど、毎日押していくうちに、陸はその言葉の本当の意味を理解した。

彼女は、陸の脚を頼りにしている。陸が頑張って押さなければ、この車椅子は進まない。

それは同情ではなく、確かな「必要性」だった。


夕焼けに染まる河川敷。

心地いい川風が、二人の髪を揺らす。


「私ね、やっぱりあの時から好きなんだ。中学の体育祭」

前を向いたまま、澪が言った。


陸は少し照れくさそうに苦笑する。

「足速い奴を好きになるとか、単純だな」

「うん。でも、単純だからこそ、ずっと忘れられなかった。……ねえ陸、私はもう走れない。でも、君が押してくれたら、どこにだって行ける気がするよ」


風が吹き抜けていく。

昔みたいには、もう誰も走れない。

けれど、二人の時間は、あの暗い部屋で止まったままではなかった。


⸻


「ただいま」


夕方、散歩から帰った陸が玄関のドアを開けると、出迎えたのは香ばしい出汁の匂いだった。

キッチンに立つ父親の後ろ姿があった。


いつもなら、机の上に無造作に置かれているはずのコンビニ弁当がない。代わりに、不格好に切られた野菜と、温かい湯気が立つ鍋が置かれていた。


父親が振り返る。その顔には、かつての疲弊しきった暗さはなかった。

「おかえり。……今日は、随分長く歩いたな」


陸は一瞬驚き、それから、小さく笑って靴を脱いだ。

「まあな。結構遠くまで行ったから」


「そうか。……飯、できてるぞ」

父親の声は、どこか晴れやかだった。

母親を亡くしてからずっと、どこか義務のようだったこの家の食卓に、確かな「生活の温もり」が戻ってきた瞬間だった。

息子が一歩を踏み出したことで、父親の時間もまた、ようやく動き出したのだ。


「うん。手洗い、すぐ行く」


陸は自分の部屋へ荷物を置きに戻り、ベッドの上に腰掛けた。

部屋のカーテンは、もう開いている。

窓からは、夜へと移り変わる静かな夜空が見えた。


ポケットからスマホを取り出す。

画面を点け、歩数計のアプリを起動した。


液晶のバックライトが、暗くなり始めた部屋をぽつんと照らす。


表示された数字は――『4318歩』。


冒頭のあの坂道で、澪に聞かれたときの数字の、およそ倍。

今日、彼女と共に歩みを進めた確かな証が、そこにはあった。


陸は画面を見つめたまま、小さく鼻で笑った。


「……めっちゃ増えてんじゃん」


自嘲気味な呟きだったが、胸の奥は驚くほど軽かった。

脚は、相変わらずジンジンと痛む。

けれど、もう恐怖はなかった。


『えらいえらい』


脳裏に、あの坂道で車椅子の背中越しに聞こえた、澪の悪戯っぽい声が再生される。


「子供扱いすんなって……」


陸はスマホをベッドに放り投げ、カチリと部屋の明かりを点けた。

明るくなった部屋を見渡し、一度深く息を吐く。


そして、今度はしっかりと前を見据え、父親の待つリビングへと力強く歩き出した。

二人の旅路は、まだ始まったばかりだ。

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