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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。

聖泉にて

掲載日:2026/06/18

 戸を開けて現れたのが夫だったので、私は目を疑った。

 薄汚れた軍服の詰襟と星の付いた軍帽に挟まれて青白い顔が覗いている。その眉間のしわがふっと緩んだ。

「ただいま」

「ほ、本当に帰ってきたの」

 ハガキで本人から帰還するとあったけれどもっと先だとばかり思っていた。村で見かけるのは故人の名前が書かれた白い箱だから生きて帰ってくるなんて。

 彼の軍服を手のひらで触る。ずいぶんと痩せたみたいだ。そのまま手を彼の背に回して抱きしめる。私の背に大きな手が回ったかと思うとすぐに肩を掴まれた。

「ごめん。伝えたいことがある」

「わかりました、中に入りましょ」

 上着を受け取ってハンガーに掛ける。ポケットに膨らみを感じて取り出してみると、それは血の付いた布だった。

「これ」

「ああ、それは、う、ゲホッゲホッ、ごめ」

 振り返った先で居間の畳にうずくまり咳き込む丸い背中があった。

「大丈夫ですか」

 駆け寄って膝をつく。口元を抑える彼の手がずれて、血の付いた口の端が動く。

 ──俺は肺病になってしまった。

 それから、私は何かを言おうと考えて結局何も言えずにコップの水ときれいな布を慌てて取りに行った。


 夫は一日の大半を布団の上で過ごすようになった。周囲に夫のことは言っていない。言えば私の仕事が無くなるどころではない。だからこの家が辺鄙な場所にあるのをいいことに、何事もなく私は村の農作業の手伝いに毎日出かけては手間賃をもらっている。夫が得た一時金に比べたら微々たるものではあるが、この手間賃が無ければ生きてはいけない。

「おかえり」

「ただいま戻りました、大丈夫でしたか」

「うん。いつもお疲れ様、俺はいつも寝てばかりで申し訳ない」

「いいえ、そんなことはないですよ」

 夫の世話は重労働だが、やはり生きて帰ってきてくれただけで幸せだった。たまに、そういうことを言えば、

「俺は君と夫婦になれたことがなによりの幸福だよ」

 と彼は笑う。しかし最近では頬もこけて食事の量も減った。私も彼も、目を合わせては音もなく微笑む日々だった。それゆえか外を歩いたときに聞いた村の噂話が耳に残った。

 山にある聖泉の水は万病を治す。

 昔からある村の言い伝えで、年寄りたちが泉にお供え物をしているらしいのは知っていた。けれどもその泉は女人禁制で女は近づいてはいけないと教えられていた。けれど。

 夫を見る。枕を汚さぬように布を何枚も重ねた上に月明りを浴びて眠っている。畳に投げ出された手には筆が握られており、その先に書きかけの原稿用紙があった。表題には『戦友ヨリ聞キタル笑話』と書かれているのを手に取って眺める。よれた字だ。紙にはまだ余白が広がっていて途中であるらしいのが分かる。原稿用紙を置こうとして、夫の開いた黒い眼と眼が合った。

「俺はね、恐ろしい。君を楽にしてあげたいのにちっとも死にたくならない」

 死にたくならないからこんなにも恐ろしいのだと思うと、生命に縋りつく己を捨ててしまいたい。彼は横顔を枕にうずめるとそう呟いた。

「……あなたに生きていてほしいと思うのはいけないことですか」

 ひと段落した農作業のために明日の仕事はちょうど無かった。


 日が昇る前、いつも通りに起床して家を出る。今日は桶を持った。人目を忍んで暗い山道に入れば初夏の湿った匂いがした。草鞋の足に掠る青草を感じてため息が漏れる。これから女人禁制を破ってかの泉に行くわけであるが、そこには女神がいるという。女神が嫉妬して女性を帰らぬ人にしてしまうと。そんなわけがないと一蹴するのは簡単である。しかし神秘を否定すれば万病に効くという話も信じられなくなってしまう。どっちつかずの気分を寝込む夫の姿でかき消して上った。


 意外にも泉はすぐに見つかった。落ち葉が均された場所に祠が置かれ、その近くに木漏れ日が差す澄んだ青い泉があった。誰もいないのを確認してから側にしゃがむ。桶を傾けて水を掬えばよく冷えた水がきらめいている。こぼれない程度の量を確保して地面に置いた。

「こんなものか」

 あっけない。女人禁制どころか人間禁制かと思うほどに人の気配もなく女神に呪われる様子もない。ということはこのきれいな水もただの水ということなのか。せっかく汲んだのだから後で飲み水に混ぜておこうか。置いた桶のふちをざりざりとなぞると、爪の奥に入り込んだ土ではない墨の黒が目についた。出かける前に夫の原稿用紙を一枚拝借して書き置きをしてきたのだ。私が帰ってこれなくなったときに訪れた誰かに見つからぬよう彼の草履を隠してある箱へ入れてきた。帰ったら燃やしてしまわなければ。爪の中の墨も落とさないと夫に不審がられて心配させてしまうかもしれない。手を洗おうとして泉の中に突っ込むと、何か白いものに掴まれた。

 深い青の底に、この世ならざる美しい女がこちらを見ていた。


 白いものとは女の手であった。瞬く間に水面に引き込まれ、青が藍に落ちていく冷ややかな泉を藻掻けどもそれは深く沈み込んでいく。口から漏れ出る泡を見送って、ふと息ができることに気づいた。

「ようこそ吾が泉へ」

 底に着くと先ほどの女が嬉しそうに微笑んだ。神楽で着るような布の多い服をまとって水中を揺れている。女神だ。ついに私は気が違ってしまったのか。奇跡に縋るばかりにこんな幻惑を見ているのか。

「ここは一体なんなのですか」

「何と言われてものぅ、ずっと長くある泉としか」

「ではどうして水の中で息ができるのかを尋ねてもよろしいですか」

「そら神の力よ」

 女神は口角を上げた。

「ではな、汝は何故ここに来た」

「貴方が引きずり込んだからです。……という意味ではないのでしょう、実は」

 夫のこと、村の噂のこと、それゆえに聖泉の水が欲しいこと。私は女神におおまかに語った。

「ですから万病に効く水を持って夫のもとへ一刻も早く帰りたいのです」

「ふぅん」

 再び伸びる白い手に身構えるも顎を掴まれた。

「どうしてここが女人禁制なのか教えてやろうか」

 泉の底よりも暗い眼が迫る。

「汝のような良い女を愛でる女神がいるからだよ」

 だから帰してなどやるものか。汝の夫が消えるまでここから出さぬ。女神はそう言って頬に接吻をした。

「なにをして」

「はぁ、どうして吾の好む女子には男がいるのかのぅ。やはり好むところは皆同じか」

 顎を掴んでいた手が私の胸元に落ち、細い指先が襟元を沿ってなぞっていく。その不埒な手を掴んだ。

「ね、ここの水は肺病にも効くのですか」

 囁けば女神の鼻の下でも伸びるかと思われたが意外にも端正な顔のままだった。そのくせ覆われた手をひっくり返して指と指を絡めとる。ほっそりとした白い指と私の荒れていて日に焼けた指で縞模様めいている。女神は伏し目になって手を見ていた。

「墨か」

 女神は組み合ったままの手を持ち上げて扇のように口元を隠し、上目遣いで私を見つめる。

「書き置きでもしてきたか。……帰れなくなったとして水はどうするつもりだったのだ」

 私が帰れなくなったら。それは、もし奇跡があったとしても女神の呪いで帰れなくなったら女神の力のある水を夫に与えられなかったということか。そんなことは分かっていた。だから私は書き置きをしてきたのだ。違う。書き置きなどなんの役にも立たない。ここへ来るまでに私は何を考えていた?

「んふふふ」

 手にぬめりのある感触が走った。指の爪の奥まで舐めとっている舌の感触だった。生暖かい温度が隙間を緩やかに滑る。

「っ止めてください」

 思わず手を振りほどく。

「こうされるのは初めてか?」

 にんまりとした唇から伸びる紅い舌に黒い汚れがついている。女神は見せつけながら口の中に取り込んだ。苦いと呟いてわずかに女神の眉が寄るがすぐに戻った。

「なぁ、ここに来たということはそういうことじゃろ。逃げてもいいと思うぞ吾は。看病と労働から逃げたかったのじゃろ?」

 女神の言葉はすぐに呑み込めなかった。逃げたかった?そんなはずはない。確かに農作業は体力を使う。無ければ無い方がいい。看病も同じではあるが逃げたいなど一度も考えたことはなかった。愛する人のために身を尽くすのは自分から進んでやっていることだ。

「逃げたかったなどと言われましても。水については私の考えなしな計画だっただけです」

「ふぅん。まあ良い。水面まで逃げようとしていないのが答えじゃ」

「え?」

 思わず見上げる。水を通して色をなくした光がここまで落ちている。水の中なのだから泳げばすぐにでも上に行けるはずだ。それなのに私は女神と話をして時間を使っている。でもそれは、汝を帰さぬと他ならぬ女神が言っていたから逃げるなんて不可能だと思ってのことだ。

「貴方は私のことを良い女だとおっしゃいましたけれど、そんなに好かれた覚えはないですしもう帰ってもよろしいですか」

「さあ?」

 女神は肩をすくめた。

「さあ?って……」

 ふざけた返事を置いて水を掻いてみる。素直にも体は浮き上がって水面までもう少しのところになった。あっさりと水面から頭を出すと曇り空であった。いや、それよりも。

「ぅ……っ」

 息ができない。水中ではできたのに。

「はいここまで~」

 胴に感触があって空が水で覆われていく。息ができる。私は再び水中に戻されていた。

「どうじゃ?これでも外に行きたいか?」

 水底に戻されるとふつふつと苛立ちが湧いてきた。

「なんてことをしてくれたのですか!もう戻して。帰してください」

 そう叫べば女神は柔らかな衣服にまみれるように私ごと横になった。しばらくそのままだった。

「嫌だ」

 声はしおらしかった。女神は抱きついていた姿勢から私を仰向けにして跨る。その長い黒髪が藍の中で揺れている。

「皆ここに居たくないと言う。息もできぬ外の方が良いと言う。ここには嫌なことなど何ひとつない。なのに出て行ってしまう。嫌なことがなければ楽しいこともないとは恐ろしいものな。ずっと居る者もいたが最後は飽きたと言って吾に首を絞めさせたぞ。殺生が嫌いな吾に、こんな風に!」

 細い腕が私の首に伸び、勢いにしてはゆるく絞めつけた。このままゆっくりと絞められて、死ねるとしたら。

「あぁ」

 色を失った美しい顔を遮って、溶けた赤色が垂れ落ちている。血だ。毎日見ているから見間違えようもない血だ。水面に影が差している。糸を垂らすがごとく血の赤が滲んでここまで落ちている。

「……行かなきゃ」

 呆然としている女神の手を解き糸をたぐって昇っていく。足は震えている。心臓が音を立てて邪魔をしている。

 逃げたいのは事実かもしれない。だが愛する心もまた本心であると思った。


「かはっ」

 水面から顔を出した瞬間、空気が入り込んで喉を詰まらせた。やはり息ができない。見渡せば泉の側に倒れこむ夫がいた。周囲は血まみれだった。泉から身を乗り出して置いておいた桶を手に取る。彼の口からは血の泡が吹いている。桶の水を飲ませる。

 夫の顔に、うっすらと赤みが差した。効果は本当にあったのだ。だが私の息がもう持たない。泉を振り返ると女神もまた顔を出していた。水から出てもやはり美しい顔に苦しげな表情がある。女神も息ができないのだろうか。女神は夫を抱きかかえる私を見て口を動かした。

「行かないでくれ」

 血の泡が震え目の焦点の合わぬ夫が私に言っていた。私はその泡を指で拭うと、ごめんなさいと謝った。あのやさしい水の中には戻れそうにない。もう絆されてしまったのだ。この執念深い男に。泉の方を見ると既に女神は居なかった。

 泉の底から泡が昇って、私は息ができるようになっていた。


 今更、私は彼が裸足なことに気づいた。ぼんやりとした私に声がかかる。

「よかった」

「……どうしてここまで来たんですか」

 夫が言いよどむ。

「君が普段と違う方向に歩いていく音がしたんだ。俺が情けないことを言ったばかりに君が愛想を尽かしたんだと思った」

「それで、草履も履かずにここまで?」

「ああ。足跡を辿ってきた」

 夫の寝巻には血以外にも泥が至る所に付いていて這ってきたことが分かる。辿ってきたというほど楽な道のりではなかったはずだ。

「それで、どうして俺は死んでない」

「それはあなたが倒れていたところを見つけて介抱していたら目を覚まして──いえ」

 おかしな話でも、今なら受け止めてくれる気がした。

「この聖泉にて女神に会ったのです」


「そうか」

 夫は信じてくれた。私だったら気の狂った人の世迷言だと思うかもしれないのに。

「本当は苦しかった。だからあなたに何も言えなかった。余計に苦しませてしまうから」

「逃げたかったかもしれない、死にたかったかもしれない」

 けれど。

「それでもあなたがここに来てくれて嬉しかった」

 私は夫の体を抱きしめると確かな温かみに安堵した。垂れていた夫の手が私の肩から背中に回る。

「苦しい思いをさせてすまなかった。あと、本当はな、あれは嘘だった」

「あれって?」

「書いてた笑話だよ。戦友から聞いた笑い話なんてない」

「え?」

 夫は鼻をすすって笑った。

「君を笑わせるためだった」

 そんな風に思っていたのか。

「今じゃあ血を吐いていたのが笑い話みたいだ」

 万病に効くとは事実のようだね、と言って彼は泉を眺めている。言いたいことはあるが汚してしまって申し訳ないなとぼやいてから立ち上がって伸びをしたその顔が、ある一点を見つめ、眉にしわを寄せた。

「どうしました」

「見えるか」

 指さす先に私たちの家があった。それが大勢に囲まれていた。

「私が家を出て何日目ですか」

「二日目だよ」

 農作業の仲間が囲みの中に混じって身振り手振りで説明している。仕事がなかったのは一日目までだ。心配して家に来たのだろう。そしてそこには誰もいなかった。

 ──書き置き!

「あなたの肺病を治す水を聖泉から取ってきます、と書き置きを残しているのが見つかったら」

「どうせ俺の布団で気付かれる」

 山の茂みから二人でのぞき込む。

「実はね、軍からもらった一時金があっただろう。君がいなくなるのを引き止めようとして持ってきてたんだ」

 木陰に潜む横顔が呟く。

「家に火が点けられることがあったら」

 この村を一緒に出よう。

 私たちの言葉が重なった。


 そして、ここまで聞こえる騒ぎ声と、犬を連れた男たちが山に向かったときに。

 我が家に火が点いた。

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