硝子の涙
もう三日、雨が降り続いている。
世界は音を失い、ただ、ざあ、という単調な雨音だけが、絶え間なく鼓膜を打ち続けていた。それはまるで、時間を溶かし、意識を摩耗させるための、巨大で鈍いやすりのようだった。書斎の空気は湿り気を帯びて重く、私の思考も、その湿った空気の中で、形を成さずに腐ってゆく。
私は、机に向かうこともできず、ただ窓の外を眺めていた。いや、外の景色を見ていたわけではない。私の視線は、窓ガラスそのものに、その表面を流れる無数の水滴に、釘付けになっていた。
窓ガラスは、それ自体がひとつの独立した世界だった。
そこでは、名もなき小さな水滴たちが、生まれ、蠢き、そして死んでゆく。初めは、硝子に付着した微細な塵を核として、霧のような粒子が寄り集まり、かろうじて目に見えるほどの水滴となる。それが「生」の始まりだ。
やがて、その水滴は、すぐ隣にある別の水滴と、まるで恋をするように惹かれ合い、ぷるり、と震えて一つになる。そうやって少しずつ体を肥えさせ、重くなってゆく。しかし、それは成長などではない。ただ、墜落へ向けての、不可避な準備運動に過ぎなかった。
そして、ある限界点を超えた時、その水滴は、自らの重みに耐えきれなくなり、すう、と一筋の涙のように、硝子の表面を滑り落ちてゆく。それは、重力という絶対的な法則の前には、あまりに無力な、短い生の軌跡だった。下まで辿り着く前に、他の大きな流れに飲み込まれて消えるものもいる。
私は、その硝子に映る、無数の生の営みを、飽きることなく眺め続けた。一滴一滴の、その儚い一生を、私は見届けた。それは、私の日々の営みと、どこか似ているように思われた。生まれ、何かを求め、他者と交わり、しかし結局は、抗いがたい力によって、意味もなく落下してゆく。
世界は、この窓ガラス一枚を隔てて、完全に二つに分かたれていた。向こう側には、雨に煙る、ぼんやりとした街の景色がある。それは、まるで水底から見上げた風景のように、歪んで、現実感を失っていた。そしてこちら側には、私がいる。この薄暗い部屋と、水滴たちの無意味な生死が繰り広げられる、この硝子の世界だけが、私の全てだった。
ふと、私はその世界に干渉したいという、奇妙な衝動に駆られた。
ゆっくりと、人差し指を伸ばす。ひやり、とした硝子の冷たさが、指先に伝わった。私は、その指で、水滴たちが作り上げた精緻な水脈の真ん中を、上から下まで、ゆっくりとなぞった。
私の指が触れた場所で、秩序は崩壊した。水滴たちは合体を強いられ、歪な水の膜となり、そして一気に流れ落ちてゆく。私が引いた一本の線は、まるでモーゼの奇跡のように、水滴の世界を二つに分断した。
私は、その無意味な世界の、唯一の神になった。そして、私のしたことといえば、ただ、気紛れで無意味な破壊だけだった。
指を離す。そこには、私の体温で曇った、ぼんやりとした痕が残った。その周りでは、また新しい水滴たちが、何事もなかったかのように、寄り集まり始めている。私の介入など、この巨大な反復運動の中では、ほんの束の間の出来事に過ぎなかった。
虚しかった。
しかし、その虚しさとは裏腹に、私の指先には、まだ硝子の冷たさが、生々しく残っていた。それは、この部屋の湿った空気とも、私自身の生温い体温とも違う、確かな感覚だった。
私は、その指先をじっと見つめた。そして、ゆっくりと、窓から背を向けた。
雨は、まだ降り続いている。だが、その音は、先程までとは少しだけ違って聞こえた。それはもう、私を閉じ込めるための音ではなかった。ただ、世界に雨が降っている。それだけの、事実の音だった。