学びの外の化け
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
……というわけで、化学というのはざっくばらんにいえば、物の変化について学ぶ学問といっていいわけだ。
口頭で聞くと、「科学」と音が同じで区別しづらいから「ばけがく」と呼んだりする。あるものが別のものに化ける。いわば「変身」という要素に私たちが心ひかれやすいのも、遺伝子に組み込まれた憧れかもしれない。
短時間での変身というのは、人間の身では大変難しい。切り離す形での変化は容易でも、好きこのんでやりたいと思う者は少ないのではないだろうか。自分としての機能できる限り保ったまま、拡張したり使い分けすることができたりと、強さや利便性を求めたいと考えることは多いだろう。
化学も研究が進めば、そのような夢物語を実現できるやもしれないが、まだまだ技術は発展途上。仕組みも分からないまま、行われていることも多いかもね。
ひとつ、先生が以前に知った「化学」とはいいがたい変化のかたち、聞いてみないかい?
先生の父親は、先生が成人するまでの間は剣を学んでいたらしい。
らしい、というのは父親が防具などを身に着けて、稽古や試合をするようなことは一度もなく、ただ家で木刀を振る姿をたびたび見かけたことがある、程度のものだったからだ。
素振りの鍛錬なら、回数などを重ねそうなものだけれど、父の場合はどちらかというと型稽古と思しきものへ力を入れていたようだ。
胴着を身に着けて家の庭へ出た父親は、木刀を左上段へ構えたまま、じっと動かずにいる。
数十分、場合によっては一時間以上もそのままの姿勢を保ち、やがて構えをといて木刀も手に提げてしまう。はためには、ひたすら「それらしい」ポーズをとり続けている、エセ剣士にしか思えない。
いったい、何をしているのかと父親に尋ねたことがある。
そうすると父は「長生きの秘訣を実践しようとしている」と教えてくれたっけ。私としては長生きには運動も役立つとは思っているが、父のあれに動きはさほど感じられない。
どれほどの効果があるのか……というのが正直なところと告げたところ、父はこう答えてくれた。
「父さんは、ひたすら機会を待っているのさ。これまではそれに恵まれず、あきらめて引き上げるばかりだった、というだけ。
天気予報などのように、あらかじめ予想したりはできないものだから試行する頻度、回数を増やすことでしか確率を高めるすべを知らないな。
もし気になるのなら、今後も見続けてみるといい。お互い、運がよかったらそいつを目にすることができるかもしれない。実態はそのときのお楽しみ、ということで」
父は仕事から早く帰ってくる日だと、夜のゴールデンタイム。遅い日は翌日の仕事前に起き出して、同じように木刀を構えている。できる限り毎日構えるようにしているようだが、よっぽど疲れているときなどはお休みすることもあった。
父親は先生を呼んだり、起こしたりすることはせず、自主的な行動に任せている。先生自身も付き合えないことも何度かあり、おそらく父のいっていた「秘訣」に出会うことができたのは、話を聞いてから二か月ほどが経ってからだったな。
その日は朝早くに父が起きていたときだった。先生自身も早くに目が覚め、二階の自室から窓越しにひょいと見下ろすと、すでに庭で木刀を構えている父の姿があったのさ。
見慣れた左上段のまま、父は微動だにしない。
これが晴れかつ無風の日ならばまだしも、雨が降ったり、やたらと庭に羽虫が飛ぶようなときだったりしても、やると決めたときの父は微動だにしない。その真摯な姿勢は言外に、父の話した秘訣とやらが、まんざらでたらめでもないことを示していた。
今日こそ出会えるだろうか。
そう考えながら父を見下ろす私は、ふと部屋の窓へぽつぽつと何かがくっついてくる音を目にしていた。
雨かな? と最初は思った。けれども、やがて窓に小さく多く張り付いてきた彼らは、すぐにガラスの表面を垂れ落ちていく。
それだけなら、普通の雨などでもあり得ることなのだけど、問題はその垂れたものが残す軌跡だ。
真っ黄色だったんだ。しずくそのものは透明だというのに、それがたどった跡には、体のどこにこのような色があったのかと目を疑いたくなる、鮮やかな黄色が残される。
そして、その降水のはじまりと前後して。
父が木刀を振り下ろした。これまで構えを解いて、納刀する動きしか見たことのない木刀が、まっすぐに打ち下ろされたんだ。
一度振ると、父の剣はそのままなめらかに動き、切り上げ、袈裟懸け、胴払い……と、次々に剣を繰り出していくのだが、先生がもっとも驚いたのは、その動きに「剣がついてきていない」ということだった。
文字通りの意味だよ。父が木刀を振るうたびに、木刀そのものがどんどん短くなっていくんだ。代わりに父の身体を隠すようにして、うっすらと色のかかった煙が取り巻き始める。
窓に残る黄色い軌跡。それとそっくりな色合いを帯びたものがね。
やがて木刀は、幾度もの斬撃の果てに、握られた柄の部分しかなくなってしまう。それを見ると、父は振るうのをやめる代わりに大きく腕を広げて深呼吸を始める。
すると、取り巻いていた黄色い煙たちはどんどん父の口元へ吸い寄せられていき、姿を消していったんだ。のちにこれが父のいう、長生きの秘訣だと聞いたのだよ。
木刀、雨らしき奇妙な粒、そして斬撃。
三拍子がそろってなるというとこの長寿の秘訣は、父親の命を3桁直前まで永らえさせた。
木刀が振れなくなってから、その年のうちに亡くなってしまったこともあって、先生は父親の秘訣は間違いないのだろうと思っている。
木刀を長寿のもとへと変えるあの変化。いつかは仕組みが科学的に解き明かされるのだろうか。