隣国への旅
会場の扉を抜けて、松明で照らされた暗い石造りの回廊をディオという男は歩いていく。
昔からこの場所に住んでいるかのようなよどみない足取りだ。
クリスティアは男の腕の中で、体を小さくしていた。
回廊を抜けると、その先には切り立った岩山や大きな岩がごろごろと転がっている荒野が広がっている。
見張りの兵士たちが立っている。
ディオはクリスティアを抱いたまま、片腕にある腕輪状になっているオークション参加証を兵士たちに見せた。
「よい水曜を」
ディオがそう口にすると、兵士たちは頭をさげる。
それ以上言葉を交わすことなくオークション会場から離れて、兵士たちがすっかり見えなくなった岩場の影でディオは足を止めた。
「よい水曜を。合い言葉だ。短絡的だな。俺ならもっと、オークションとは関係のない言葉にする。たとえば、タルタルフィッシュフライ、とかな」
「たるたる……?」
「旨いぞ。今度食わせてやろう」
「申し訳ありません、私、勝手に言葉を……」
恐縮するクリスティアに、ディオは「好きなように話せ、クリスティア」と笑った。
それから「来い」と、誰かに声をかける。
目の前の砂地が、まるで生き物のように円形に渦巻きはじめる。
その中心部からぬるりと姿を現したのは、蛇に似た動物だった。
クリスティアの何倍もの大きさで、白い体にはびっしりと鱗がはえている。
砂地から這い出して、ぶるぶる体をふって体についた砂を落とした。
長い首に、蛇の顔に角。長い尻尾と、四本の足。足には鋭い爪がはえている。
その背には、大きな体よりも更に大きな翼が四枚。
その翼を悠々と伸ばして、その動物はディオに頭をさげた。
「待たせたな、シャルウ。帰るぞ」
「キュイ」
シャルウという動物の背には、鞍がある。
ディオはクリスティアを先に鞍に乗せると、自分も颯爽とその背に乗り込んだ。
「クリスティア、しっかり捕まっていろ。落ちないようにな」
「は、はい」
翼を一度ばさりと羽ばたかせて、シャルウは空へと飛びあがる。
クリスティアは言われた通りに、男の服をきつく握りしめていた。
必死で捕まっていると、気づいた時には地上は遠く、眼下にオークション会場のあった荒野や、少し離れた街、鬱蒼と木々の生い茂る森が広がっている。
(すごい……空だ……)
空を飛ぶ日が来るなんて、考えたこともなかった。
風に、全身を包まれているかのようだ。浮遊感は僅かで、考えられないぐらいに空高くに、空の中にいるのに、不思議と恐ろしさは感じない。
ディオが片腕で、クリスティアの体をしっかり抱いているからかもしれなかった。
気づけば引き寄せられて、その体に抱きつくようになっていた。
筋肉質な腕や引き締まった腰、クリスティアのものとは違う硬い体の感触に、僅かな緊張と安堵を感じる。
どうしてかは分からない。守られているような気がしたのかもしれない。
そんなわけがないのに。これからクリスティアは、この男によって悲惨な目にあうのだ。
──多分。
あぁ、でも。
エデンがあるとしたら、こんな景色なのだろうか。
母は誰にも縛られない自由な空を、鳥になり飛んでいるのかもしれない。
そこには苦痛はないのだろう。懊悩もないのだろう。
だとしたら、母の墓にいるのは──なんだろうか。
中身のない、骨。それすら、本当にあるかどうかさえ分からない。父がそこに埋めたのだと、使用人から聞いた。それだけだ。それだけを頼りに、名もなき墓に祈りを捧げていた。
どうしてか、涙が滲む。
母はもう自由だ。それなのに、母に縋り続けていた自分が虚しくなったからなのか。
それとも、先に自由を手にした母が羨ましかったからだろうか。
「クリスティア、心配をするな。君の母の墓は、俺が責任を持って俺の家の敷地内に移そう。華麗な霊廟をたてて祀ろう。なにしろ君を生んでくれた聖母の墓だ。それはそれは丁寧に祀らなくてはな」
「え……」
「だから泣く必要はない。これからは好きなときに墓参りができるぞ」
「あ……」
「涙の理由は、母の墓と離れがたいからではないのか? それとも空が怖いのか。高いからな。俺にしがみついていろ。目を閉じていれば一瞬で、家まで辿り着く」
どうして、この人はクリスティアの母の墓のことを知っているのだろう。
れいびょうとは、一体何のことだろう。せいぼ? たてまつる?
クリスティアはディオの言葉が半分も理解できなかった。
「さぁ、飛ばすぞシャルウ。この不愉快な国をさっさと抜けるぞ。クリスティア、君を落としたりはしない。俺に捕まり、目を閉じていろ」
「……は、はい」
それから、ディオの声は聞えなくなった。
風音に包まれて、ごうごうと鳴る音以外は何も聞えない。
ディオの背中越しに広がる生まれ育った国は、みるみるうちに雲に隠れて見えなくなってしまった。