オークション
クリスティアは逃げないように、手枷と目隠しをつけられた。
道化師の仮面をつけた男によって馬車に乗せられて、どこかへ運ばれていく。
真っ暗闇の中で、クリスティアはぽつぽつと紡がれる男の声を聞いていた。
「君は僕の名を知る必要はない。けれど、これからどうなるのかだけは教えてやろう」
目を開けようが閉じようが続く暗闇に、男の声だけが響いている。
「ファルシア公爵というのは貪欲な男だな。小心者で臆病だが、自分よりも弱い者にはいくらでも残酷になれるのだろう。ああいった男を僕は何人も見てきた」
呆れたように言って、男は笑う。
感情がまるでないような空虚な笑い声だ。
「君が罪人だろうがなんだろうが、僕にとってはどうでもいいことでね。ただ君は、金になる。元聖女にして稀代の悪女。体は少々痩せすぎているが、顔立ちは美しい。君のような者は高値で売れる」
「私は、売られるのですね……」
「そうだよ。そして、死ぬよりも辛い目に合うんだ。変態に飼われて、慰み者にされる。よいご主人様が君を買ってくれるといいけれどね」
それきり、男は黙り込んだ。
死を望んだことも何度もあったのに。
それでも、これからこの身に起こることを考えると、体が真冬の雪の日に暖をとることもできずに物置小屋で丸まっていた時のように、冷たくなった。
水曜オークションは、水曜日に開催される。
取引が禁じられている希少な動物の骨や牙や皮、臓器。希少価値の高い美術品。
いわくつきの宝石や、盗品や、禁じられた薬。
一般には流通しない様々なものが売られている場所で、その存在を知っている者は特権階級の者たちの中でもごく一部である。
見知らぬ場所の薄暗い牢獄に閉じ込められて、クリスティアはそんな話を世話係の女から聞いていた。
クリスティアは商品である。
そのため、体に傷をつけてはいけないと、乱暴なことはされなかった。
ただ──世話係の女は、クリスティアを憎んでいた。
「本物の聖女様の力を奪い、好き放題していたそうね。皆が言っているわ。あんたは目の前にいる高熱を出して衰弱している子供を見捨てて、高いお布施を支払ったお貴族様の顔の吹き出物を治したって。最低ね」
──その通りだ。
たとえそれが命じられたことだったとしても、自分の心に従い、子供に手を差し伸べるべきだった。
(命じられるままにしか、聖女の力を使えない木偶……)
オルグに言われた言葉が頭をぐるぐる回って、吐き気がした。
きりきりと胃が痛み、背中に冷や汗が流れる。
これは、罰だ。
多くの人の命を見捨てた自分への罰。
きっと、命を失いエデンにのぼったところで、今の自分を母は受け入れてくれない。
(私はエデンではなく、ヘルレイズに堕ちるのだろう)
人は死んだら、女神の地であるエデンにその魂はのぼると言われている。
けれど罪人が行き着く先は、冥府の王が支配するヘルレイズ。
そこで罪深い魂は、永遠に苦しみ続ける罰を与えられるという。
きっと自分はそこに行く。もう、母には会えないのだと、クリスティアは誰もいない牢獄の中で密やかに涙をこぼした。
「さぁ、今日の目玉商品だ! 堕ちた聖女、クリスティア! まずは百万から!」
道化師のよく通る声が、オークション会場に響いている。
舞台の上は何本もの蝋燭の炎に照らされている。
客席からは舞台がよく見えた。
舞台からは、客席をはっきりと見ることができない。
クリスティアは絶望にまみれた心で、見るともなしに客席に視線を向けていた。
客たちは皆、上質な服に身を包んでいる。
道化師と同じように、皆、仮面をつけていた。顔こそわからないが、着ている者でその立場が特権階級の者たちだと分かる。
大神殿で、幾度もそういう服を着た者たちに治癒を行ってきたのだ。
中には、クリスティアに治癒を受けた者もいるかもしれない。
そう思うと──寒気が背筋を這い上がってくる。
服だとはとても思えない下着のようなドレスを、クリスティアは着せられている。
鳥籠のような形をした牢獄に入れられていて、頭上からつり下がっている手枷に両手を拘束されているので、体を隠すことさえできなかった。
どんな目にあっても、もう何も思わない。
そう考えていたのに、多くの人間たちの仮面の奥からの粘つくような視線を感じると、ガタガタと体が震えた。
かつて──ファルシア公爵家で、ナディアによって男たちに犯されそうになった日のことを思い出す。
あの時のクリスティアは、何が起こっているのか分からなかった。
今なら分かる。欲望に、穢されるとはどういうことか。あの時、何をされかけたのか。
仮面の奥の視線が、あの時クリスティアを襲おうとしていた男たちの視線と重なって、クリスティアの瞳から涙が一筋こぼれ落ちた。
「二千万! 二千万が出ました! どうでしょうか皆様、二千万で落札でよろしいですか!?」
道化師の空虚な声が会場に響き渡る。
二千万でクリスティアを買おうとしている男は、仮面で顔を隠した体格のいい男で──顔は分からないが、どことなく、イシュトバルを思いだした。
まさか、とは思う。
自分を騙した女に復讐するために、わざわざ高値でクリスティアを買おうとしているのか。
「五千! いいですね!」
次に値段を張り上げたのは、でっぷりと肥えた男だった。
更に、競り合いが続く。価値のない悪女を、皆が高値で買いたがっていた。
次々と声があがり、値がつりあがっていく。
「七千! 七千が出ました! もう、誰もいらっしゃいませんか!? では、七千で──」
七千の値をつけたのは、イシュトバルに似た男だ。
千と書かれた札を七枚。その手に掲げている。
「──五億、出そう。すまないな、五億の札がない。口頭で、失礼する」
道化師の言葉を遮る、低くよく通る声が響いた。
その男は優雅に足を組んで、客席の中央に座っている。
軽く手をあげて、ありえない値段をなんでもないように口にして、口元に薄い笑みを浮かべた。