第八話 月の魔女⑧
地下牢の腐臭は奥へ行くほど強くなる。同時に、それを誤魔化すような青臭さも強くなる。傷によく効く薬草の、独特な冷えた青臭さだ。
(嫌いなんだよな、このニオイ)
ソフィアも長い間世話になっていたそれは、ナートという、浅い外傷からでも肉体に入り込み生き物に寄生する植物である。寄生する際、根を張って傷を塞ぐ性質を持っている。寄生されたからといって苦痛を引き起こすものではないし、古来から止血や治療に用いられてはいるが、皮膚の下を異物が這いまわる様は正直、背筋の粟立つものがあった。
(いやだなあ、ここに入るの)
地下牢獄の最奥。他の牢より広々としているそこは、ナートの群生地になっていた。薔薇によく似た花がゆらゆら不気味に揺れている。ソフィアは無意味に襟元を引き寄せつつ、鍵のついていない鉄柵を開いた。
「失礼します、ヴィンセント様」
ノック代わりにそう言って、ナートをかき分ける。
数歩したところでソフィアは立ち止まった。
目の前には、牢獄に似つかわしくない上等なベッド。横たわっているのは、おびただしい数のナートに寄生された生き物だった。腐臭の原因であり、月の魔女レヴィアが愛する人間の男──だったもの。
「……お加減はいかがですか」
継ぎ接ぎという言葉がソフィアの頭に浮かぶ。
男を形成する肉体は、眼球や四肢、さらに内臓に至るまで、そのすべてが定期的に入れ替えられている。
少しだけ開いている右の目蓋の奥。
懐かしい晴天の青は腐り、朽ちようとしていた。
「レヴィア様が外出されましたので、またしばらくは私がお世話をさせていただきます」
聞こえているのかいないのか、男は虚ろに天上を眺めて息をしているだけだった。
ソフィアは彼を見る度に、自分の過ちを振り返り苦い顔をする。
ヴィンセントは、もうひとつのソフィアの未来だった。魔獣に堕ち、人間に戻るときの激痛に耐え切れず精神が壊れてしまった、憐れな男。本人は生きるのを辞めたがっているのに、魔女はそれを許さなかった。
「……どうしてあなたは、魔獣に堕ちてしまったの」
魔女は決して、彼の過去を話さない。彼をいかに愛しているかは饒舌に語ってみせるのに、ヴィンセントに起きた出来事には頑なに口を閉ざす。
男の、生きる意欲を手放した肉体は生きながら腐っていく。魔女はそんな彼を生かし続けるため、あらゆる人間から、あるいは生き物から、肉体を補っている。
ソフィアは彼を憐れに思う反面、羨ましかった。変わり果ててもなお苛烈に愛されるこの男が。それがたとえ、エゴと執着の塊だとしても。
シディアスは、もはや別人となってしまった自分を、果たして愛してくれるだろうか。
◇
陽霊の国の城は、以前の白い外壁から、黒一色に塗り替えられていた。夜闇と城の輪郭が曖昧になり、窓から漏れ出る橙色の灯りがランタンを浮かべたように瞬いている。
その窓のうちの一つに、ひと際豪奢な作りの部屋があった。瑞々しい花の香りで満たされたその部屋には、大きな天蓋付きのベッドがひとつ。横たわる女の角はシャンデリアの光に照らされ、てらてらと濡れるように煌めいている。
「近頃、人間の間では冒険者の英雄譚が流行っているらしいわね。魔王を殺す勇者が現れて、世界は平和になるそうよ」
抜けるような白い肌が纏うのはシルク地の寝間着。手触りのよい上等な生地は液体のような光沢をもつが、彼女の銀髪はそれ以上の光沢を放っていた。
「『白銀の髪が血溜まりに沈む。月は地平へと堕ち、やわらかな朝陽が世界の夜明けを告げていた』」
枕元で開いた分厚い本の一節を、手入れの行き届いた指先がなぞる。女はぱらぱらとつまらなさそうに目を通してから、妖しく笑った。
「どの本にも、魔王は銀色の角と髪を持っていると記されているわ。セレネア家も随分大きくなったものよね。あれほどヘリオラ家の影に隠されていたというのに」
女は本から手を離し、同じくベッドで横になっている青年の黒髪を撫でた。形の良い頭には歪に欠けた角が生えており、淡い光を絶え間なく漏らしている。
「ヘリオラ家の末裔として不満はないのかしら? シディアス前国王陛下」
撫でられて気持ちよさそうに瞳を閉じていた青年は、緩やかに目蓋を持ち上げる。
「不満なんてあるわけないだろ。もともと僕は、王の器じゃなかったんだ」
赤い瞳を憂いに染めながら、自身を嘲笑する。緩慢な動きで体を起こすと、青年は覆いかぶさるように女に跨った。
「ルナ様。愛おしい我らが女王陛下。君の寵愛さえあれば、僕は満足だよ」
シディアスの答えに、女の唇は弧を描く。
「お望み通り、今夜もたくさん愛してあげるわ」
ルナは軽く上体を持ち上げて彼の薄い唇に口付けをする。耽美を極めた二人の魔人は互いに愛を囁きながら、温度差のある肌の心地よさに沈んでいった。