第七話 月の魔女⑦
シディアスの角は日毎に大きくなっていた。
補助をされなければ身を清めることも、食事を摂ることもままならない。首はどんどん歪んでいき、視界はいつも斜めに傾いている。
けれど、シディアスの心は晴れ晴れとしていた。愛おしい少女が、自分に微笑みかけてくれるから。
「ソフィー、今日も綺麗だ」
もうティーカップも持ち上げられないほどに弱り切った腕に力をこめ、手の甲で少女の頬を撫でる。ソフィアが甘えるように頬を擦りつけると、少年は蕩けるように目を細めた。
そんな顔ばかり見ているから、少女は、シディアスが自分以外に見せる冷徹な表情には未だに慣れなかった。
シディアスは、無慈悲な決断をすることがある。特に配下である魔人には容赦がない。少しでも気に障ることをすれば、命までは奪わずとも腕の一本は簡単に吹き飛ばした。
魔人族では角の大きさが全てを決める。単純明快な階級制度だが、そのぶん暴君も生まれやすい。シディアスにはその片鱗が見え隠れしていた。強者としての驕りと、強者ゆえの孤独。さらにその二つを押し込める肉体が病弱とくれば、宿るのは不健全な精神である。王の器でないことを、周囲の魔人たち、そしてシディアス自身でさえ理解していた。けれど、生きている限りその使命から逃れることは出来ない。
「ソフィアがいるから頑張れるよ。君がいないと、僕はもうだめだ」
彼の角が大きくなるにつれて、彼がソフィアに向ける愛情には歪みが生じていった。重度の依存。分離不安による癇癪。以前は席を外させていた公務の時でさえ少女を片時も離さないようになっていたシディアスを、ソフィアは痛々しく思うようになった。
森を自由に駆けまわる美しい少年の面影は、もうどこにも残されていない。
ソフィアは緩慢な動きで、彼の角に手を伸ばした。
『──角を折るって、どうやって』
日没。夜の気配が中庭を包み込む。手を握り込むルナの角は、辺りが暗くなるにつれてより輝きを強めていく。
『魔人の角を折るには、同等の魔力を持つ必要がありますわ。大丈夫。人間でも、一時的に私たちと同じように魔力を手に入れることができますの』
ルナは形の良い唇に緩やかな弧を描く。
『齧りつけばよいのです。魔人の角は、魔力の塊でもありますから』
角の根元はごつごつしていて、岩のように硬い。外皮は分厚いが、それでも感覚があるのか、シディアスはくすぐったそうに笑った。けれどすぐに「あぶないから触らないで」とソフィアを柔らかく押して遠ざけようとする。ただの戯れだと思ったのだろう。しかし押されてもなお角に触れる少女に、シディアスは目を丸くする。
「ソフィー?」
赤い瞳が不安そうに揺れた。ソフィアは何も言わず、彼の頭を抱えるように抱きしめる。角の根元に鼻を寄せると、陽だまりの匂いが鼻腔を満たした。普段、そんな風に抱きしめられたことのなかったシディアスは、顔を真っ赤にして硬直する。
「だ、大胆だね」
ドキドキしながら、シディアスは細い腕を少女の背中に回す。
「す……っ、好きだよ」
そう言葉を零すと、少女からも同じ言葉が返ってきた。ああ、なんて幸せなんだろう。シディアスは口付けをせがもうと、彼女の胸元を軽く押してみた。
「ソフィー、キス……」
キスしたい。そう、言葉を続けようとした。けれど、頭上で響いた異様な音を耳にし、彼は呆気に取られることとなった。
──ガリッ、ガリッ、ギシッ
「っ、え?」
頭蓋を響かせるような振動。ソフィアが、彼の角に噛みついていた。
「な、なにを!」
少女は二本の角の根元を深く握り込んで、歯が折れそうになりながらも必死にそれに齧りつく。途端に焼かれるような、熱した鉄をそのままに流し込まれるような壮絶な魔力が、激痛と共に小さな口内を満たした。
シディアスは慌てて彼女を引き剥がそうとする。しかし弱りきった細い腕は、ドレスの布を掴む程度の抵抗しかできなかった。
(熱い、痛い、苦しい)
角は少し外皮が剥がれたくらいで健在だった。ソフィアはそれを忌々しく睨みつけながら、口内の魔力を無理やり喉の奥へ押し込む。食道を熱球がジリジリ炙っていく、そんな痛みに耐えきると、ソフィアの肉体は凄まじい全能感で満たされた。
(ああ、これなら──)
ソフィアは角から口を離し、根元を掴む腕に力を込める。およそ人智を超えた膂力により、巨大な角に何本もの亀裂が走った。ひび割れた隙間から光が迸る。太陽の光を凝縮したような、苛烈な閃光だった。
岩のように硬い角は、直後呆気なく砕け散った。
これまでシディアスを蝕んでいた重みが消える。それは同時に、魔人としての誇りを失ったも同然だった。
「僕を裏切ったのか……?」
少年の口がわなわなと震える。その言葉を無視し、少女は大きな角の破片を拾い上げると、うっとりと、けれど意識が抜け落ちてしまったかのような目で、それに齧りついた。
人間は時に、魔人の力欲しさに魔角を喰らう。陽霊の国の威光が届かない地域では、魔角のために幼い魔人が無残に殺されることもある。
もちろん、魔人が人間をいたずらに殺すこともあった。種族に限らず、そういった輩がいるのは理解している。理解しているが、共存の形を取っていても、魔力を生み出せない人間に対する差別的な感情は、シディアスの潜在意識に蓄積していた。
「人間の……害虫の分際で、よくも……よくも僕の角を!!」
その咆哮は、ほとんど少女の耳には届いておらず。彼が、魔力を著しく失ったことにより嘔吐したところでようやく、正気を取り戻したようだった。
自分がなぜ砕けた角を口にしているのか、どうしてシディアスは苦しそうにしているのか、ソフィアはわからなかった。角を砕くため力を込めたところまでは覚えている。けれど、そのあとのことがすっぽりと抜け落ちているのだ。
『──角を折るだけで、シディアス様の命は救われます。簡単なことでしょう?』
ルナは果たして、こうなることを予期していたのだろうか。
ソフィアは自分の肉体が瞬く間に作り変えられていく痛みと恐怖に、シディアスの名を縋るように叫んだ。けれど、濁流のように押し寄せる激痛から逃れることはできなかった。
内臓がかき回されている。口から血があふれ出す。
やがて痛みに耐えかねた肉体は、強制的に意識を閉ざすことにしたらしい。
次に目覚めたとき、ソフィアは森の中にいた。
視界は激しく揺れていた。誰かが、自分を抱いて森の中を走っているようだ。
鬱蒼と茂る木々に月光は遮られているはずなのに、ソフィアの視界はまるで真昼のように鮮明だった。
(……エイド?)
ソフィアを運んでいるのは、同郷の青年。一体なにが起きているのか、ソフィアが尋ねようと口を開くと、聞こえたのは獣の言葉。くうん、と情けない声が、エイドの鼓膜を震わせた。
「……っ、あともう少しだから」
エイドは汗だくになりながら走り続ける。
どこへ向かっているのか見当もつかなかったソフィアは、まだ曖昧な意識のなか、シディアスのことを考えていた。
揺られ続けて、二人が辿り着いたのは丸太を積み上げた木の家。エイドは玄関の手前でどさりとソフィアを落とすと、ガンガンと扉を叩く。
「レヴィア様、いらっしゃいますか! レヴィア様──月の魔女様!」
真夜中の来客に、小屋の中から出てきたのは月光を宿す美しい魔人。まるでルナをそのまま大人にしたような容姿の彼女は、ソフィアを一瞥したのちエイドに向かって微笑む。
「右目だ。それで手を打とう」
エイドは一瞬息を詰める。けれどすぐ、こくりと頷いた。
ソフィアは魔女の手によって乱雑に、扉の奥に引きずり込まれる。分厚い本や薬草、薬研に陶器の器。雑然と立ち並ぶそれらをかき分けて、血の跡を引き延ばしながら辿り着いたのは、腐臭の漂う地下牢獄。
「お前は陽だまりのいい匂いがするね。懐かしい」
不気味な地下室は、魔獣の唸り声でひしめいている。
「言っておくけど、人に戻るのは魔獣に堕ちるより辛いからね。切って、削いで、縫う。それの繰り返し」
魔女は牢獄のひとつにソフィアを放り込んで、その四肢を鎖で壁に繋ぎ止めた。
「名前はなんていうの?」
ソフィアの毛皮を撫でながら、魔女が問う。それに返答した少女の言葉はやはり、獣のそれだった。けれど魔女は、まるで言葉がわかるというふうに頷く。
「ソフィア。お前、好きな男はいる? ……へえ、シディアスか。これまた大層な名が出てきたもんだ。
これから、お前は地獄を味わうことになるよ。死んで楽になった方がいいと思えるほどの激痛だ。だが、また好きな男に会いたいのなら我慢できるさ」
魔女はソフィアの顎を軽く掻くように撫でてから、彼女の体毛の一部を切り取った。ひと房の黄金にふうっと息を吹きかけた彼女は、それをエイドに手渡す。
「お前、そのローブは陽霊の国の魔法使いだろう。魔獣を匿ったとなれば極刑は免れない。これを持ち帰るといい」
「……! これは」
エイドが体毛を手にした瞬間、走馬灯を見るように、彼の脳内をとある光景が駆け巡った。ソフィアが、森の中でエイドに殺されるという幻だ。
「物に宿る記憶をほんの少し弄っただけだ。不満か?」
「……いえ」
「よろしい。さて、魔獣治療の対価は前払いだ。お前の右目をいただこう」
魔女はエイドの頬に手を添える。彼は覚悟していたが、反射的に肉体を魔力で覆って防御してしまった。人間でありながら、魔人の城に仕えるほどの天才である。その防御は並みの魔法使いではまず破ることのできない障壁であった。だが、魔女にとっては薄い膜に等しかった。爪の先で軽くつついてやるだけで、彼の魔法障壁は瓦解した。
「そう構えるな。少し痛むくらいさ」
魔女は薄ら笑いを浮かべながら、彼の眼球をくりぬいた。
「────っ」
魔女の手に乗ったのは、晴天を思わせる美しい青色をした瞳。
「ありがとう、大切に使わせてもらうよ」
「……ソフィアを、頼みます」
エイドは落ち窪んだ右目を手で覆いながら、その場を後にした。
「あれは勇者の器だな。手に入らないのが口惜しい。……けれど」
魔女は眼球を弄びながら、ソフィアに視線をやる。
「いいものが手に入った。お前の要らない内臓もいくつか、夫に使わせてもらうからね」
魔女は魔獣化したソフィアの治療をその日のうちに始めた。
一年半。それは少女が牢獄に繋がれ地獄を味わっていた期間を指す。こびりついた古い血に触れると、ソフィアの指がかすかに汚れた。
ここへきて、もう四年になる。齢は十八を迎えようとしていた。彼女は地獄を耐え抜き、いまではすっかり人の形を取り戻していた。──見た目だけは。その外見に、かつてのソフィアの面影はひとつもない。ただひたすらに美しい、黄金の髪を持つ少女がそこにいた。
シディアスが愛してくれた平凡さを失ったソフィアには、もう、彼の元に帰る意思は残されていなかった。