第六話 月の魔女⑥
「少しお話がありますの」
よろしいかしら? と微笑む彼女の仕草はどこをとっても上品であり、ソフィアの付け焼刃のお姫様ごっこを嘲笑うようでもあった。
「は、はい……」
「中庭に行ったことはございまして? 綺麗な花がたくさん咲いてますの」
ルナはそっと、ソフィアの手を包むように握る。一瞬、冷気のような肌に手を引っ込めそうになったが、貴族相手に不遜な態度は許されない。ソフィアはそのまま手を引かれて、中庭に向かった。
「わあ、すごい……!」
ソフィアの緑の瞳には、極上の景色が広がっていた。広々とした中庭は噴水を中心に、様々な植物の花壇が極彩色を生み出している。午後の柔らかな日差しのもと、濃厚な香りが二人の少女を出迎えた。
「ふふ、お気に召したようね」
目を細めたルナはするりと手を解き、軽やかな足取りで中庭へと踏み出す。
建物の影から陽の当たる場所に出た彼女の角は、いっそう煌めいて見えた。
花に囲まれているルナは、それだけで絵になる。その光景を眺めていると、ソフィアはどうしようもない劣等感に襲われた。
シディアスから与えられたドレスも、髪飾りも、どれも一級品であることに間違いはない。けれど中身がそれに伴わなければ、滑稽という以外なにが当てはまるだろう。
「ソフィア様、来てくださる」
手招きされたソフィアは引き攣った笑みを浮かべながら、ルナが腰かける噴水の元まで歩いていった。
「この庭は、私が手入れをしていますの」
いくつか花弁の浮かぶ水面は、飛沫によってさざ波を作っていた。ルナはそこへ手をかざすと、囁く。
「『従え』」
低く、脅すような口調に大きく震えあがったのは、ソフィアではなく水面だった。大粒の水滴が一斉に跳ね上がる。そして軍隊のように乱れのない列を成すと、あっという間に空へと浮かぶ。ソフィアが見守っているなか、ルナが指揮するように指を動かすと、それぞれの花壇へと水滴が降り注いだ。
「私の魔力を水に含ませているから、ここの花は育ちもよく、色も鮮やか。昔は、どこの土地もこのように美しい景色が広がっていたそうですわ。世界は魔力と生命力に満ち溢れていたの」
ルナは赤みが差し始めた空を見つめる。
「けれどここ百年で、魔力がすっかり干上がってしまった土地がいくつもある。それはなぜだか、おわかりになって?」
遠い場所を眺めていた瞳が、きろり、ソフィアの方を向いた。大きな二つの月は、静かに怒りを孕んでいるように思える。
「え、ええと……」
ソフィアは言い淀んだ。頭のなかには既に答えが出ている。しかし答え方によっては人間と魔人の確執に言及することになる。ルナが、それを自分に言わせてどうしたいのかが、わからなかった。
「……人間が、魔法技術の研究に膨大な魔力を消費したせいだと、聞き及んでおります」
ソフィアは正直に答えることにした。ここで下手に誤魔化そうとすれば、彼女の機嫌を損ねるような気がしたから。
「仰る通りですわ」
ルナが深く頷いたことに、ソフィアはほっと胸を撫で下ろす。
「人間には魔力を生み出せる器官が存在しない。だからこそ、土地にある魔力を吸い上げて使うしかないんですの。水や陽の光のように、自然から享受するという形で。我々魔人族のなかでは、人間が魔法を使うことに異を唱える者も少なくありません。水や陽の光と違って、人間は魔力がなくても生きられるでしょう?」
胸を撫で下ろしたはいいが、なんだか遠回しに咎められているような気がして、落ち着かない。ソフィアは自身の手を膝の上で重ねて、きつく握った。
「人間を排除してしまおうという動きは、これまでに何度かありましたの。けれど、ヘリオラ家はそれを許さなかった。人間は魔力に愛されなかったけれど、それだけに魔法技術への探求心が凄まじい。共に生きることが、魔人の繁栄にもつながると。そうそう、私の魔法の先生は人間なの。あなたと同じ集落の……エイド、だったかしら」
エイド。その名が貴族の口から出るとは思わなかった。
ソフィアに頭を下げに来た記憶がまだ新しい、宮廷魔法使いの青年だ。まさか、そんなことまで仕事にしていたとは。
「幼いころに少し教わっただけだけれど。この水撒きも、彼に教えてもらった魔法のひとつなんですの」
誇らしげにするルナに、ソフィアは愛想笑いを返した。まだ、彼女がどうして自分を中庭まで招いたのか理由がつかめない。
「それで、あの、話とは」
少しずつ青ざめていく空に、ソフィアは焦っていた。シディアスになにも告げず、彼女についてきてしまったから。正直、婚約者という立場からの嫌味を少し言われるだけだと思っていたのだ。
「ああ、ごめんなさい私ったら。前置きが長くなってしまって。今日はソフィア様にお願いがあってお連れしたの」
「お願い、ですか」
「ええ。シディアス様に関するお願い」
(──やっぱり、シディアスに関してか)
別れろとか、城から出ていけとか、そういう類なのだろう。ソフィアは頭の中でどう答えるか必死に言葉を探していたが、再び冷たい肌に手を握られたことによって、思考が停止する。
「シディアス様を助けて欲しいの。これはあなたにしか……シディアス様に深く愛されているソフィア様にしか、できないこと」
「私に、だけ?」
ソフィアは大いに混乱した。目の前にいるのは恋敵だとばかり思っていたから。
「シディアス様の命は、そう長くありませんの。もってあと、一年」
十五歳まで生きられない。ソフィアの頭で、再びメイドの声が響く。
「けれどそれじゃ困りますの。シディアス様の魔力は生命を祝福する特別なもの。あなたも見たことがあるでしょう? 彼の歩いた場所から、命が芽吹くさまを」
ソフィアは頷く。魔法よりももっと奇跡に近いなにかを、少女は彼から感じ取っていた。
「シディアス様に流れる太陽の獣の血は、干上がった大地に再び魔力を満たすことができる。ヘリオラ家の血を絶やすことは、魔人にとっても人間にとっても、大変な損失。でも、だれも彼を救ってあげることはできない。そう思っておりましたわ。あなたが来てくれるまでは」
ルナは祈るようにして、ソフィアの手を握り込んだ。
「お願い、ソフィア様。どうかシディアス様の魔角を……太陽の角を、折ってくださいませ」