第四話 月の魔女④
「……久しぶりだね、ソフィー」
「……っ」
微笑んだシディアスに、少女は喉を引き攣らせる。
少年の首元にはコルセットが巻かれていた。数々の宝飾品で彩られているが、それは着飾るためのものではない。首を保護するためだとひと目でわかる。なぜなら彼の頭には、華奢な首では到底支えきれないような、異様に発達した巨大な角が聳えていたから。
「し、シディアス……」
彼女が狼狽えながらも彼の名を呼ぶと、またしても強い力で後頭部が掴まれる。
「何をしている、頭を下げないか!」
少女以外みな、彼の前にひれ伏していた。ソフィアの頭を必死に下げさせようとしていたのは、ソフィアを小汚い人間と誹ったローブ男。あまりの力の強さに首の骨が軋んだような気がしたが、すぐに解放される。同時に、男の悲鳴が玉座の間にこだました。
ソフィアを掴んでいた彼の腕が、肩から切断され宙を舞う。
「……丁重にと言ったはずだが?」
何が起きたのか理解できなかった。それをやったのがシディアスだということ以外は。
気怠そうに、少年は軽く持ち上げていた手を肘置きに戻す。転がった腕を拾い上げることも許されないヒリついた空気が、この場を支配していた。
「もう下がっていいよ、お前たち。ソフィーと二人きりにしてくれ」
「……っ、で、ですが! 人間と二人きりになるのは」
声を発したのは、いままさに腕を飛ばされた男だった。切断面は魔法による治癒が始まっており、既に血は止まっている。腕を切断されたと同時に捲れ上がったローブの下にあったのは、月のように美しい銀色の髪と一対の角。神経質そうな細い眉は苦悶に歪み、眉間には深いしわが寄っている。
「せめて、お付きのものを」
初老ほどの年齢に見える彼がシディアスに向けたのは、懇願するような、酷く情けない声音だった。
「ふうん」
少年は無表情のまま、下ろしたばかりの腕を緩やかに持ち上げる。黒く艶やかな爪を従えた人差し指が、跳ね上がった。
「──いぎっ」
ソフィアの耳のすぐそばを何かが、とても目では追いつけない速度で横切る。びゅん、と風切り音がしたと同時に、男の、もう片方の腕が落とされた。
「下がれ。次は首だ」
これまで聞いたことのないほど、冷え切った声だった。森で戯れていた時の少年とは別人ではないかと疑うほどの──いや、別人であって欲しいと願ってしまうほどの恐怖に、少女の背中を嫌な汗が伝う。
ローブ姿の男たちはぞろぞろと玉座の間を出ていく。残されたのはソフィアと血痕だけ。少女はその血から目を離せないまま、立ち尽くした。
「……ソフィー?」
窺うような声に、ソフィアがようやく顔を上げる。視線の先には、柔らかく微笑むシディアスの顔。
「いきなり城に呼びつけて、驚かせたよね。ごめん」
来てくれる? と、彼は腕を広げた。シャラ、と衣服の宝飾品が鳴る。普段の軽装とは違い、光沢のある生地は重量を感じさせた。裾はつま先まで隠れて、歩くことを端から考えていないような印象を受ける。
「シディアスは……王様、だったんだね」
「つい先日即位したばかりだけどね。父も母も、短命なんだ。そういう一族だから仕方がないけど」
そういう一族、と彼は平坦に言った。長い袖からちらりと見えた手首は、以前よりずっと細くなっていた。ソフィアはゆっくりと彼に近づき、差し出された手を取る。
「どうして私を呼んだの? 王様なのに、私みたいな庶民と会っていたらダメだと思う」
「いいんだよ。ここでは僕がルールだから。ソフィーは知らないだろうけど、僕ってすごく強い魔人なんだよね」
彼は残された血痕を一瞥してから笑みを浮かべる。
「誰も僕に逆らえない。……君以外は」
シディアスは少女の頬に手を添え、輪郭を確かめるように撫でる。
「初めて会った時のことを覚えてる?」
「もちろん」
「あのとき、僕は君に殺すつもりで魔力を放ったんだ。さっきみたいに。でも、君は顔色一つ変えなかった。初めてだったんだ。普通に接してくれる女の子は」
「そ、それは、私がただの落ちこぼれだから……」
「君の個性だよ、ソフィー。僕は君に救われたんだ。一生、誰とも対等な関係を築けないと思っていたから。短い、ただ死んで国の礎になるだけの僕の生涯を、君が彩ってくれた」
赤い瞳が細められる。愛おしいものを見るときにする眼差しに、ソフィアの胸はすっかり恐怖心を忘れて高鳴った。
「君が好きなんだ。ただ、そばに居てくれるだけでいい。君を他の男に渡したくない」
「あ……」
十四歳になれば、彼女は顔も知らぬ男に娶られる。知らない土地で心細い思いをしながら夫の機嫌を取る日々を想像し、辟易とした回数は数えきれない。
「不自由はさせないよ」
その言葉は少女の鼓膜を甘く震わせた。
憧れの城。美しい王様。不自由のない生活。
ソフィアも女の子だ。おとぎ話に出てくるようなお姫様の暮らしを夢見たことは何度かある。それに、シディアスがたとえ魔人の王でなくとも、恋人になれたらいいなと、淡い期待を抱いていたのも確かだった。
だから、彼女は頷いた。
磨き抜かれた大理石を濡らす鮮血から、目を逸らして。